第四十五話 新しい住まい
文官棟への引っ越しは、思った以上に大事になった。
「監査官さまの荷物はこちらです!」
「待って、そこは法令集! 雑に積まないで!」
「この箱、重っ……石でも入ってるんですか!」
「ほぼ紙です」
庁舎脇の簡易宿舎から公爵府管轄の文官棟までは、歩けば五分とかからない。
それなのに、トマスは大仕事みたいな顔で箱を抱え、マルタさんはインク瓶を慎重に布へ包み、ガイはなぜか大きな棚まで運び込んでいた。
「そんな棚、どこから」
「倉庫の余りだ。使え」
「ありがとうございます。でも大きすぎませんか」
「どうせ増えるんだろ、書類」
「否定できません」
新しい住まいは、想像よりずっと快適だった。
寝室と小さな書斎、暖炉付きの居間、湯を沸かせる炉、そして窓から港が見える。豪奢ではないが、仕事をして暮らすには十分すぎる。
しかも入口は庁舎側と公爵府側の両方へ抜けられる。安全面もよく考えられていた。
「どうだ」
引っ越し騒ぎの最後に顔を出したレオンハルト公爵が問う。
「良い部屋です」
「不便は」
「本棚が足りなくなりそうです」
「増設する」
「即答ですね」
「君は紙に埋もれる未来しか見えない」
「失礼な」
「当たっているだろう」
「少しだけ」
部屋を一通り見終えたあと、私は窓辺の机に新しい保温具と老夫人から贈られたペン軸を並べた。
ここが、これからの仕事場になる。
その実感がじわじわと湧いてくる。
「そういえば」
私は振り返った。
「城館の方が近い、と以前おっしゃっていましたよね」
「言ったな」
「なぜですか」
「近い方が便利だ」
「仕事の話ですか」
「……半分は」
最近、その答えが増えた気がする。
私は笑いながら本棚へ法令集を収める。
すると、公爵が少しだけ真面目な声で言った。
「アイリス」
「はい」
「婚約の話を、正式に進めたい」
手が止まる。
引っ越しの最中に言う話だろうか、と一瞬思ったが、この人ならありえる。
「仕事部屋の確認と同じ流れで?」
「問題あるか」
「少しだけ」
「では、改めて言う。正式に婚約したい」
「……はい」
素直に返したつもりだったのに、喉が少し詰まった。
彼は安堵したように息を吐き、それから続ける。
「条件は詰める」
「条件?」
「君が以前言った。仕事をやめないこと」
「ええ」
「なら、婚約も曖昧にしない。最初から契約に入れる」
「公爵家の婚約条件に『税関業務継続』が入るのですか」
「入れる」
私は思わず笑った。
「前代未聞ですね」
「君相手だ。普通では足りない」
「褒め言葉として受け取ります」
その夜、皆が帰ったあとも、部屋にはまだ引っ越しの名残が散らばっていた。
箱、紙、ペン、毛布。
でも不思議と落ち着く。
暖炉の前で一息ついていると、窓の外に見慣れた背の高い影が立っていた。
公爵だ。
帰ったはずなのに、なぜかまだいる。
扉を開けると、彼は少しだけ気まずそうに小箱を差し出した。
「何ですか」
「表札」
「表札?」
箱の中には、控えめな金具で縁取られた木札が入っていた。
『特別監査官アイリス・レーヴェンベルク』
きちんとそう刻まれている。
胸の奥が、静かに熱くなる。
「ありがとうございます」
「必要だろう」
「はい。とても」
彼は頷き、それ以上何も言わずに去っていった。
その背を見送りながら、私は表札を両手で抱える。
名前のある部屋。
仕事のための机。
戻ってきた港。
少し前まで想像もしなかったものが、今はちゃんと、ここにある。




