番外編五 終業札の裏側
終業札の裏側には、小さな傷がついている。
最初にもらった日のものだ。
木の表面を指でなぞるたび、北辺へ来たばかりの頃を思い出す。倒れかけても「大丈夫です」と言い張り、休むより先に帳簿へ向かっていた自分を。
「まだ使っているのか」
夕食後、机の上の札を見てレオンハルト公爵が言う。
「はい」
「新しいものを作れる」
「これがいいんです」
私は札を持ち上げて光へ透かした。
『勤務中』と『終業』。
たったそれだけの木札なのに、私にとっては思ったより大きな意味を持っている。
「これをもらった時、少し腹が立ったんですよ」
「知っている」
「そんなに分かりやすかったですか」
「かなり」
「でも今は、ありがたいです」
「そうか」
「休んでいいと言われるのって、案外難しいんですね」
「許可が必要だったのか」
「たぶん。昔の私は」
彼は少しだけ黙ってから言う。
「今は」
「今は、自分でも裏返せます」
「なら十分だ」
「でも、たまに見張ってください」
「毎日見ている」
「知っています」
私は笑って、札を『終業』の面に裏返した。
今日の仕事はここまで。
明日また始めればいい。
当たり前のことを当たり前にできるようになるまで、人は案外遠回りをする。
けれどその遠回りごと、今の私は嫌いではなかった。
窓の外では、港の灯りが一つずつ消えていく。
働きすぎないことも、守ることの一つだ。
そう思える夜が増えたのは、きっとこの札のおかげでもあるのだろう。
明日もまた、きちんと裏返そうと思う。それは、小さな約束だ。大事な。約束。




