第十三話 元婚約者からの手紙
最初の請求書ざまぁから三日後、王都から速達便が届いた。
差出人はフェリクス・ダールトン。
見た瞬間、私は封を切る前から少し疲れた。
封蝋はやたらと上質で、香まで焚きしめてある。こういうところがあの人らしい。中身がどれだけ身勝手でも、外側だけは立派なのだ。
「開けますか」
トマスが遠慮がちに訊く。
私の机の前には、たまたまマルタさんと彼が揃っていた。二人とも露骨に気にしている。
「ええ。来た以上は内容を確認します」
「毒とか入ってませんよね」
「トマス」
マルタさんが小声でたしなめた。
「そこまで物騒ではないと思います。たぶん」
私はペーパーナイフを入れ、便箋を引き出した。
繊細な筆跡。文面は、予想どおり丁寧に整えられていた。
『親愛なるアイリスへ。北辺での生活にはもう慣れただろうか。君が感情的になったまま遠地へ去ったことを、私は今も残念に思っている――』
開始一行目で便箋を畳みたくなった。
「感情的、だそうです」
「どなたが?」
マルタさんが目を瞬く。
「私が」
「どこがですか」
「私にも分かりません」
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要約するとこうだ。
君が抜けて王都の寄付監査と税案整理が回らない。
君の能力は高く評価している。
過去の行き違いは水に流そう。
正式な婚約は無理でも、私的な顧問として戻ってこないか。
必要なら別邸も用意する。
セシリア嬢は公の顔として必要だが、君の実務能力は代えがたい。
私は便箋を机へ置いた。
沈黙が落ちる。
「…………最低ですね」
最初に口を開いたのはマルタさんだった。
「ほんとうに最低ですね」
「二回言いましたね」
「二回言うべき内容です」
トマスは顔を真っ赤にして拳を握りしめている。
「何ですかそれ! 公の顔は別の人、仕事はアイリスさん、って! 都合が良すぎます!」
「そうですね。都合はとても良いでしょうね、あちらにとって」
私はもう一度手紙へ視線を落とした。
最後には、ほとんど命令に近い一文まで添えられていた。
『君は感情よりも役割を優先できる賢い女性だ。ゆえに、最終的には正しい判断をすると信じている』
信じている、ではない。
従うと思っている、だ。
「返事はどうなさいますか」
マルタさんが慎重に尋ねる。
私は少し考えた。
怒りのままに破り捨てるのは簡単だ。でも、それでは相手の土俵へ乗るだけな気がする。
「返しません」
「え」
「何も」
「何も、ですか」
「はい。返答の価値がありません」
その時、ちょうど扉が開いてレオンハルト公爵が入ってきた。
彼は私たちの卓上の空気を一瞥し、便箋へ目を落とす。
「何かあったか」
「王都から、元婚約者の手紙です」
トマスがむっとしたまま答えた。
「内容は……かなり腹立たしいです」
「トマス」
「事実ですので」
公爵は私へ視線を向けた。
「見てもいいか」
「どうぞ」
彼は黙って文面を読み、最後まで目を通すと、便箋を丁寧に畳み直した。
そして一言。
「燃やすか」
「閣下」
思わず吹き出しそうになる。
「公的文書ではありませんので、燃やしても問題はありませんが」
「なら問題ない」
「一応、証拠として取っておきます」
「ちっ」
「今、舌打ちしませんでした?」
「していない」
たぶん、した。
でもその分かりやすすぎる不機嫌さに、私は少しだけ救われた。
「返事は書くのか」
「いいえ」
「妥当だ」
「驚かれませんね」
「相手は君を『個人』として呼び戻していない。『便利な実務』として呼んでいるだけだ」
そう言われると、胸のどこかが静かに痛んだ。
分かっていたことを、他人の口から確認される痛みだ。
でも、その痛みには不思議と冷静さも伴っていた。
「……はい」
「なら、返事は不要だ。沈黙も意思表示になる」
沈黙も意思表示。
その言葉を私は心の中で何度か繰り返した。
王都では、何か言わなければ負ける気がしていた。
説明しなければ誤解が固定される。
怒らなければ舐められる。
泣かなければ傷ついていないと思われる。
だからいつも、言葉の形にできないものまで整理して、差し出してきた。
でも、返さないことも選べるのだ。
その自由に、私は今まで気づかなかった。
「では、この件は保管箱へ」
私は手紙を証拠封筒へ入れ、日付と差出人を書いた。
「今後、ダールトン家からの文書は私経由でなく記録室を通してください」
「承知しました」
トマスがきりっと頷く。
公爵は去り際、ふと立ち止まった。
「もし次も来たら」
「次も?」
「今度は私に見せる前に、食後に読め。空腹時には毒だ」
「……ご忠告、ありがとうございます」
彼が出て行ったあと、私はしばらく便箋の入った封筒を見つめていた。
返事は書かない。
それだけのことが、思っていたよりずっと難しく、同時に、思っていたよりずっと強い選択に感じられた。




