第二十九話 公開審問の前夜
公開審問の前夜、私は王都監察局の客室で眠れずにいた。
机の上には整えた資料が積み上がっている。
旧協定写し、青革帳簿の写本、倉庫出納差異表、偽造印章船の押収目録、寄進搬送記録、推薦状の空欄書式例。
順番も論点も整理した。誰が何を言ってきても、返す書類はある。
それでも、心臓だけは妙に落ち着かなかった。
王都で戦うのは、いつだって消耗する。
こちらがどれだけ正しくても、向こうは「体面」と「しがらみ」で押し潰しに来る。私はそれを嫌というほど知っている。
控えめなノックがした。
こんな時間に誰だろうと思いながら扉を開けると、レオンハルト公爵が立っていた。
手には湯気の立つポットとカップが二つ。
「……差し入れですか」
「見回りだ」
「見回りが温茶を持って」
「たまたまだ」
「予備灯籠と同じ理屈ですね」
「そうだ」
私は扉を開け、彼を室内へ通した。
客室は質素だが、暖炉だけはよく焚かれている。公爵はテーブルへ茶器を置き、慣れた手つきで湯を注いだ。
「眠れないのか」
「少し」
「少しか?」
「かなり、の少し手前です」
彼はそれ以上追及せず、茶を一杯差し出してくれた。
香りは北辺でよく飲んだものだ。香草と林檎を煮た、体が内側から温まる味。
一口飲んだだけで、胸のつかえが少しほどける。
「明日の並びは確認したか」
「はい。最初に監察局の趣旨説明、その後に私の証拠提出、次いで王都側の反論、最後に証人尋問」
「フェリクスは出る」
「ええ。出席通知が来ています」
「嫌か」
「……嫌ですね」
率直に答えると、公爵は頷いた。
それで十分だと言うように。
「でも、もう怖いだけではありません」
私は湯気の向こうで言う。
「昔の私は、あの人に見下ろされると、自分が間違っている気がしていました」
「今は」
「今は、あの人がどこで間違えたか、書類で説明できます」
公爵の口元がわずかに緩む。
「それは強いな」
「書類限定ですが」
「限定で十分だ」
少し沈黙があったあと、私はずっと喉に引っかかっていたことを口にした。
「もし、明日うまくいかなかったら」
「いく」
「仮定の話です」
「仮定でも、いく」
「閣下」
「君が積んだ書類を私は見た。北辺で何をしてきたかも見てきた。それで足りないなら、王都の方が間違っている」
その言い方が、あまりにもまっすぐで、私は一瞬言葉を失った。
「王都の方が間違っている」
そんなことを、こんなにも当然みたいに言う人がいるのだ。
「ありがとうございます」
ようやくそう言うと、公爵は首を振った。
「礼はまだ早い」
「勝ってから、ですね」
「そうだ」
彼は立ち上がりかけて、ふとテーブルの上の一枚に目を止めた。
それは、私が明日の冒頭で読む予定の整理メモだった。
箇条書きで、論点と順序だけを記した私用の紙。
『一、不正は単発ではなく制度悪用である
二、王都推薦枠と寄進搬送枠が接続している
三、北辺側の是正措置は適法
四、今後の改正案』
「きれいだな」
彼が呟く。
「何がですか」
「君の戦い方だ」
「……初めて言われました」
「そうか」
「たいていは、冷たいとか可愛げがないとか」
「愚かだな」
「誰がですか」
「そう言った連中が」
その冷ややかな断定が、妙に嬉しくて困る。
彼が帰る時、私は扉口まで送った。
廊下の灯りが淡く床へ落ちている。
「アイリス」
「はい」
「明日、相手が何を言っても、君は一人ではない」
「……はい」
扉が閉まったあと、私はしばらくその場に立っていた。
胸の鼓動はまだ速い。
でも、先ほどまでの不安とは少し違う速さだ。
机へ戻り、私は整理メモの最後に一行だけ書き足した。
『五、必要なら俯かない』
書き終えた文字は、妙にまっすぐだった。




