第三十八話 吹雪の海と氷の剣
夜の海は、陸から見るのとまるで違う顔をしていた。
港を出た巡視船は三隻。
先頭に公爵の旗艦、その後ろに衛兵船と私たちの乗る小型監査船。吹雪が横殴りに甲板を叩き、視界は灯火がなければほとんど白い壁だ。
こんな海へ出るだけでも常人なら躊躇う。だからこそ密輸屋はここを選ぶのだろう。
「本当に、私も必要ですか」
揺れる甲板で手すりを握りながら訊くと、レオンハルト公爵は短く答えた。
「樽の印を見分けられるのは君だ」
「ですよね」
「それに、戻れと言っても戻らない顔をしている」
「……そうでしょうか」
「かなり」
反論している余裕はなかった。
前方、礁帯の陰にぼんやりと大きな影が浮かんだのだ。
本船だ。
「灯火を落としたか」
公爵が言う。
「いや、違う」
私は目を凝らした。
「塩船じゃありません。船腹の高さが足りない。あれは改装した荷船です」
「中身は」
「見てからです」
旗艦が接近し、停止命令を叫ぶ。
だが相手は応じない。代わりに、甲板脇から小型艇をさらに二隻降ろし始めた。
本船そのものは囮で、本命はそちらか。
「右舷!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、海面が不自然に泡立った。
「海魔誘引剤!」
私は声を張り上げた。
「撒いています!」
北辺の外海には、強い臭気や魔力へ引かれる小型海魔が棲んでいる。蒼晶塩はそれを遠ざけるために使うが、逆に誘引剤を撒かれれば航路はたちまち乱れる。
密輸屋は、追跡船を海魔で足止めするつもりなのだ。
「面倒なことを」
公爵が一歩前へ出る。
次の瞬間、彼の剣から白銀の光が迸った。
氷。
だが静かな氷ではない。吹雪そのものが刃へ吸い寄せられ、海面へ走っていく。
近づいてきた海魔の跳ね上がる水しぶきごと凍りつき、航路の前に一瞬だけ白い壁を作った。
「進路を開く! 監査船は左から回れ!」
号令が飛ぶ。
私たちの船は大きく傾きながら左へ切った。
冷たい飛沫が顔を打つ。目も開けていられない。なのに私は、手すりに片手、もう片手で望遠鏡を握り、必死に小型艇を探していた。
「見えました! 二隻のうち、後ろの方!」
私は叫ぶ。
「積み荷の樽印が違います!」
「何が違う」
「蒼晶塩の正規封印なら、湿気避けの銀線が二重です。でもあれは一本しかない。中身が違うか、封を入れ替えています!」
監査船が追いつき、鉤縄が投げられる。
小型艇の男たちは慌てて樽を海へ落とそうとした。私はとっさに叫ぶ。
「落とさせないで! 中身が証拠です!」
衛兵たちが飛び移り、乱闘になる。
その最中、一つの樽が割れた。中から零れ出たのは、蒼晶塩ではなく黒い粉末と、獣臭の強い油布包み。
海魔誘引剤だ。
「やはり」
私は歯を食いしばる。
「港に撒く気だったんです」
もし湾内でこれを使われれば、小型海魔が群れをなし、蒼晶塩不足の港は混乱する。結界維持費も跳ね上がり、価格操作は完成する。
物流妨害どころではない。実質的な港湾破壊だ。
「公爵!」
旗艦側から叫びが飛ぶ。
本船が転舵し、沖へ逃げようとしていた。
レオンハルト公爵は振り返りもせず、甲板の縁へ立つ。
吹雪の中、長い外套が翻る。
彼が剣を振り下ろした瞬間、海面へ白い筋が走った。一本、二本、三本。
水が、凍る。
逃走船の前方に氷の隆起が生まれ、船首が激しく軋んだ。
圧倒的だった。
氷竜公。その異名を、私は初めて実感として理解した。
だが、相手もただでは終わらない。
逃走船の甲板から矢が放たれ、その一本がこちらへ飛ぶ。
私は身を屈めたが、次の瞬間、足元が大きく揺れた。誰かとぶつかり、体が手すりの外へ投げ出される。
落ちる。
そう思った瞬間、強い力が腕を掴んだ。
「アイリス!」
公爵の声だ。
いつの間にこちらへ移ってきたのか分からない。彼は片手で私を引き戻しながら、もう片方の手で短剣を抜き、迫った密輸屋を叩き落としていた。
甲板へ倒れ込んだ私は、一瞬息ができなかった。
冷たい。怖い。遅れて指先が震え出す。
「前に出るなと言った」
頭上から低い声が落ちる。
「……努力したんです」
「足りない」
「認めます」
こんな時にまでそんな会話をする自分たちがおかしくて、でも笑う余裕はなかった。
戦いはまだ終わっていない。
最終的に、本船は旗艦に拿捕された。
船倉からは偽装された蒼晶塩樽、誘引剤、白紙推薦書式の束、そして追加の裏帳簿が見つかった。これで終わりだ、と誰もが分かる量の証拠だった。
吹雪の中、私は割れた樽の縁に手を置く。
黒い粉が雪と混ざり、汚れた泥のようになっていた。
「これで、最後です」
私が言うと、公爵は短く頷いた。
「終わらせる」
その声は、海よりも冷たく、海よりも確かだった。




