番外編二 初めての休暇申請
私が休暇申請書を出したとき、庁舎は一瞬だけ静まり返った。
「総監が……休む……?」
トマスが信じられないものを見る顔で呟く。
「休みます」
私は胸を張って答えた。
「一日だけ」
「熱でも」
「違います」
「じゃあ、なぜ」
「休暇制度を作った本人が一度も使わないのはよくありません」
それは建前で、半分は本音だ。
もう半分は、レオンハルト公爵に「第五条を守れ」とかなり真顔で言われたからである。
行き先は港から半日ほどの高台。
春先だけ開く花見台で、海と山を同時に見渡せるらしい。
私は正直、花を見る休暇より積み残しの帳簿の方が気になっていたのだが、老夫人とセシリアとマルタさんがなぜか全員賛成に回った。
完全に包囲網だった。
「では、休暇です」
馬車を降りたあと、公爵が言う。
「はい」
「書類は」
「持ってきていません」
「よろしい」
「でも少し落ち着きません」
「慣れろ」
「難しいです」
高台へ続く道は、まだ少し雪が残っていた。
けれど風は冬より柔らかい。ところどころに小さな白い花が咲いていて、海の色も心なしか明るい。
黙って歩くだけの時間が、思ったより心地よかった。
「こういう休み方をしたことがないんです」
私が言うと、公爵は目を細める。
「以前は」
「休日でも帳簿整理か、社交用の書簡修正か、家の都合でした」
「だろうな」
「だから、休んでいるのに少し落ち着かない」
「今は?」
「半分くらいは落ち着きません」
「残り半分は」
「……悪くないです」
高台から見えた海は広かった。
港が小さく見える。いつも机の上の数字と波止場から見ている世界が、ぐっと広がった気がする。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「閣下は、よく来るんですか」
「昔は」
「今は?」
「忙しかった」
「私もですね」
「だから来た」
その言葉は簡単なのに、妙に胸へ残った。
忙しいから休む。忙しいから見る。忙しいから、二人で来る。
そういう理屈もあるのだ。
昼には、老夫人が持たせてくれた籠を開いた。
パン、燻製魚、甘い干果、温かい茶。
まるで遠足みたいで少し可笑しい。
「休暇も、案外悪くありませんね」
「覚えろ」
「第五条に追記されそうです」
「必要ならする」
「本気ですね」
「本気だ」
私は笑いながら、風に揺れる小さな花を見た。
一日くらい机から離れても、港は沈まない。
むしろ、離れたからこそ見えるものがある。
帰り道、私は自分からそっと彼の手を取った。
冷たい。でも、もう知っている温度だ。
「どうした」
「休暇の記念です」
「そうか」
「嫌ですか」
「まさか」
その返事があまりに即答で、私は少しだけ照れながら前を向いた。
初めての休暇申請は、たぶん成功だった。
少なくとも、次も出してみようと思えるくらいには。




