第四十四話 帰る場所
グラナート港へ戻った日、私は初めて「帰ってきた」と思った。
北辺の風は相変わらず容赦がない。
馬車の窓から見えた海は鉛色で、岸壁の鎖は霜を噛んでいる。それでも、峠を越えて港の塔が見えた瞬間、胸の奥がふっとほどけた。
「見えてきました!」
トマスが子どもみたいに声を上げる。
「やっぱり王都よりこっちの方が落ち着きます……」
「分かります」
マルタさんも頷いた。
「王都は床まで緊張します」
「床まで」
「磨きすぎなんです」
それは少し分かる気がする。
港へ入ると、想像以上の人が集まっていた。
人夫たち、小商会の面々、庁舎の職員、孤児院の子ども、そして新しく開いた小さな市場の店主たち。
誰かが見張り台から合図でもしたのだろう、馬車が止まる前から歓声が上がる。
「おかえり、監査官殿!」
ガイが大声で手を振る。
「請求書の続き、まだあるんだろ!」
「ありますよ!」
思わず私も声を張り返していた。
周囲が笑い、さらに空気が明るくなる。
広場の掲示板には、新条約布告の写しがすでに貼り出されていた。
その横には、第一便・第二便の到着記録も並んでいる。小口輸送網は不格好ながら、確かに動き始めていた。
蒼晶塩価格も、王都を発つ前より落ち着いている。
「守れましたね」
セシリアが小さく呟く。
「ええ」
私は頷いた。
「皆で」
庁舎へ入ると、私の机の上には山のような書類が積まれていた。
帰ってきた実感が別の意味で押し寄せる。
「減らしておきたかったんですけど」
トマスが申し訳なさそうに言う。
「無理でした」
「正直でよろしい」
「ありがとうございます……?」
「褒めています」
「本当に?」
「たぶん」
「その言い方、移りましたね」
「誰のせいでしょう」
後ろでレオンハルト公爵が咳払いした。
たぶん聞こえたのだろう。
夕方までに緊急案件だけを片づけ、私は港の防波堤へ出た。
海風が頬を打つ。
遠くでは、小口輸送の一隻がちょうど入港してくるところだった。大商会の豪奢な船ではない。小さく、無骨で、でも確かな動きをしている船だ。
「帰る場所、か」
隣に来た公爵が言う。
「はい」
私は海を見たまま答える。
「王都を出た時は、ただの赴任先でした」
「今は」
「戻りたい場所です」
公爵は何も言わなかった。
ただ、同じ海を見ている。
しばらくして、私はふと思い出した。
「そういえば、特別監査官の宿舎、文官棟へ移る話がありましたね」
「ああ」
「まだ空いていますか」
「空いている」
「では、移ります」
「城館でもいい」
「遠すぎます」
「距離は変わらない」
「仕事に私情を混ぜないでください」
「混ぜていない」
少しだけ間が空く。
「半分くらいは」
私は吹き出した。
こういうやり取りが、いつの間にか当たり前になっている。
防波堤の先で、子どもたちが帰ってきた船へ手を振っていた。
そのうちの一人が振り返り、私を見つけて叫ぶ。
「書類のおねえちゃん、おかえり!」
どう返すのが正解か分からず、とりあえず手を振り返すと、隣で公爵が小さく言った。
「良かったな」
「何がですか」
「呼ばれ方が増えた」
「請求書令嬢から書類のおねえちゃんまで、幅が広いですね」
「愛されている証拠だ」
「閣下に言われると、少しだけ照れます」
海は冷たい。
風も強い。
でもこの港には、私の机があり、待っている書類があり、呼んでくれる人がいる。
それで十分、帰る理由になるのだと思った。




