最終話 港町は今日も忙しい
書類は嘘をつけない。
少なくとも、今の私にはそう見える。
春の気配がまだ遠い朝、グラナート港の庁舎はいつもどおり忙しかった。
新しい船便の到着、労働契約の読み上げ、診療所への薬品搬入、東方小港から届いた価格照会、公開台帳の更新。
机の上には相変わらず紙が山を作っている。
でも、その紙はもう誰かの都合を隠すためだけのものではない。
「総監、こちら承認を」
「はい」
「総監、第二倉庫の棚卸し結果です」
「そこへ」
「総監! 子ども向けの読み上げ見学会って、本当にやるんですか?」
「やります」
「本当に?」
「契約は怖いものではなく、守るものだと先に知ってもらいたいので」
私は次々書類へ目を通し、必要なものへ署名し、不要な飾り文句を削り、足りない条項を足していく。
以前と同じようでいて、何かが決定的に違う。
この仕事は、もう私だけの孤独な後始末ではない。
周りに人がいる。
マルタさんは新任会計係へ数字の癖を教え、トマスは誇らしげに記録室を仕切り、セシリアは診療所から薬品台帳を送ってくる。ガイたちは読み上げ契約を新人に説明し、小商会の船主たちは公開台帳を見て胸を張る。
見えるようになったから、守れるものが増えた。
守れるものが増えたから、呼吸が少し楽になった。
「総監」
昼前、扉口からトマスがにやにや顔で覗く。
「何ですか、その顔」
「いえ。今日もです」
窓の外を見ると、案の定、庁舎前に濃紺の外套が見えた。
日没にはまだ早い。
つまり、今日は迎えではない。
「何かありましたか」
私は外へ出た。
レオンハルト公爵は軽く肩をすくめる。
「近くを通った」
「かなり不自然な理由ですね」
「差し入れだ」
差し出された包みからは、焼きたての小さな蜂蜜菓子の匂いがした。
「老夫人から。昼を忘れるなと」
「ありがとうございます。閣下も食べますか」
「一つなら」
庁舎前の石段へ並んで座り、私たちは小さな菓子を分け合う。
海風はまだ少し冷たい。でも冬ほど厳しくはない。
港では、第一便が着いたらしい鐘が鳴っていた。
「忙しいか」
彼が問う。
「はい。でも、良い忙しさです」
「以前とは違う?」
「全然」
私は笑う。
「誰かのために隠す仕事ではなく、誰かが生きやすくなるように整える仕事ですから」
「それなら良かった」
「はい。とても」
しばらくして、庁舎から子どもたちの声が聞こえた。
今日は午後から、契約読み上げの見学会なのだ。孤児院と港の子どもたちに、簡単な労働契約や売買契約の読み方を教える予定になっている。
その発案者は、ほかならぬ私だった。
「昔の私なら」
私はぽつりと言う。
「こんなこと、思いついても口に出さなかったと思います」
「なぜ」
「無駄だと言われそうだったので」
「今は」
「今は、言えば動く人がいると知っています」
その一言に、公爵は静かに頷いた。
「私もいる」
「知っています」
「毎日迎えにも行く」
「はい」
「嫌か」
「少しも」
我ながら、よくこんなに素直に言えるようになったものだ。
でも、それでいいのだと思う。
午後、見学会の前に私は子どもたちへ短い話をした。
契約は難しい言葉で人を縛るためだけのものではなく、約束を見える形にして、後から泣く人を減らすためのものなのだと。
皆が分かったかどうかは分からない。
でも、一番前で聞いていた小さな女の子が、終わったあとに手を挙げて言った。
「じゃあ、おねえさんは約束を守る人なの?」
私は少し考えて、答える。
「守りたいと思っています」
「じゃあ、すごいね」
その無邪気な一言に、私は少しだけ笑った。
夕方。
終業札を裏返し、庁舎の扉を閉める。
外では、今日も迎えが待っていた。
「帰るか」
「はい」
並んで歩き出す。
港町は今日も忙しい。
書類も仕事も、たぶん明日も山ほどある。
でももう、それを不幸だとは思わない。
私には、名前のある机がある。
守りたい港がある。
並んで歩く人がいる。
そして紙の上には、私自身の署名がある。
それで十分だ。
たぶん、これから先もずっと。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
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