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第四十六話 婚約の条件

私たちの婚約が普通で終わるはずがないと悟ったのは、契約書の第一稿を見た時だった。


『フェルンベルク公爵家当主レオンハルト・フェルンベルクと、特別監査官アイリス・レーヴェンベルクとの婚約に関する合意書』


題名からして硬い。

しかも本文第一条はこうだ。


『婚約後もアイリス・レーヴェンベルクは現行の実務職務を継続し、何人もこれを妨げない』


「ほんとうに入れたんですね」

私は書類を持ったまま言った。

公爵府の小会議室には、老夫人、クララ嬢、法務補佐、そしてなぜかマルタさんまで同席している。


「当然よ」

老夫人が涼しい顔で言う。

「最初に決めないと、あとで周囲が余計なことを言うもの」

「お祖母様は慣れていらっしゃるのですね」

「女が働く話で揉める男を片づけるのに?」

にっこり笑うその顔が少し怖い。

たぶんかなりの経験者だ。


私は条項を読み進める。

第二条、公爵家側は職務継続に必要な安全と独立執務環境を保障する。

第三条、婚約を理由とする財産・成果物の一方的帰属変更を認めない。

第四条、将来婚姻に至った場合も、本人の希望なく職務停止を強制しない。

第五条、繁忙期の過労防止については双方誠実に協議する。


「第五条だけ妙に具体的ですね」

「必要だ」

レオンハルト公爵が真顔で答える。

「君は放っておくと深夜まで働く」

「閣下もでは」

「私は当主だ」

「私は監査官です」

「だから協議条項にした」

「譲歩の跡が見えますね」

「苦心した」


クララ嬢が肩を震わせて笑いをこらえている。

マルタさんは真面目な顔で手を挙げた。

「すみません、実務継続は大賛成なんですが、第五条は終業札の運用基準も入れた方が」

「入れますか?」

私が聞くと、公爵は即座に頷いた。

「入れる」

「婚約契約に終業札基準」

クララ嬢がついに吹き出した。

「最高だわ!」


結局、第五条に『日没後の通常残務は原則翌日繰越とし、特段の緊急事由なき残業を避ける』が追加された。

我ながら、どんな婚約契約なのだろうと思う。


「アイリスさん、これで安心ですね」

マルタさんが本気で言うので、否定しにくい。

「ええ、たぶん」

「たぶんじゃない」

公爵が言う。

「かなりだ」

「最近、私の言い回しが移っていませんか」

「責任は取らない」

「便利な言葉ですね」

「使い勝手がいい」


笑い混じりの空気の中、それでも署名の瞬間が近づくにつれ、胸は少しずつ緊張していった。

仕事の契約はいくらでも読める。

でもこれは、仕事だけではない。


老夫人が静かに言う。

「嫌なら今でも直せるわよ」

「いえ」

私は首を振った。

「これで良いです。むしろ、これが良いです」

「でしょうね」

クララ嬢がにやにやしている。

「お二人らしいもの」


私はペンを取り、署名欄へ名前を書いた。

続いて公爵が署名し、公爵印を押す。婚約契約書なのに、公文書みたいに整っている。

でも、私たちにはこれでいい。


最後に老夫人が満足そうに頷いた。

「よし。これで誰も『仕事はやめるのでしょう』なんて寝ぼけたことを言えないわ」

「言ったらどうなりますか」

私が尋ねると、老夫人は優雅に微笑んだ。

「請求書を送るわ」


さすがである。


署名後、会議室を出て廊下へ出ると、私はようやく大きく息を吐いた。

レオンハルト公爵が隣へ並ぶ。


「疲れたか」

「少し」

「婚約で疲れる女は珍しいな」

「契約条項の確認が多かったので」

「君らしい」

「閣下もです」


彼はポケットから小さな箱を取り出した。

開けば、中には細い銀の指輪が二つ。派手ではないが、内側に小さく波と雪の紋が彫られている。


「これは普通ですね」

私が言うと、彼は少しだけむっとした。

「悪いか」

「いいえ。とても」


右手に触れる冷たい銀が、妙にしっくりと馴染んだ。

仕事の契約のように明快で、それでいて、きちんと私的な約束でもある。

そんな婚約で良かった。

本当に。

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