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番外編四 春の港、未来の帳簿

春の最初の船が入った朝、港にはまだ薄い霧が残っていた。


私は庁舎二階の窓を開け、潮の匂いを吸い込む。

少し冷たい。けれど冬の痛さではない。これから動き出す季節の匂いだ。


机の上には、新年度の帳簿と、新しい公開台帳の見本、それから婚礼準備の進行表まで並んでいる。

仕事と私事がここまで自然に同じ机へ乗る日が来るとは、昔の私なら想像もしなかっただろう。


「総監、第一便の受領確認です」

トマスが紙束を持って入ってくる。

「診療所分、港湾兵分、学校用の紙束もあります」

「学校用?」

「読み上げ教本を増刷するそうです」

「ああ」

思わず口元が緩む。

契約の読み方を子ども向けにまとめたあの教本は、思った以上に好評だったのだ。


続いてマルタさんが入ってくる。

「婚礼の出席名簿、最終確認お願いします」

「もうそんな時期ですか」

「もうです」

「早いですね」

「総監が忙しすぎるだけです」

「否定できません」


昼前にはセシリアから診療所の報告が届いた。

寄進薬草の受領数、患者数、使途残高。

欄外に、小さく追記がある。


『今月は誤請求ゼロでした。少し誇らしいです』


私は思わず笑ってしまった。

こういう小さな報告が、たまらなく好きだ。


午後、庁舎前の広場では、春の臨時市場が開かれた。

小商会の露店、薬草茶、焼き菓子、干魚、布売り。大手が握っていた頃には見えなかった小さな商いが、今では当たり前の景色になりつつある。

完璧ではない。

問題も、抜け道も、これからまた出てくるだろう。

でも、それでも前よりずっと良い。


日が傾く頃、私は最後の書類へ署名した。

『新年度労働契約読み上げ会 実施計画』

紙の端に、春の光が柔らかく落ちる。


扉が開き、見慣れた濃紺の外套が覗いた。

「そろそろだ」

レオンハルト公爵が言う。

「第五条ですか」

「今日は違う」

「では何ですか」

「迎えだ」

「同じでは」

「少し違う」


私はペンを置き、終業札を裏返した。

鞄を持って立ち上がる。

窓の外では、広場の子どもたちが新しい教本を持って走り回っていた。


「未来の帳簿は、少しだけ明るくなりそうですね」

歩きながら言うと、公爵が隣で頷く。

「君がそうした」

「皆でです」

「知っている」

「では、もう訂正しません」

「珍しいな」

「たまには素直に」


庁舎の石段を降り、春の港へ出る。

海は今日も動き、人も今日も働き、書類は今日も増える。

でももう、それが苦しいだけの重さではない。


私はこれからも、きっとこの港でたくさんの契約を読むだろう。

守るために。

誰かが勝手に書き換えられないように。

そして自分自身の人生も、自分の名前で書き続けるために。


春の風が、外套の裾を揺らした。

私は隣を歩く人の手をそっと取る。


「帰りましょう」

「ああ」


未来の帳簿はまだ白い。

だからこそ、悪くない。

そう思いながら、私は港町の夕暮れへ踏み出した。

番外編までお読みいただき、ありがとうございました。

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