第9話「覚えていない、と、分からない」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第9話「覚えていない、と、分からない」
【帰還から二ヶ月半 白川玲奈】
三枝透の研究室には、極地の氷の写真がいくつも飾られていた。白と青だけの世界が、壁一面に静かに並んでいる。
「面会に応じてくださって、ありがとうございます」
「同じ分野ですから。……ただ、私は何も覚えていませんよ」
玲奈は、あらかじめ決めておいた言葉で先に釘を刺した。三枝は穏やかに頷いて、コーヒーを二つ置く。
「専門の話から始めましょうか。認知科学のほうは、どこまで?」
「学部の頃に、少し」
しばらく、他愛のない学術の会話が続いた。三枝は話しやすい人だった。だからこそ、玲奈は気を抜かなかった。
「ひとつ、訊いてもいいですか。失踪していた二週間、どこにいましたか」
「分からない」
三枝が、ふっと笑った。
「面白い答えですね。他の六人は、全員『覚えていない』でした」
「同じことでは?」
「全然違う」
聞き覚えのある言葉が、自分に返ってきた。玲奈は、わずかに息を止める。
「覚えていないは、記録がないということ。分からないは、記録があるのに、説明がつかないということです」
「……言葉の綾です」
「そうですか」
三枝は、それ以上追わなかった。かわりに、タブレットを差し出した。
「見ていただきたいものがあります。七つの配信の、音声の波形です」
画面には、七本の細い線が並んでいた。消失の三分前から、全員の線に、同じ周期の低い波が重なっている。
「七つの別々の部屋で、同じ周期のノイズが、同じ瞬間に始まって、同じ瞬間に消えています」
「機材の不具合では」
「七人、別々の機材ですよ」
玲奈の指が、気づけばペンを動かしていた。手元のメモ帳の端に、細い線が走っていく。直線と曲線を組み合わせた、見慣れた形。日本語でも英語でもない記号。
三枝の視線が、そこで止まった。
「それは?」
玲奈の手が止まった。
「癖です。考えていると、書いてしまう」
「見たことのない文字ですね」
「ただの落書きです」
「そうですか」
三枝は微笑んだ。玲奈は、メモ帳をそっと閉じた。
「もうひとつだけ」と三枝が言った。「時間のずれは、普通なら広がり続けるか、消えるかです。それが、なぜ二週間で止まって、七人は戻ってこられたのか」
玲奈は、すぐには答えなかった。
「……分からない」
「私もです」
三枝は静かに言った。氷の写真に囲まれたその声は、少しだけ、楽しそうだった。
【その夜 研究室】
誰もいない研究室で、玲奈はノートを開いた。
『問い:なぜ戻れたのか』
ペン先が、しばらく紙の上で止まった。雅人のモニターの縁には、あの付箋がまだ貼られている。『不明=まだ分かっていない』。
玲奈は、その下に一行だけ足した。
『逆は?』
書いてから、小さく笑った。分からないことが、何より嫌いだった。今も、嫌いだ。ただ、分からないものを分からないまま、それでも手を伸ばすことを、玲奈は覚えていた。
【同じ夜 三枝透】
玲奈が帰ったあと、三枝は自分のノートを開いていた。
彼女が書きかけて、閉じた記号。一瞬しか見えなかった形を、三枝は記憶を頼りに、ペンで写し取った。
「……嘘は、ついていなかったな」
彼は、誰にともなく呟いた。
「それが、一番引っかかる」




