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第三十二話 あなたは私を愛していない

フェリクス・ダールトンが証言台へ立った時、会場の空気はまた別の意味でざわめいた。


彼は相変わらず整っていた。

衣服も、髪も、立ち姿も。

けれど、昔なら私が「完璧」と信じていたその姿は、今見ると少し綻んでいた。袖口の乱れ、呼吸の浅さ、視線の落ち着かなさ。整えても隠しきれない焦りがある。


「ダールトン卿」

主席監察官が問う。

「提出証拠にある王都推薦書式、および旧協定運用に関し、何か申し開きは」


フェリクスは一度だけ私を見た。

それから、いかにも理性的な声音を作って口を開く。


「まず前提として、北辺港の物流維持は王国全体に関わる課題です。非常時の推薦運用は、状況に応じた柔軟な措置であり、すべてを違法と断じるのは早計でしょう」

「空欄推薦状も柔軟な措置ですか」

私が問うと、彼は一瞬だけ眉を動かした。

「運用現場では形式が先行することもあります」

「中身のない推薦状を後から書き換えられる形式が?」

「アイリス、君はいつもそうだ。理屈は立つが、現場の呼吸を見ない」


その言い方に、少しだけ懐かしさすら覚えた。

昔の私は、ここで揺らいだだろう。

でも今は違う。


「現場の呼吸、ですか」

私は静かに返す。

「その呼吸で、薬草が十箱消え、人夫賃金が抜かれ、寄進物資が横流しされるなら、止めるべきだと思います」

「極端だ。君はいつも数字ばかり見て、人の情を切り捨てる」

「情で凍える子どもは温まりません」


傍聴席がざわつく。

フェリクスはすぐに方向を変えた。


「彼女には、私怨があります」

「私怨」

主席監察官が繰り返す。


「はい。婚約破棄の件です。彼女は私との個人的な感情のもつれを、今回の監査へ持ち込んでいる。私はその能力を高く評価していましたが、彼女は感情の制御に難がある」


その瞬間、会場のあちこちで、あまり隠しきれていない失笑が漏れた。

私が感情の制御に難。王都の社交界では真逆の噂で通っていたはずだ。彼も焦っているのだろう。


それでも私は、笑わなかった。

ただ、一つ確認したいことがあった。


「では伺います、フェリクス・ダールトン」

私は証言台の彼をまっすぐ見た。

「あなたは、私のことを高く評価していたのですか」

「当然だ。君ほど優秀な実務家はいない」

「人としてではなく?」

「……何を言いたい」

「私が抜けて困ったのは、私自身ではなく、私が処理していた書類と帳簿ではありませんか」

「それは」

「私へ送られた手紙には、そう書いてありました。『公の顔は別に必要だが、君の実務能力は代えがたい』と」


会場がさらにざわめく。

記録官が手を止めた。


「手紙の原本は提出済みです」

私は続ける。

「必要でしたら朗読します」

フェリクスの顔色が変わる。

「そこまでする必要はない!」

「では、必要ないということで」


私は一呼吸置いた。

これを言うために、ずいぶん時間がかかった気がする。


「あなたは私を愛していない」

会場が静まり返る。

「便利だったのです。私が」

フェリクスが何か言い返そうと口を開くより先に、私は畳みかけた。


「私も、あなたを愛していたのではなかったのかもしれません。必要とされれば価値があると思い込んでいただけです。でも今なら分かります。あなたが欲しかったのは、隣に立つ私ではなく、夜通しでも帳簿を整える手でした」

「違う!」

「違いません」


その瞬間、真誓灯がわずかに揺れた。

黒ではなく、鋭い赤。

虚偽を含む反論に反応したのだ。


フェリクスは息を呑んだ。

傍聴席の空気が変わる。

今の揺れは、言葉より雄弁だった。


「私は、君に居場所を与えた」

彼は絞り出すように言う。

「婚約も、社交も、将来も」

「ええ。書類を処理する居場所を」

「アイリス!」

「違いますか?」

「君は、冷たいくせに……!」


そこまで言って、彼は口をつぐんだ。

冷たい。笑わない。可愛げがない。

何度も聞いた言葉だ。

でも今はもう、刃にならない。


「私は冷静だっただけです」

私は言う。

「あなたの嘘より、帳簿の方が分かりやすかったので」


主席監察官が木槌を鳴らした。

「証言者、冷静に。レーヴェンベルク監査官、続けて」

「はい」


最後に私は、青革帳簿の該当頁と、フェリクスの私印を伴う旧協定関連の過去照会文書を並べた。

筆跡鑑定までは済んでいない。それでも十分に近い。しかも、彼はすでに感情を乱している。


「本件への関与を全面否定されるなら、王宮印章院および筆跡局での正式照合へ同意いただけますか」

フェリクスは黙った。

答えないこと自体が答えだった。


数秒後、主席監察官が冷たく告げる。

「証言者の発言は一部留保付きで記録。関係文書の追加差押えと照合を命じる」


それでほぼ決まった。

完全な有罪断定ではない。だが、もう逃がさない段階へ入ったのだ。


フェリクスは証言台を降りる時、すれ違いざまに私へ低く吐き捨てた。

「後悔するぞ」

私は彼を見ずに答える。

「もう、しません」


その一言が、自分でも驚くほど軽かった。

やっと、本当に終わったのだと思えた。

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