第十七話 公爵の傷
レオンハルト公爵を医務室へ押し込めたのは、私にしてはかなり乱暴な部類に入る。
「軽傷だ」
「軽傷かどうかは、私ではなく医師と針が決めます」
「針?」
「縫うのでは」
「縫わなくて済む程度だ」
「だったら余計に、きちんと消毒してください」
押し問答の末、公爵はようやく上衣を脱いだ。
肩口を掠めた短矢は深くはなかったものの、刃先に粗悪な毒避け油が塗られていたらしく、皮膚が赤く腫れている。医師が眉をひそめ、傷の洗浄を始めた。
私は横で黙って毒性確認表を開く。
黙っていないと、必要以上に怒った声を出しそうだったからだ。
「アイリスさん、紙が破れます」
付き添いで来ていたマルタさんにそっと言われ、私はようやく自分が紙端を潰しかけていることに気づいた。
「……すみません」
「お気持ちは分かりますけど」
「そんなに顔に出ていますか」
「かなり」
医師が処置を終えた頃には、外はすっかり夜になっていた。
密輸船の摘発自体は成功。拘束者十二名、押収武器三箱、魔石六箱。倉庫側の受け手も三名確保。成果としては大きい。
なのに、私の頭の中では、公爵の肩へ走った赤い線ばかりが何度も再生されていた。
「もう大丈夫だ」
処置台から降りた公爵が言う。
「包帯は三日。発熱がなければ問題ない」
「発熱したら」
「大人しく寝る」
「本当に?」
「たぶん」
「さきほどの予備灯籠と同じくらい信用できません」
「よく覚えているな」
医師と衛兵が苦笑しながら部屋を出ていく。
気づけば、医務室には私と公爵だけが残っていた。
気まずいわけではない。
けれど、少しだけ静かすぎる。
「ありがとう」
不意に彼が言った。
「荷札の記号に気づかなければ、もう少し後手になっていた」
「でも矢を防げませんでした」
「君の仕事ではない」
その通りだ。
その通りなのに、納得しきれない。
「閣下は、いつもああなのですか」
「どういう意味だ」
「前に出すぎます」
「後ろから見ている方が性に合わない」
「領主としては少し困ります」
「文官に叱られているな」
「叱っています」
彼は肩をすくめようとして、傷に響いたのか顔をしかめた。
私は思わずため息をつき、近くの椅子を引き寄せる。
「座ってください」
「命令か」
「推奨です」
「どこかで聞いた言い回しだな」
ようやく少しだけ、いつもの調子が戻る。
私は傷薬の小瓶を片づけながら、慎重に訊いた。
「氷属性の魔力が強いと、怪我も治りにくいのですか」
「少し」
「そういうことも、皆さん知っているのですか」
「近しい者だけだ」
近しい者。
その言葉の範囲に私は入っていないはずなのに、今こうして聞いている。
彼は窓の外を一瞥してから、低い声で続けた。
「子どもの頃、暴走して侍従の手を凍傷にしたことがある」
「……」
「それ以来、長く触れるのは避けている」
「だからいつも手袋を」
「そうだ」
私は自分の手を見る。
海霧祭で触れた素手の冷たさを思い出す。たしかに冷たかった。でも、恐ろしいとは感じなかった。むしろ――。
「私は、痛くありませんでした」
「短く触れただけだ」
「それでも」
「君は危機感が薄い」
「そうでしょうか」
「かなり」
私は少し考えてから、処置台の脇に置かれた包帯鋏を片づけ、彼の前へ立った。
「少しだけ、手を出してください」
「なぜ」
「確認したいことがあります」
「また確認か」
「はい」
彼はあからさまに警戒しつつも、やがて右手袋を外して差し出した。
白く大きな手。節が硬い。冬の石みたいに冷たい。
私は自分の手袋を外し、その掌へ指先を重ねた。
ひやり、とした冷気が肌を走る。
けれど痛みはない。むしろその冷たさの奥に、人の体温がちゃんとあるのが分かる。凍っているわけではない。ただ、普通よりずっと冬に近いだけだ。
「……ほら」
私は顔を上げた。
「平気です」
「君は」
彼は言葉を失ったように黙り込む。
私も自分が何をしているのか途中で気づき、急に耳まで熱くなった。
慌てて手を離そうとしたら、今度は逆に、彼の指が私の手の甲を軽く押さえる。
本当に軽くだ。
それなのに、心臓が大きく跳ねた。
「アイリス」
低い声で名を呼ばれる。
「無茶をするなと言ったのは私だが、君も大概だ」
「……確認は必要ですので」
「そういう理屈でいつか危険へ飛び込む」
「さきほど飛び込んだのは閣下の方です」
言い返すと、彼は困ったように息を吐き、ようやく手を離した。
その瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に、私は内心で頭を抱える。
「今日はもう戻れ」
彼は言う。
「残務は明日だ」
「はい」
「それと、荷札の記号については私も追わせる。君一人で抱えるな」
「……承知しました」
医務室を出たあと、廊下の冷たい空気が頬に気持ちよかった。
熱くなりすぎた顔を冷やすにはちょうどいい。
でも、胸の内側だけは、全然冷えてくれなかった。




