第十八話 古い条約、黒い利益
密輸船の荷札に記されていた『F』の記号は、私に眠りの浅い夜をもたらした。
王都時代、フェリクスはよく自分の名前を簡略記号で処理していた。正式文書に使うことはないが、私的メモや急ぎの指示では『F』の筆記を独特の角度で崩す。その癖が、押収した荷札の裏書きとあまりに似ていたのだ。
もちろん、証拠としては弱い。
けれど勘だけで片づけるには気味が悪すぎる。
翌朝、私は公爵府の文書庫へ籠もった。
フェルンベルク公爵領と王都商会の間で交わされた旧契約、海上交易の特例文書、港湾免税に関する王命書。そのあたりを洗えば、今の密輸に繋がる何かがあるかもしれないと思ったからだ。
文書庫は静かで、乾いていた。
革表紙と古紙の匂いは嫌いではない。むしろ落ち着く。
「ありました……」
半日ほど掘り返したころ、一冊の古い台帳に指が止まった。
『北海非常輸送特例協定』
今から十八年前、海魔の大襲撃が続いた年に結ばれた協定だ。王都の大商会が軍需物資と食糧を迅速輸送する代わり、港での検査を一部簡略化し、臨時免税枠を広げる。
非常時としては理解できる内容だが、問題はその適用条件の曖昧さだった。
『非常時の判断は領主、または王都財務代行の署名ある推薦状による』
財務代行。
現在その実務を握っているのは、ダールトン侯爵家の一派だ。
「嫌な繋がり方をしますね」
私は頁をめくりながら呟いた。
さらに読み進めると、付属文書にゼグナー商会の前身名が出てくる。北辺への優先搬入資格、王都側推薦商会との共同運用、保管貨物の事後申告容認――。
つまりこの条約は、非常時のための抜け道であると同時に、平時に悪用すれば検査と課税を骨抜きにできる仕組みでもあった。
「見つけたか」
背後から公爵の声。
私は振り返らず頁を押さえたまま答える。
「かなり嫌なものを」
彼は私の向かいへ立ち、差し出された条文を読んだ。
眉間の影が深くなる。
「古い」
「ええ。しかも王都側の推薦状があれば、港の現場は半ば逆らえません」
「今まで誰も止めなかった理由になるな」
「非常時のための条約なので、表立って否定しづらいのでしょう。ですが現状では、ゼグナー商会がこの特例を私物化しています」
私は押収荷札と旧協定の条項を並べた。
すると、荷札の裏に記された略号と、条約番号の引用位置が妙に一致することに気づく。
これは現場の密輸屋が独学で扱える情報ではない。王都の制度に明るい人間が背後にいる。
「フェリクスの可能性は高まりました」
「断定は」
「まだ。ただ、この条約を使って北辺の検査を迂回できることを知っている人間は限られます」
公爵は黙って考え込み、やがて言った。
「王都から切り離すには、条約そのものの見直しがいる」
「でも今すぐやれば、軍需の正規輸送まで止まります」
「だから難しい」
「はい」
私は机へ肘をつかないよう気をつけながら、額へ指を当てた。
抜け道を塞げば必要な流れも止まる。雑な正義は、別の場所で人を殺す。
だから制度は面倒なのだ。
「でも、方法はあります」
「何だ」
「特例を全面停止するのではなく、『推薦状の発行要件』を厳格化します。王都財務代行の単独推薦ではなく、領主側の事前照合を必須にする。さらに事後申告の猶予期限を短縮し、未申告時の差押えを自動化する」
「通せるか」
「王命書の修正が必要です。でも、今回の密輸と医療倉庫不足を一つの流れで示せれば、正当性はあります」
話しながら、私は自分の中で線が繋がっていくのを感じていた。
ゼグナー商会。
偽造印章。
医療倉庫の横流し。
密輸船。
王都側の推薦枠。
フェリクスの記号。
全部が、非常時を食い物にしている。
「アイリス」
公爵が低く呼ぶ。
「危険だぞ」
「何がですか」
「その線を辿れば、王都の貴族と正面からぶつかる」
「最初から、そういう仕事に就いたつもりです」
「君は時々、文官に見えない答えを返す」
「請求書を読み上げるときも言われました」
すると彼がわずかに笑った。
その笑みはすぐに消え、真面目な眼差しへ戻る。
「なら、こちらも腹を括る」
「閣下」
「王都とやり合うなら、公爵領として立つ。君一人の監査ではなく、北辺の意思として動かす」
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
王都では私はいつも、誰かの陰で働く手だった。
でも今は違う。背後に、組織として立ってくれる人がいる。
「ありがとうございます」
「礼は、勝ってから言え」
「厳しいですね」
「当然だ」
文書庫を出る頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。
私は条約の写しと、密輸荷札の控えを抱えながら思う。
もうこれは港の小さな不正ではない。
王都から伸びた黒い手が、非常時の条文を使って北辺を食っている。
なら私は、その条文ごと、切り返す準備を始めるしかない。
第二章ここまでです。
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