第三十九話 氷竜公の告白は不器用です
最後の密輸船を押さえた夜、私は公爵府の医務室ではなく、執務塔の小さな暖炉部屋にいた。
戦いの後処理は山ほどある。
押収目録、逮捕者一覧、蒼晶塩の再封印、海魔誘引剤の廃棄命令。けれど、ひとまず緊急対応だけ終えたところで、レオンハルト公爵が「十分だ」と言って半ば強引に私を椅子へ座らせたのだ。
「今日は休め」
「言うと思いました」
「覚えたなら従え」
「努力します」
「今は許可しない」
私は毛布ごと椅子へ押し込まれ、温かい茶を持たされた。
戦いの後でようやく震えが来たのか、カップが少し鳴る。
「落ちかけた時、怖かったか」
向かいの椅子へ腰掛けた公爵が問う。
「はい」
正直に答えた。
「落ちると思いました」
「すまない」
「閣下が謝ることでは」
「私が甲板へ連れて行った」
「私が必要だったんです」
「それでもだ」
珍しく、彼は譲らない口調だった。
暖炉の火が低く鳴る。外ではまだ風が唸っている。
「でも」
私はカップを見つめたまま言う。
「掴んでくださったでしょう」
「当然だ」
「なら、それで十分です」
彼が黙る。
私は少しだけ顔を上げる。
いつもなら冷静な青い目が、今夜は妙に静かで、でも強く揺れていた。
「アイリス」
「はい」
「私は、君を失いたくない」
その一言で、部屋の温度が変わった気がした。
戦場の延長でも、護衛責任の一環でもない。そういう響きではなかったからだ。
「それは」
言葉が続かない。
彼は視線を逸らさず続ける。
「最初は、有能な文官だと思った」
「知っています」
「次に、放っておくと倒れる厄介な文官だと思った」
「それも知っています」
「今は違う」
少しだけ、彼は言葉を探していた。
レオンハルト公爵が、言葉に迷っている。そんな事実が妙に胸へ響く。
「君が書類を読む顔も、怒る顔も、稀に笑う顔も知っている」
彼はゆっくり言う。
「北辺に必要だから手放せない、では足りない。私が、君にここにいてほしい」
「……」
「仕事ごとだ」
「最後で雑に誤魔化しましたね」
「誤魔化していない。本当に仕事ごとだ」
思わず笑ってしまった。
そういうところが、本当に不器用だと思う。
「閣下」
「何だ」
「それ、告白ですか」
彼は一瞬、完全に言葉を失った。
それから観念したように息を吐く。
「たぶん」
「たぶん?」
「こういう時の言い回しを知らない」
「氷竜公でも」
「知らないものは知らない」
私はとうとう声を立てて笑った。
こんな状況なのに、可笑しくて仕方ない。
彼の耳が少しだけ赤いように見えるのは、火のせいにしておこうと思う。
笑いが落ち着いてから、私は真面目に言った。
「私も、ここにいたいです」
彼の目が静かに見開かれる。
「でも条件があります」
「条件?」
「仕事をやめません」
「やめさせる気はない」
「公爵夫人になっても」
「……そこまで話が飛ぶのか」
「仕事の継続条件ですので」
「君は本当に、そういうところだな」
彼は額を押さえ、それから小さく笑った。
「いい。公爵夫人でも監査官でも、好きにやれ」
「兼業が認められました」
「君相手に専業主婦を求めるほど愚かではない」
「よかった」
私は茶を一口飲む。
ようやく、心臓の速さが苦しくない方へ変わってきた。
「答えは、今でなくてもいい」
彼が言う。
「いや」
私は首を振った。
「今、言います」
一度息を吸い、ちゃんと彼を見る。
「私も、閣下を失いたくありません」
驚くほど静かに言えた。
「冷たい手でも、短い言葉でも、休めと命令してくるところでも。そういう全部ごと」
沈黙。
暖炉がぱちりと鳴る。
やがて彼は、まるで壊れ物に触れるみたいに、そっと手を差し出した。
私は今度は迷わず、自分の手を重ねる。
冷たい。でも知っている温度だ。
「正式なことは全部終わってからだ」
彼が言う。
「はい」
「先に仕事を片づける」
「賛成です」
「君らしい」
「閣下もです」
重ねた手は、しばらくそのままだった。
恋人らしい甘い言葉は、たぶん私たちには向かない。
でも、これで十分だと思えた。
少なくとも今夜は。




