第三十三話 彼が迎えに来た
公開審問がひとまず終わった頃には、日がすっかり傾いていた。
完全な結論は持ち越し。
だが、青革帳簿は正式証拠として受理され、ガブリエル修道士と王都側関係者数名への追加差押え命令が出た。フェリクスも自由のままではいられない。少なくとも当面、王都の空気は彼にとって居心地の悪いものになるだろう。
「終わった……?」
控え室へ戻ったトマスが、魂の抜けた声で呟く。
「半分くらいは」
私は答えた。
「半分もあるんですか」
「あります。制度改正が残っていますから」
「うわあ……」
マルタさんは椅子へ座るなり目を閉じた。
「でも、今日は勝ちましたよね」
「はい。今日は」
その『今日は』の重みを、私はよく知っている。王都では、今日勝っても明日巻き返されることがある。
だから油断はできない。
それでも、今日は胸を張っていい日だった。
ただ一つ問題があるとすれば、私が想像以上に疲れていたことだ。
会場を出て、監察局の石段を降りたところで、膝が少しだけ揺れた。気力で立っていただけらしい。
「アイリスさん?」
トマスが慌てる。
「大丈夫です。座れば」
言いかけたところで、目の前に濃紺の外套が差し出された。
「座る前に乗れ」
低い声。
レオンハルト公爵だった。
監察局前には、公爵家の馬車が待っていた。
いつからいたのか分からない。おそらくかなり前からだろう。彼は私の顔を見るなり、何も訊かずに外套を肩へ掛けた。
「閣下」
「迎えに来た」
それだけ。
私はなぜだか、その一言で急に力が抜けた。
泣きそうになるほどではない。けれど、ずっと張っていた糸が一気に緩んだような感覚がある。
「結果は」
彼が歩きながら問う。
「第一次は通りました。帳簿も受理。追加差押え命令も」
「よくやった」
短く、でも確かに。
それだけで十分だった。
馬車へ乗り込む前、広場の向こうに見慣れた人影が立っているのが見えた。
父だった。
少し離れた場所で、こちらを見ている。
何か言いたげだったが、近づいては来なかった。もう近づけないのかもしれない。
私は一度だけ軽く会釈し、それ以上は見ないことにした。
馬車の中は暖かかった。
向かいに座った公爵が、私の手元を見て眉を寄せる。
「冷えているな」
「たぶん、今になって緊張が」
「手を出せ」
差し出されたのは、温めた金属筒だった。中に温熱石が入っているらしい。
私は両手で受け取る。じわりと熱が戻ってきて、ようやく呼吸が深くなる。
「……本当に迎えに来たんですね」
「約束はしていない」
「でも来た」
「ああ」
「優しいですね」
「護衛だ」
「備品理論と同じですか」
「似たようなものだ」
私は少し笑った。
すると彼は、ほんの少しだけ眉間の皺をゆるめる。
「アイリス」
「はい」
「よく踏みとどまった」
「今日は、何度か逃げたくなりました」
「それでも立っていた」
「閣下が、王都の方が間違っていると言ってくださったので」
彼は何も言わなかった。
ただ視線を外へ向ける。窓に映る横顔が、少しだけ照れたように見えたのは、光のせいかもしれない。
監察局の宿舎へ着く頃には、空に細い月が出ていた。
馬車を降りる時、公爵が私へ一通の封書を差し出す。
「何ですか」
「北辺からの急報だ」
表情が一気に引き締まる。
封を切れば、内容は簡潔だった。
『ゼグナー商会系列船、北辺向け穀物搬入を停止。海魔除けの蒼晶塩価格も急騰。市場動揺あり』
私は顔を上げる。
公爵もすでに同じ結論へ至っている目をしていた。
「報復ですね」
「ああ」
「港を飢えさせるつもりです」
「なら、こちらも次を打つ」
今日の勝利の余韻は、そこで綺麗に消えた。
王都で追い詰められた相手は、北辺そのものを人質に取ってきたのだ。
私は封書を握りしめる。
休む間は、どうやらまだ来ないらしい。




