第二話 書類しか取り柄がない
舞踏会の翌朝、父は朝食の席に現れるなり銀のナイフを皿へ叩きつけた。
「お前は昨夜、何をしたか分かっているのか」
焼き立てのパンの香りも、濃い茶の湯気も、その一言で消し飛ぶ。
私はカップをソーサーへ戻し、膝の上で指先を組んだ。
「婚約破棄を受け入れ、必要な権利の確認をしました」
「人前でダールトン家の会計に言及しただろう!」
「寄付金の用途変更に承認印が足りなかったので」
「そういう話ではない!」
父、レーヴェンベルク伯爵は顔を赤くした。
領地運営では堅実だが、中央社交にはひどく弱い人だ。強い家と結ぶことを何より重んじ、そのためなら誰が何を我慢するかを迷わない。私の婚約も、そうして整えられた。
母はうつむいたまま何も言わない。
兄は露骨にため息をついた。
「フェリクス様は、ぎりぎりまでお前を庇ってくださったのだぞ」
兄のクラウスが言う。
「だが、お前はあまりにも愛想がない。家名のために微笑むことすらできなかった」
「必要な場では笑っていたと思います」
「その必要を誰が決める?」
「少なくとも、寄付金の帳簿を二晩で作り直せと命じた方々ではありません」
言ってから、少しだけしまったと思った。
兄は露骨に顔をしかめる。
「まだ言うか。お前は昔からそうだ。数字と紙ばかり見て、人の気持ちを考えない」
「でしたら、人の気持ちをよく考えるあなた方が、なぜ私にだけ徹夜で作業を押しつけたのですか」
食堂が静まり返る。
父は「生意気な」と吐き捨てた。
生意気。
冷たい。
笑わない。
書類しか取り柄がない。
昨夜から繰り返し浴びせられる言葉なのに、不思議と今朝の私は、そこまで傷ついていなかった。たぶん、痛むより先に整理してしまったのだ。何を奪われ、何を取り返せるかを。
私はあらかじめ用意していた封筒を食卓へ置いた。
「本日付で、王都監査補佐の外部業務委託契約を終了しました。私名義で引き受けていた慈善基金の監査、侯爵家向け税案の下書き、月次決算表の整形業務、社交寄付の管理台帳、そのすべてを今後はお受けしません」
「なっ……お前は何を言っている」
「代わりの方をお探しください」
父が封筒を乱暴に開く。
中には契約終了届と、すでに押印済みの受領確認書。昨夜戻ってから、寝ずに作った。
「こんなもの無効だ!」
「いいえ。有効です。父上の印章魔力は先月の領地会議でお借りした際、予備承認枠に残っていました」
「お前……!」
契約書の継ぎ目を走る淡い光が、私には見える。
取り消し不能の線だ。父は言葉を失った。
そこで私は、最後の一枚を差し出した。
王家文書院の封蝋が押された正式な辞令である。
「それと、こちらは私の新しい赴任先です」
「赴任先?」
「北辺フェルンベルク公爵領グラナート港、辺境税関文官補佐」
兄が吹き出した。
「北辺だと? 流刑地みたいな場所じゃないか」
「ええ。だから選びました」
「選んだ?」
「自分で応募しました。三週間前に」
顔を上げた母の目が、初めて大きく揺れた。
父は信じられないものを見るように辞令へ目を落とし、やがて怒声を上げる。
「なぜ私に相談しない!」
「相談して、許可していただけると思いませんでした」
「当たり前だ! 伯爵家の令嬢が、そんな荒くれ港町へ単身赴任など」
「婚約が続いている前提なら、そうでしょうね。でも破棄された今、私は厄介者です。王都で嘲笑を浴びながら親族の使い走りになるより、遠くで働く方がまだ建設的です」
兄が鼻で笑う。
「働く? 税関だぞ? お前にできるのか」
「書類しか取り柄がないので」
自分で言うと、皮肉は思いのほかよく響いた。
兄が黙る。
父は額を押さえた。
「お前は分かっていない。北辺は中央の常識が通じん。海賊まがいの商人、粗野な兵士、腐った役人……。あそこは、上品な帳簿遊びが通じる場所ではない」
「だからこそ、私の仕事があります」
昨夜から、頭の中に同じ考えが何度も浮かんでいた。
契約は人を縛る。縛るからこそ守る。
けれど、それを読む者がいなければ、紙はただの隠れ蓑になる。
王都で私がやってきたのは、たいてい他人の顔を立てるための後始末だった。
なら今度は、私自身のためにその力を使いたい。
「本日中に発ちます」
「そんな急に」
「向こうは人手不足だそうです。歓迎されるかどうかはともかく、仕事はあります」
母がやっと口を開いた。
「アイリス……北辺は寒いわ。ちゃんとした外套を持って行きなさい」
「はい、お母様」
それだけだった。
引き留めるでも、励ますでもない。
でも、あの人なりの精一杯なのだろうと思った。
部屋へ戻ると、侍女のノーラが目を真っ赤にして荷造りをしていた。
持って行くのは少ない。丈夫な服、記録帳、羽根ペン、印章用インク、契約用の小型封蝋炉、それから自分で買った数冊の法令集。宝石箱は閉じたまま置いていく。
「お嬢様、本当に行ってしまわれるのですか」
「ええ」
「ひどいです、皆さま。お嬢様ばかり働いていたのに」
「そうね。でも、ノーラ。怒ってくれてありがとう」
言うと、彼女はとうとう泣き出した。
私は困って、けれど少しだけ嬉しくて、ハンカチを差し出した。
昼前、玄関口に馬車が回された。
見送りに出たのは母とノーラだけだった。父も兄も顔を見せない。
私はレーヴェンベルク家の紋章が刻まれた門を振り返る。
二十一年暮らした家なのに、妙に遠く感じた。
そのとき、通りの向こうからひときわ派手な馬車が見えた。
ダールトン侯爵家のものだ。窓の薄布越しに、見慣れた影が揺れる。おそらくフェリクスだろう。私の出立を知っていたのかもしれない。けれど馬車は止まらず、そのまま大通りへ消えていった。
もういい。
追いかけられても困るし、追いかけられなくても困らない。
馬車に乗り込んで扉が閉まる。
車輪が回り始めた瞬間、不意に胸が詰まった。
これで本当に終わりだと、遅れて実感したのかもしれない。
それでも涙は出なかった。
代わりに私は、膝の上の辞令をもう一度開き、行き先の文字を指でなぞる。
北辺フェルンベルク公爵領グラナート港。
王都から最も遠い場所。
私にとっては、初めて自分で選んだ場所だった。




