第十四話 返事を書かない勇気
フェリクスへの返事を書かないと決めたあと、私はしばらく落ち着かなかった。
机へ向かえば、反論文の文面が頭へ浮かぶ。
『感情的なのはどちらか』
『私の成果を当然のように自分の所有物扱いしないでください』
『あなたが必要としているのは私ではなく、私の労働です』
どれも正しい。少なくとも私にはそう思える。
けれど紙に書いてしまえば、それはまた相手へ渡る。読まれ、解釈され、好きなように曲げられる。そう考えると、どの一文も書く気が失せた。
昼過ぎ、私は気分転換のつもりで港の外れにある監視塔へ上った。
ここからだと湾内の船の動きが一望できる。灰色の海、黒い岩礁、点のように動く荷船。
風は強いが、頭が冷えるにはちょうどいい。
「逃げ場所にしては寒すぎないか」
後ろから声がした。
レオンハルト公爵だった。
「逃げてはいません」
「では、考えごとだな」
「……否定はしません」
彼は私の隣へ立ち、同じように海を見た。
しばらく二人とも何も言わない。
「返事を書きたくなるか」
やがて、彼が訊く。
「書きたくはなります」
「だが書かない」
「はい」
「なぜ」
「書けば、まだ私が相手の言葉に従っている気がするからです」
口にしてみると、思ったよりしっくり来た。
フェリクスはいつも、私が説明し、整え、最後には従うことを前提に話した。婚約破棄の場でさえそうだった。
だから私は、彼の投げた言葉へ毎回きちんと返すことで、見えない命令へ従っていたのかもしれない。
「返さないのは、逃げではありませんか」
ふとそう口にすると、公爵はわずかに眉を動かした。
「逆だ」
「逆?」
「相手の望む形で戦わないのは、逃げではない。戦場を選ぶだけだ」
風が吹き抜ける。
私はその言葉を胸の中で反芻した。
戦場を選ぶ。
たしかに、そう考える方がずっと分かりやすい。
「閣下は、いつもそうやって選ぶのですか」
「必要なら」
「王都のように社交で刺す戦場は苦手そうです」
「苦手だ」
即答だった。
私は思わず笑う。
「でも、黙って睨むだけでだいたい勝てそうです」
「それは誉めているのか」
「半分は」
「残り半分は」
「事実です」
公爵は呆れたように息を吐いた。
けれど不機嫌ではなさそうだ。
塔を降りる途中、下の広場から子どもたちの声が聞こえた。
難民船に乗っていた子どもたちが、港の孤児院の子と一緒に雪まじりの地面で遊んでいる。数日前まで凍えていたのに、子どもは回復が早い。
「助かったのですね」
「医師の見立てでは、危ない峠は越えた」
「よかった」
私は心からそう思った。
その声が自分でも柔らかかったのか、公爵が少しだけ目を細める。
「君は、もっと自分がやったことを認めてもいい」
「何をですか」
「倉庫を開けたことも、請求書を読んだことも、手紙を返さないと決めたことも」
「……後ろ二つは、褒められると妙な気分です」
「なぜだ」
「請求書の読み上げは少し楽しかったので」
「正直だな」
「手紙を返さないのも、半分は意地です」
「意地で結構だ。意地は骨になる」
その言葉は、思った以上に胸へ残った。
庁舎へ戻ると、記録室の机へ新しい封筒が置かれていた。
王都便だ。私は一瞬だけ身構えたが、差出人は母だった。
中には短い便箋が一枚だけ。
『北辺は寒いでしょう。夜は湯を切らさないように。ノーラがあなたの好きな乾燥林檎を荷へ入れておきました』
それだけ。
励ましも謝罪もない。
でも、なぜだか目の奥が少し熱くなった。
フェリクスの手紙へは何も返さない。
母の手紙へは、後で短く返そう。
そう思えたことが、少し嬉しかった。
その夜、私は証拠箱の中にフェリクスの手紙をしまい込み、鍵をかけた。
そして自分の作業机には、もう新しい返事用の紙を出さなかった。
書かない。
選ばない。
与えない。
それもまた、私が持てる権利なのだと、ようやく理解し始めていた。




