第二十三話 書類令嬢は頭を下げない
セシリアが会議室へ入ってきたあの瞬間、王都側の顔色が目に見えて変わった。
「その書式……まだ使っているのですか」
彼女の声は震えていたが、はっきりしていた。
バジル査察官がすぐに取り繕う。
「聖女候補様、これは財務院の通常業務でして」
「通常業務ではありません」
セシリアは言い切った。
「その書式は、寄進物資の緊急搬送にも流用されていました。中身を空欄のまま、あとで書き換えられると、私は何度も説明を受けました」
ガブリエル修道士が顔を強ばらせる。
「聖女候補様、お疲れでしょう」
「疲れているからこそ、曖昧な紙は見たくないのです」
私は机の下でそっと拳を握った。
よく言った、と。
セシリアの発言で、査察官たちは一気に守勢へ回った。
それでもバジルはなお、「誤解だ」「手続きの便宜上」と弁明を重ねる。
私はその隙に、すでに用意していた資料束を卓上へ広げた。
「便宜上、という言葉は便利ですね」
「何ですと」
「空欄推薦状が使われた日の前後で、未申告貨物の数量が不自然に増えています。こちらが港湾記録。こちらが倉庫出納。こちらが王都教会寄進台帳の写しです」
「寄進台帳?」
ガブリエル修道士が声を裏返らせる。
「ええ。聖女候補様の視察名目で動いた物資と、港で実際に受け取られた物資が一致しません」
セシリアが私を見る。
私は小さく頷いた。
昨日のうちに、彼女から聞いた箱数と実搬入数を照合していたのだ。完全な証拠ではないが、十分に揺さぶれる。
「これはまだ仮説です」
私はわざと穏やかに言う。
「ですので、査察をなさるなら、まず王都側推薦書式と寄進搬送の運用実態をご説明ください」
「我々を尋問する気か」
「査察とは相互確認です」
「生意気な」
「役割の範囲内です」
バジル査察官が机を叩いて立ち上がった。
「レーヴェンベルク嬢。あなたは自分の立場が分かっていない。北辺で少し成果を出したからといって、王都の制度そのものへ口を出せるとでも?」
「出します」
「は?」
「制度が悪用されているなら、出します。立場がどうであれ」
沈黙。
私自身、よくこんなにするりと言えたものだと思う。
たぶん、返事を書かないと決めた時から、少しずつ変わっていたのだ。
誰かの顔色を見て、言葉を削るのはやめた。
必要なことは、必要なだけ言えばいい。
「頭を下げるつもりはありません」
私は静かに続けた。
「ここで確認しているのは、誰の面子でもなく、港で実際に人が食べ、働き、薬を受け取れるかどうかです」
レオンハルト公爵が椅子の肘掛けへ指を置き、低く言う。
「聞こえたな。これが北辺側の回答だ」
その一言で、王都側は完全に引き下がれなくなった。
結局、査察官たちはその日のうちに「追加確認のため資料を持ち帰る」と言って会議室を後にした。
敗走に近い引き上げ方だったが、去り際、バジルは私へ低く囁いた。
「王都は甘くない」
私は同じくらい低く返す。
「港もです」
彼が去ったあと、会議室の空気が一気にゆるんだ。
トマスは椅子へへたり込み、マルタさんは深く息を吐く。
「胃が死にました……」
「生き返りますよ」
「本当に?」
「食堂へ行けばたぶん」
「食堂万能説ですね」
「かなり」
セシリアはまだ立ったまま、少しだけ青い顔をしていた。
私は水を渡す。
「ありがとうございました」
「私の方こそ」
彼女は杯を両手で包みながら言う。
「怖かったです。でも、あなたが先に言ってくれたから」
「私は数字を読んだだけです」
「それでも、誰かが最初に言うのは怖いです」
その通りだ。
怖くないわけがない。王都は甘くない。たぶん本当にそうだ。
でも、怖いから黙るのは、もう違う気がした。
会議室を出たとき、夕暮れの廊下で若い職員たちがこちらを見ていた。
何人かは慌てて頭を下げる。何人かは明らかに尊敬の混じった目で見る。
書類令嬢。
王都では皮肉として投げられた呼び名が、もしここで別の意味になるのなら。
それはたぶん、悪くない。
その日の夜、匿名苦情箱の中に、見慣れない紙が一枚入っていた。
『頭を下げない役人がいるなら、もう少しこの港を信じてみようと思う』
短い文だった。
差出人はない。
でも、十分だった。




