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第一話 婚約破棄は舞踏会で

書類は嘘をつけない。

少なくとも、私には。


春の夜会を飾る大広間は、磨き上げられた床も、金糸の幕も、吊り下げられた無数の魔石灯も、すべてが「華やか」という一語に収まるよう整えられていた。けれど私の目は、そんなものではなく、正面に立つ婚約者の指先にしか向いていなかった。


フェリクス・ダールトン。

艶のある栗色の髪を後ろへ流し、完璧に仕立てられた礼服をまとった侯爵令息。社交界では「財務院の若き俊英」と持てはやされる男だ。

そして私、アイリス・レーヴェンベルクの婚約者でもある。


その彼が、わざわざ楽団を止め、会話を途切れさせ、人が見守る輪の中心に私を立たせた時点で、ろくでもないことになる予感はしていた。


「皆の前で申し上げたいことがあります」


張りのある声が大広間へ響く。

招待客たちの視線が一斉に集まり、ざわめきが広がる。父は少し離れたところで満足げに顎を引き、母は扇の陰で不安そうに眉を寄せていた。


私は黙ってフェリクスの右手を見た。

中指にはめられた紺碧の印章指輪。その表面を薄い金の線が這っている。あれは誓約魔法の残滓だ。私たちの婚約契約に使われた印だが、今夜は契約の温度がひどく低い。冷えきった紋様の縁には、細かな亀裂まで見えている。


この場は、ずいぶん前から用意されていたのだろう。

台詞も、見せ方も、証人の配置も。


「アイリス・レーヴェンベルク嬢。私はあなたとの婚約を破棄します」


予想通りの宣言に、大広間の空気が一拍遅れて揺れた。

驚きの息。好奇の囁き。どこかで誰かがグラスを取り落とし、甲高い音が鳴る。


それでも私は、静かに問い返した。


「理由をうかがってもよろしいでしょうか」


「理由?」

フェリクスは肩をすくめ、あくまで自分が理性的な被害者であるかのような顔を作った。

「もちろんです。むしろ皆に知っていただきたい。あなたは優秀だ。帳簿の整理も、契約の確認も、間違い探しも得意だろう。だがそれだけだ。あなたは冷たい。笑わない。人の痛みに鈍い。侯爵家の妻として、社交を支え、民を慈しみ、周囲を照らす光にはなれない」


彼の左隣に、やわらかな金髪の少女が立っていた。

白いドレス、控えめな真珠、少し怯えたような目。最近、慈善院への支援活動で名を上げているセシリア・ルーメルだ。平民出ながら王家の後援を受け、「次代の聖女候補」とまで呼ばれている。


フェリクスはその肩に、守るような手を置いた。


「私は、真に人を救える女性を伴侶に選びたい。セシリア嬢のように、温かく、思いやりに満ちた人を」


ああ、と私は胸の内だけで頷いた。

そういう筋書きなのね。


セシリア嬢は戸惑った顔をしていた。少なくとも今この瞬間、彼女自身が主導しているわけではないらしい。視線が落ち着かず、指先も震えている。彼女の胸元で揺れる小さな青石には、保護契約の痕がある。王家か、教会か、あるいはその両方。手厚く守られている人の印だ。


「つまり私は、書類には向いていても妻には向いていない、と」

「そういうことだ。君は優秀だよ。だが人間味がない」


人間味。

ずいぶん便利な言葉だ。


契約に抜けがないか確認し、領民の負担が増えないよう数字を詰め、寄付金が横流しされていないか帳簿を読み込む。それらは全部、華やかな社交に比べれば「冷たい」仕事に見えるのかもしれない。

けれどフェリクスの評判を支えていたのは、その冷たい仕事を引き受けてきた私の手だ。


私は胸の前で手を重ね、できるだけ平坦に言った。


「承知いたしました」


今度こそ周囲のざわめきが大きくなる。

おそらく誰もが、私が泣くか、怒るか、取り乱すかを期待していたのだろう。父でさえ、目を見開いていた。


フェリクスの口元がわずかに引きつる。


「……ずいぶんあっさりしているんだな」

「長く準備をなさっていたのでしょう。こちらが騒いでも、段取りの邪魔になるだけです」

「段取り?」

「今夜の発言順、証人の立ち位置、楽団を止めた合図、王家後援の御令嬢を隣に置く演出。きれいに組まれています。感心いたしました」


彼の指輪の表面を走る金線が、ぴくりと乱れた。

嘘を指摘された時の揺れだ。


私は続ける。


「婚約破棄そのものに異議はありません。ただし、婚約に伴う共同管理資産と、私が過去三年にわたり作成した契約草案、寄付監査資料、税制改善案については、私個人の成果物として引き上げます」

「は?」

「私の署名魔力が入った文書です。ダールトン家の保有を認める条項はありませんでした」

「そんなもの、今この場で持ち出す話では……」

「婚約破棄をこの場でなさったのは、そちらです」


笑いをこらえる気配がどこかで漏れた。

フェリクスのこめかみがぴくりと動く。


「それに、共同慈善基金の第三会計簿も返却していただきます」

「何のことだ」

「今年一月から二月にかけて、ダールトン家の別口座に三度移された寄付金です。帳尻は合っていても、用途変更の承認印が足りません。あれは後で確認させてください」


これは賭けではない。

見えているのだ。彼の懐にある封筒、その封蝋の色、指先に残る誓約紋の濁り。彼は今日、複数の文書を急いで差し替えた。いつものことだ。けれど、私がもう彼の側にいないなら、隠すために整えてやる義理もない。


「アイリス」

父が低く名を呼ぶ。

その声には、娘を案じる色よりも、場を乱すなという圧が強かった。


私は一度だけ父を見て、それからフェリクスへ向き直った。


「最後に確認です。婚約破棄は双方合意、慰謝や違約金の請求は相互になし。そう理解してよろしいですね」

「……ああ、いいだろう」

「ありがとうございます。では、失礼いたします」


私は一礼し、踵を返した。


そのとき、背後からフェリクスの声が飛んだ。


「待て、アイリス。君は本当にそれでいいのか」

「いいもなにも、あなたが選んだことでしょう」

「君は、後悔するかもしれないぞ」


私は立ち止まり、半身だけ振り返る。


「後悔するのは、署名の意味を理解していない方です」


言い終えて歩き出した私の背に、無数の視線が刺さる。

けれど涙は出なかった。

代わりに、胸の奥で何か硬く締められていた帯が、ひとつほどけていくのを感じていた。


大広間の外へ出た瞬間、ひやりとした夜気が頬を撫でる。

ようやく息ができた。


私は手袋の中で指を握る。

震えている。怒りなのか、安堵なのか、自分でもよく分からない。


ただ一つ、確かなことがあった。


今夜から、私はもう、誰かのために黙って帳簿を整えるだけの女ではいない。

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