第四十話 王の前で結ぶ新条約
最後の密輸船拿捕から四日後、私は再び王都に立っていた。
今度は監察局の会議室ではない。王宮の謁見の間である。
高い天井、磨かれた床、大きすぎるほどの静けさ。
王座の前へ並ぶのは、主席監察官、法務局長、教会代表、そして北辺側からレオンハルト公爵と私。背後には提出済みの新証拠一式と、改定条約案の写しが控えている。
国王アウレリウス三世は、老獪そうな灰の瞳をした人だった。
年齢は重ねているが、目の光は鈍くない。私たちが近づくと、彼はまず青革帳簿を見た。
それから私を見た。
「そなたが北辺の特別監査官か」
「はい。アイリス・レーヴェンベルクと申します」
「若いな」
「よく言われます」
玉座の間でそんな返しをしていいのかと一瞬思ったが、国王はむしろ少しだけ口元を緩めた。
議題は明確だった。
旧協定の廃止または改定。
王都推薦枠と寄進搬送枠の切断。
北辺を含む主要港における二重照合制度の導入。
緊急公共輸送契約の恒常的法制化。
そして、労働契約の読み上げ確認義務。
「多いな」
国王が言う。
「はい」
私は答えた。
「ですが、どれか一つでは足りません」
法務局長が改定案を読み上げていく。
途中、古い貴族の一人が反論した。
「そこまで縛れば商人が死ぬ」
私は許可を得て口を開く。
「死ぬのは、不正で稼げなくなる商人です」
ざわめき。
だが私は続ける。
「正規申告をしていた小商会は、むしろ今回の緊急輸送網で息を吹き返しました。独占が崩れれば、市場は細くても生きます」
次に教会代表が寄進搬送枠の切断へ難色を示した。
「善意の物流まで滞る」
「ですから、善意を証明する書式を別で用意しました」
私は新たな書類を出す。
『寄進物資専用公開台帳』
搬出元、搬入先、数量、立会人、到着確認。誰でも閲覧可能な単純書式だ。
「善意が本物なら、見えて困ることはありません」
今度は商会側の代理人が顔をしかめた。
「若い令嬢は綺麗事を」
「綺麗事でなければ、第三医療倉庫の薬草は十箱残っていたかもしれません」
「……」
「綺麗事を守るために、汚い帳簿を見る人間が必要なんです」
玉座の間に沈黙が広がる。
王はその間、ずっと改定案を読んでいた。
やがて彼は、レオンハルト公爵へ視線を向ける。
「北辺はこれを呑めるか」
「必要です」
公爵は即答した。
「港は王国の首だ。ここを握らせれば、いずれ胴も握られる」
「レーヴェンベルク監査官」
王が今度は私を呼ぶ。
「そなたは、この条約で何を守りたい」
私は少しだけ考えた。
税収。公正。契約。どれも正しい。
でも、一番近い言葉は別だった。
「誰かの都合で、別の誰かの命と人生が勝手に書き換えられないようにすることです」
自分で言って、驚くほどすとんと落ちた。
「港の人夫も、難民も、寄進を信じた人も、働いているのに名前を持たない文官も。そういうものを、少しでも守りたい」
王はしばらく黙っていた。
その視線は鋭かったが、どこか遠くを見るようでもあった。
「よい」
やがて彼は言った。
「旧協定は本日をもって停止。改定条約案を採用する」
息が詰まる。
「併せて、主要港への二重照合制度、寄進搬送公開台帳、労働契約読み上げ確認義務を王命として布告する」
玉座の間にざわめきが走る。
王はさらに、青革帳簿へ手を置いた。
「善意の名で利を貪る者は、善意そのものを腐らせる。余はそれを好まぬ」
その一言で、勝負は決まった。
条約は改まり、制度は変わる。
完璧ではない。抜け道はまたいつか作られるかもしれない。
それでも、今日ここで一本、大きな流れを折ったのだ。
儀礼に従い、新条約文書へ王印が押される。
続いて北辺代表としてレオンハルト公爵が、実務起草者として私が副署した。
自分の署名が王命の隣へ並ぶのを見て、さすがに少しだけ指先が震える。
謁見の間を出たあと、私は深く息を吐いた。
肩の力が一気に抜ける。
「立っていられるか」
公爵が小声で問う。
「なんとか」
「『なんとか』は怪しい」
「でも倒れてはいません」
「今日は誉めてやる」
「珍しいですね」
「王の前でよくやった」
その一言で、胸の奥がじんと熱くなった。
新条約。
新しいルール。
紙の上のことかもしれない。
でも、紙の上のことだからこそ、届く場所がある。
私はそれを、もう知っていた。




