第四十七話 祝いの夜
婚約の発表は、王都で大々的にではなく、グラナート港で先に行うことになった。
「どうせなら先に、ちゃんと世話になっている方々へ伝えたい」
そう言ったのは私だ。
レオンハルト公爵は少し考えたあと、すぐ頷いた。
「同意だ」
たぶん彼も同じ気持ちだったのだろう。
その夜、港の広場ではささやかな祝いの席が開かれた。
酒樽、温かい煮込み、焼き魚、黒パン、雪避けの幕。豪華ではないが、皆が自分にできるものを持ち寄った感じがして、ひどく心地よい。
小商会の人たちが「新条約祝いだ」と言って持ち込んだ干果まであった。
「本当に婚約したんですか?」
トマスが三回目の確認をしてくる。
「しました」
「契約書あります?」
「あります」
「見せてほしいです」
「だめです」
「そこは業務秘密です」
マルタさんが冷静に補足した。
「ですよね……!」
ガイは酒杯を片手に大声で笑う。
「よし! これで請求書令嬢が公爵夫人になっても、うちの給料はちゃんと払われるな!」
「その理屈はどうなんですか」
「払われるだろ?」
「払われます」
「ならいい!」
広場はいつになく賑やかだった。
子どもたちは走り回り、難民だった一家も今では小さな店を手伝っている。セシリアは診療所開設の準備で忙しいはずなのに、わざわざ薬草茶を持ってきてくれた。
「似合っています」
彼女が私の指輪を見て言う。
「ありがとうございます」
「閣下も」
「そうか」
公爵が短く返す。
少し照れているのが分かりやすい。
宴が一段落した頃、クララ嬢に背を押されるようにして、私と公爵は防波堤の方へ抜け出した。
広場の灯りが遠く揺れている。海は黒く、風は冷たい。
でも隣に並ぶ気配は、もうずいぶん自然だった。
「賑やかでしたね」
私が言う。
「お前が望んだ」
「閣下は嫌でしたか」
「嫌ではない」
少し間。
「……悪くなかった」
それがこの人の最大級の肯定だと、今の私は知っている。
だから素直に笑える。
「婚約契約、読み返しましたか」
「した」
「第五条、守れそうですか」
「努力する」
「善処ではなく?」
「そこまで似たくはない」
「失礼ですね」
二人で小さく笑ったあと、沈黙が落ちる。
波の音だけが聞こえる。
私はふと、指輪に触れた。
「王都で婚約していた時は」
ゆっくりと言葉を探す。
「約束なのに、少しも安心できませんでした」
「……」
「でも今は、契約書を思い出しても、指輪を見ても、ちゃんと嬉しいです」
公爵はしばらく黙っていた。
それから、いつになく慎重な声で言う。
「私もだ」
「閣下も?」
「婚約というものが、これほど落ち着くとは思わなかった」
「そういうものなのかもしれません」
「相手による」
その言葉に胸が少しだけ熱くなる。
彼は一歩だけ近づいた。
いつもより近い。風が吹いても逃げない距離。
「アイリス」
「はい」
「……してもいいか」
珍しい言い方だと思った。
何を、とは聞かなくても分かる。
私は頷いた。
「はい」
触れた唇は短く、驚くほどぎこちなかった。
でも、その不器用さが妙に私たちらしい。
離れたあと、互いに少しだけ言葉を失う。
「……」
「……」
「初回としては」
私がなんとか言うと、公爵が目を細める。
「評価があるのか」
「改善の余地は常にあります」
「そうか」
「でも、悪くなかったです」
「それならいい」
広場の方から、クララ嬢の遠慮のない歓声が聞こえた。
たぶん見られていた。
私は額に手を当て、公爵は静かにため息をつく。
「戻りましょうか」
「そうだな」
防波堤を歩いて戻る足取りは、寒いはずなのに軽かった。
祝いの夜は賑やかで、少しだけ恥ずかしくて、それでも、ちゃんと幸せだった。




