第二十六話 裏帳簿の名はフェリクス
匿名苦情箱は、時々とんでもないものを連れてくる。
特別監査官になって三日目の朝、箱の底に折り畳まれた紙片が入っていた。
『西倉庫五番、夜半に帳簿を移す。旧帳ではなく、青革の方を見ろ』
差出人名はない。
悪戯の可能性もある。だが、こういう具体的な匿名文は無視しない方がいい。
私は即座にマルタさんとトマスを呼び、夜間の監視体制を整えた。
そしてその夜、本当に動きがあった。
西倉庫五番の裏口から、二人の男が青革装丁の帳簿を抱えて出てきたのだ。護衛兵が押さえた時、片方は逃げ、片方は転んで帳簿を落とした。
青革の表紙には何の題字もない。だが開いた瞬間、私は息を止めた。
そこに並んでいたのは、表向きの台帳には出ない「推薦枠」取引一覧。
貨物名、箱数、入出港日、通した港、分配先。
そして欄外には、略号ではなく、今度ははっきりと名前が記されていた。
『F・ダールトン』
『G・ゼグナー』
『GR(寄進枠)』
「……出ましたね」
私の声は思ったより冷えていた。
トマスが青ざめる。
「本当に、フェリクス様が」
「様は要りません」
「す、すみません!」
帳簿の中身は想像以上にひどかった。
医療薬草の横流し、寄進名目で運ばれた高級嗜好品、軍需用魔石の一部転用、さらに『白紙推薦』による無検査通行。
その利益配分表には、王都の財務院関係者と教会関係者の取り分まで記号で整理されている。
「証拠としては十分ですか」
マルタさんが震える声で訊く。
「かなり」
「かなり、で済む規模なんですか」
「済みません。だからこれから大変です」
私はすぐにページごとの写しを取り、原本へ封印を施した。
誓約紋の残り具合から見ても、この帳簿は複数人が閲覧してきたが、直近で書き込んだのは一人。筆圧と数字の癖は、王都で何度も見たフェリクスの補助書式に近い。
本人直筆か、側近か。いずれにせよ、彼の手元から遠い人間ではない。
翌朝、私は帳簿を持って公爵府へ向かった。
レオンハルト公爵は内容をざっと確認し、静かに息を吐く。
「これを出せば、王都は動く」
「ええ。隠す方へ」
「だろうな」
「先手が要ります」
私は机へ新しい紙を広げた。
必要なのは、単なる告発文ではない。証拠封印目録、関連条文、王命書改正案、被害総額の概算、そして王都へ提出する際に握りつぶしにくい宛先。
財務院へ直接出しては駄目だ。王家文書院と監察局、それに王宮法務局へ同時送付する必要がある。
「三系統同時に?」
公爵が問う。
「はい。一つが握っても、残りで動ける形にします」
「容赦ないな」
「握りつぶされる方が困るので」
彼は小さく頷いた。
「好きにやれ」
「ありがとうございます」
そこでふと、帳簿の一頁に挟まっていた小さな紙片を思い出す。
そこには、走り書きでこうあった。
『Iを戻せ。あれがいないと整理が追いつかない』
I。
おそらく、アイリスの頭文字だ。
読み上げた瞬間、自分でも少し息が詰まった。
フェリクスにとって私は、最後までそういう存在だったのだ。人ではなく、整理のための部品。
「……馬鹿ですね」
思わず漏れた言葉に、公爵が目を上げる。
「誰が」
「向こう全員です」
胸は痛んだ。
けれどもう、泣くような痛みではない。むしろ、線が確定した時の静かな怒りに近い。
「戻りません」
私は帳簿を閉じた。
「二度と」
公爵は何も言わなかった。
代わりに、机の端へ置かれていた封印箱を私の方へ寄せる。証拠を守れ、という無言の了承だ。
私はその箱へ青革帳簿を納め、鍵をかけた。
音が、思いのほか重かった。
けれどそれは終わりの音ではなく、ようやく反撃の準備が整った音だった。




