第十五話 海霧祭の誘い
グラナート港では、冬の入口に「海霧祭」という小さな祭りがある。
海霧が濃くなる季節の始まりに、灯籠を流して無事な航海と港の安全を願う行事らしい。去年までは税関も倉庫も揉め事続きで形ばかりだったそうだが、今年は久しぶりに広場へ露店まで出ると聞いた。
「アイリスさんも来ますよね?」
昼休みにトマスが勢い込んで言う。
「役所の人、みんな出るんです。というか、来ないとマルタさんが寂しがります」
「ちょっと、私を口実にしないで」
「でも本当ですよね」
「……本当ですけど」
二人に見つめられ、私は匙を止めた。
祭り。
王都の夜会ならいざ知らず、港町の祭りに私が混ざる図は想像しづらい。
「仕事が終われば」
そう濁すと、トマスがぱっと顔を明るくした。
「じゃあ席取っておきます!」
「席というより長机ですけどね」
マルタさんが笑う。
午後、その話を聞きつけたのか、執務室でレオンハルト公爵が書類へ署名しながら言った。
「祭りの日の終業札は早めに裏返せ」
「命令ですか」
「推奨だ」
「珍しく弱い言い方ですね」
「祭りに命令で出席させるものではない」
そのとおりで返す言葉がない。
私は書類を整えながら、少しだけ迷った。
夕方、結局私は祭りへ行った。
宿舎でいつもの仕事着から、比較的まともな濃紺のワンピースへ着替え、母が持たせてくれた薄灰色のショールを羽織る。
鏡を見て、華やかさのない自分に少しだけ苦笑する。王都なら埋もれる装いだろう。でもここでは、たぶんこれで十分だ。
広場は想像以上に賑わっていた。
焼き魚の香り、甘く煮た林檎酒、子どもたちの笑い声、波打ち際に並ぶ小さな灯籠。寒いのに、人の熱で空気がやわらかい。
「アイリスさん、こっちです!」
トマスが大きく手を振る。
彼の隣にはマルタさん、ガイ、記録係たち、倉庫の若い番人までいた。私を見るなり皆が少し気まずそうにしつつも、席を詰めてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
差し出された温かい魚の串焼きを受け取り、私は長机の端へ腰掛けた。
正直に言うと、最初は落ち着かなかった。誰と何を話せばいいのか分からない。
けれどガイが「新しい賃金契約、今日から使ったぞ」とぶっきらぼうに報告し、マルタさんが「読み上げ用の札を作ったんです」と見せてくれ、トマスが「僕、灯籠流しの順番係なんです」と嬉しそうに話すうち、少しずつ肩の力が抜けていった。
「アイリスさんって、笑うと印象変わりますね」
不意にトマスが言って、周囲がしんとした。
彼は自分で言ってから真っ赤になる。
「す、すみません! 変な意味じゃなくて!」
「いえ、たぶん変な意味ではなかったのでしょう」
「はい、本当に」
「では、そういうことにしておきます」
マルタさんが吹き出し、長机の空気が和らいだ。
私は自分が本当に笑っていたことに、その時になって気づく。
灯籠流しが始まる頃、広場のざわめきがふっと引いた。
レオンハルト公爵が現れたのだ。
今日は正装ではなく、濃い色の外套に簡素な銀の留め具だけ。祭りだからか、いつもより少しだけ近寄りやすく見える。
「閣下も来られたんですね」
トマスが緊張しながら立ち上がる。
「顔だけ出すつもりだった」
公爵はそう言いながら、なぜかまっすぐ私の方へ来た。
「灯籠は受け取ったか」
「いいえ、まだです」
「なら、これを」
差し出されたのは、小さな木の灯籠だった。
中に魔石灯を入れられるようになっていて、側面には港の紋が彫られている。
「閣下の分では」
「予備だ」
「本当ですか」
「……たぶん」
たぶん。
そういうところは少し不器用だと思う。
私たちは連れ立って波打ち際へ向かった。
周囲の視線が痛いほど集まっているのが分かる。でも、ここで離れる方がよほど不自然だ。
「何を願うんですか」
私が灯籠を両手で持ちながら訊く。
「港の平穏」
「領主として模範解答ですね」
「君は」
「税関の帳簿がきれいに揃いますように」
「現実的だな」
「かなり切実です」
すると、公爵が小さく笑った。
私はその横顔を見て、胸が少しだけ忙しくなる。
波へ灯籠を流す瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
私の灯籠が傾きかけ、思わず体勢を崩す。すると、すぐ横から公爵の手が伸びて腕を支えた。
素手だった。
手袋越しではなく、直に触れる冷たさだった。
確かに冷たい。けれど痛くはない。むしろ、その温度差のせいで、自分の体温の方を強く意識してしまう。
「平気か」
「はい」
「……本当に?」
「ええ。約束どおり、確かめました」
一瞬、彼が何のことか分からない顔をして、それから夜の執務室での会話を思い出したのだろう、少しだけ目を見開いた。
私は自分で言っておいて急に恥ずかしくなり、急いで灯籠へ視線を落とす。
灯りは波に揺れながら沖へ流れていった。
その小さな光を見つめながら、私は思う。
王都では、灯りの多い場所ほど息苦しかった。
でもこの港の小さな灯は、不思議なくらいまぶしくなかった。




