第三十七話 最後の密輸船
王都から北辺へ戻る道中、私は馬車の中でもずっと書類を読んでいた。
小さな同盟による第一便はすでに動いている。
ベルサ港発の蒼晶塩二樽、東沿岸の乾燥穀三十袋、薬商組合の解熱薬箱五箱。量としては決して十分ではない。けれど「ゼグナー商会が止めればすべて止まる」という状況は崩れつつあった。
それだけでも、大きい。
「少しは休め」
向かいの席でレオンハルト公爵が言う。
「あと一枚」
「さっきもそう言っていた」
「今回は本当にあと一枚です」
そう返しながら広げていたのは、監察局経由で届いた追加尋問記録だった。
王都で拘束されたガブリエル修道士の供述の一部。そこに、気になる一文があった。
『北辺にて最後の整理を行うため、塩船一隻を別扱いとする』
最後の整理。
嫌な表現だ。
しかも「塩船」とある以上、蒼晶塩に関わる可能性が高い。
「閣下」
私は書類を差し出した。
「最後の船があるかもしれません」
彼は一読し、目を細めた。
「別扱い、か」
「在庫差異と密輸の帳尻を合わせるための船なら、相当まずいです。蒼晶塩を横流しするだけではないかもしれない」
「他には」
「海魔除け結界を崩す意図。あるいは、塩不足を演出して価格をさらに吊り上げる」
「港へ着く前に捕まえたいな」
「ええ」
グラナートへ戻ると、港は緊張に満ちていた。
市場にはまだ品薄感があるものの、第一便が無事入ったことで最悪の動揺は避けられている。小商会の荷車が以前より目につくようになっていた。
それでも、皆の顔には疲れがあった。あと一押しで崩れる不安を、どうにか耐えている顔だ。
庁舎へ入るや否や、トマスが駆け寄ってくる。
「戻られました! それと、外港の見張りから」
差し出されたのは昨夜の潮汐表と、未確認船影の報告。
三日連続で、北東沖の礁帯付近に灯りが出ては消えているという。
「定期便ならありえません」
マルタさんが言う。
「この潮だと、あそこは大型船が近づきにくいです」
「大型船ではなく、積み替えか」
私は呟く。
「本船は外で待ち、小型船で運ぶ」
「じゃあ、前の密輸と同じ」
トマスが顔を強ばらせた。
「ええ。でも今回はもっと悪いかもしれません」
私はすぐに港湾台帳、沿岸漁許可、夜間係留申請を洗い始めた。
すると、一つだけ妙な動きが見つかる。
ゼグナー商会が閉鎖中のはずの第二塩倉庫について、『防湿点検のため夜間開封あり』という申請が出ていたのだ。理由欄は簡素、立会人は一人、印章は正規だが押し方が浅い。
急場しのぎの本物。内側にまだ手がある。
「餌を撒いてますね」
私は申請書を机へ置いた。
「第二塩倉庫を餌に、夜間の受け取りをするつもりです」
公爵は即座に判断した。
「内偵を入れる。表向きは何も気づいていない顔をしろ」
「はい」
その夜、私は敢えて通常どおり終業札を裏返し、宿舎へ戻ったふりをした。
実際には、公爵府側の監視所へ入って港を見ている。
雪混じりの風の中、夜半を過ぎた頃だった。
第二塩倉庫の裏手で、小さな青灯が三度だけ瞬いた。
合図だ。
「来ます」
私が言うと同時に、沖の礁帯の陰で別の灯が返る。
低く、長く、二回。
外で待っていた船が、小型艇を出した印だ。
「外側も押さえる」
公爵が命じる。
「私は内側へ行きます」
「君も来い。ただし前に出るな」
「努力します」
「努力では困る」
「善処します」
「それも困る」
いつもの短いやり取りを交わしながら、私たちは夜の埠頭へ走った。
冷気が肺を刺す。雪が靴の下で軋む。
第二塩倉庫の前には、すでに人影が動いていた。
倉庫係と見慣れない男たちが、帳簿も持たずに樽を受け取ろうとしている。
正規の塩なら、こんな雑な引き渡しはしない。
「待ちなさい!」
私は声を張った。
一斉に人影が振り向く。
その隙に衛兵が両側から回り込む。
「公爵領特別監査官権限により、第二塩倉庫の夜間開封を差し止めます! 積み荷と契約書を提出してください!」
男たちは一瞬だけ固まり、それから散った。
逃げるつもりだ。
だが本命はそこではない。
沖だ。
ちょうどその時、外港側から警笛が鳴った。
一度、二度、三度。
外で待っていた本船が動いた合図だった。
「やはりいる」
公爵が剣の柄へ手をかける。
「船を出すぞ」
私は息を吸い込んだ。
これが本当に最後の密輸船なら。
ここで止めれば、北辺を飢えさせる契約の首を折れる。
逆に逃せば、次は港そのものが壊れるかもしれない。
私は外套の内側へ、青革帳簿の抜粋写しと差止め命令書を差し込んだ。
海の上でも、必要になる。
そんな自分に、もはや違和感はなかった。




