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第二十五話 雪の下の仮契約

公爵家の晩餐から戻った翌朝、私の机の上には一通の封書が置かれていた。

公爵印つき。

開けば、中身は簡潔な契約案だった。


『フェルンベルク公爵領特別監査官 任用契約』


「……特別監査官?」

思わず声に出すと、向かいのトマスが目を上げる。

「昇進、ですか」

「たぶん」

「たぶん?」

「内容を読むまで分かりません」


契約は明快だった。

任期は半年更新。権限は税関、倉庫、港湾関連契約の監査全般。必要時には公爵名代理として臨時停止命令を発行可能。護衛と文書保全の権限も付随する。

さらに宿舎は庁舎横の簡易宿舎から、公爵府管轄の文官棟へ移ることが明記されていた。


「ずいぶん大きいですね」

マルタさんが目を丸くする。

「はい。これだと、私を狙う側も『ただの外部補佐』では済ませにくくなります」

「狙う側、って」

トマスが顔を引きつらせる。

「その表現が日常になってきましたね」

「良くない傾向です」


昼すぎ、私は契約案を持って公爵府へ向かった。

執務室で待っていたレオンハルト公爵は、最初から分かっていたように言う。


「読んだか」

「はい。かなり重い内容です」

「必要だ」

「なぜ今なのですか」

「王都側が君個人へ圧をかけ始めたからだ。今のままだと、何か起きた時に『私的に動いた文官』として切り離される」

「だから、正式に公爵領の役職へ」

「そうだ」


理屈は理解できる。

理解できるのだが、最後の一行が少しだけ気になった。


「文官棟への転居も必要ですか」

「今の宿舎は庁舎に近すぎる。襲われやすい」

「物騒ですね」

「密輸屋に嫌われている自覚は持て」


返す言葉もない。

ある意味、昇進と護衛強化をまとめて押しつけられているようなものだ。


私は契約の末尾を指先で叩いた。

「一つだけ。任用終了時の成果物帰属が『公爵領と本人の共有』になっています」

「不満か」

「いいえ。確認です。王都では、よくそこをごまかされましたから」

「君の書いたものは、君のものでもある」

彼は即答した。

そのあまりの迷いのなさに、少しだけ息が止まる。


「……ありがとうございます」

「当然だ」


窓の外では雪が降り始めていた。

細かな白が石庭へ静かに積もっていく。


「署名は今ここで?」

私が尋ねると、公爵は頷いた。

「嫌なら断ってもいい」

「断る理由はありません」

「本当に?」

「少しだけ緊張はしています」

「それは私もだ」


意外すぎて、私は顔を上げた。

公爵は書類から視線を外さないまま言う。


「君を公爵領の名で抱え込む。王都は、別の意味でも騒ぐだろう」

「別の意味?」

「貴族は、未婚の女と男が公的契約を結ぶだけで余計なことを言う」

「……ああ」

ようやく理解して、少しだけ耳が熱くなる。


確かに、若い公爵と婚約破棄された令嬢が、保護付きの特別任用契約を結ぶ。

噂好きには格好の餌だろう。


「ですが、噂のために仕事を止める気はありません」

「同意だ」

「では署名します」


私はペンを取り、名前を書いた。

インクが紙へ染みる。

続いて公爵が署名し、公爵印を押す。最後に私も私印を重ねた。


その瞬間、契約書の文字列全体へ淡い光が走った。

均衡が取れた契約だけが持つ、静かな輝き。

見た瞬間に分かる。これは、悪くない契約だ。


「これで今日から、君は特別監査官だ」

「肩書きが大きくなりました」

「仕事量もな」

「それは笑えません」


署名を終えて立ち上がると、執務室の扉が開き、クララ嬢が顔を出した。

「まあ! 今ちょうど終わったの? おめでとうございます、未来のお姉さま――じゃなくて、監査官さま!」

「クララ」

公爵が低く唸る。

「いま、余計な単語が混ざりましたね」

私が言うと、クララ嬢は悪びれもせず笑った。


「だって仮契約って、響きがそれっぽいじゃない!」

「特別監査官任用契約です」

「ふふ、そうね。今は」


今は、という部分を聞かなかったことにしつつ、私は署名済み契約書を封筒へしまった。

窓の外の雪は、先ほどより強くなっている。


公爵府を出るとき、護衛兵が自然に私の左右へついた。

もう私は外部の補佐ではない。

この北辺の名で動く、人員の一人だ。


雪の下で新しい契約書の熱がまだ少し残っている気がして、私は封筒を外套の内側へ大事にしまい込んだ。

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