第10話「二人分の食器」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第10話「二人分の食器」
【帰還から四ヶ月 引っ越し準備 高橋美咲】
新しい部屋の鍵を受け取った日から、二人の部屋は段ボールだらけになった。
「それ、私が持つよ」
「俺がやる」
美咲が抱えようとした箱を、朔はもう持ち上げていた。軽い箱ではなかった。それなのに、朔は片手で、ほとんど表情も変えない。
「ねえ、朔」
「ん?」
「たまには、二人でやろうよ。私、手伝いたいの」
朔は一瞬だけ黙って、「ああ」と頷いた。けれど次の箱も、その次の箱も、気づけば朔の腕の中にあった。
美咲は笑ってごまかした。ごまかしながら、少しだけ、自分が余っている気がした。
昼過ぎ、美咲は脚立に乗って、棚の上の箱を下ろしていた。朔は部屋の反対側で、荷物をまとめている。
脚立の脚が、ずるりと滑った。
視界が傾いた。壁の本棚が、本ごと、こちらへ倒れてくる。
次の瞬間、美咲は朔の腕の中にいた。
床に叩きつけられた音は、本棚のものだった。散らばった本が、さっきまで美咲が立っていた場所を埋めている。
朔は、部屋の反対側にいたはずだった。足音は、ひとつも聞こえなかった。
「……大丈夫か」
朔の声は、静かだった。美咲を見下ろす目が、一瞬だけ、知らない色をしていた。何かを数えて、敵と味方に分けるような、冷たい目だった。
すぐに、それは消えた。いつもの朔の顔に戻っていた。
「……朔」
「ああ」
「今の、何?」
朔は答えなかった。腕の力を少しだけ緩めて、美咲を床に立たせる。
「ありがとう」美咲は、先にそう言った。「助けてくれて」
「……ああ」
「でも、聞いてもいい?」
「まだ、言えない」
朔は目を逸らさなかった。ただ、それ以上は、何も言わなかった。
「そう」美咲は小さく笑った。「待つのは、得意だから」
その言葉が、朔の胸に刺さったのが、見て取れた。
「……いつまで」
「え?」
「いつまで、待たせるんだろうな、って」
朔は自嘲するように笑った。美咲は、何も言えなかった。
【同じ夜 電話】
『大丈夫ですか』と、真帆の声が言った。
「うん。怪我はしてない」
『そうじゃなくて』
美咲は、窓の外の夜を見ていた。
「真帆さん。前に、訊きましたよね。戻ってきたら、元通りになると思うか、って」
『はい』
「思わなくなりました」
電話の向こうで、真帆は少しだけ息を吸った。
『……それでも、一緒にいたい?』
「まだ、分からない」
そのとき、受話器の奥で、ざー、という音がした。細くて、低い。遠い波のような音だった。
「今、ざーって」
『え? 聞こえないですけど』
「……そうですか」
美咲は携帯を耳から離して、画面を見つめた。通話は、切れていなかった。
【同じ夜 二人分の食器】
通話を終えて、美咲は台所に立った。
食器棚から、二人分のお皿と、二人分のマグカップを出す。新聞紙で包んで、ゆっくりと段ボールに詰めていく。
毎晩、並べていた。朔が帰ってくる日を、待ちながら。
その二人分が、今は、本当に二人分になっている。それなのに、どうして、胸の奥は、あの頃よりも、静かなのだろう。
隣の部屋から、朔の寝息が聞こえた。壁際の床で、玄関が見える向きで、彼はまた眠っていた。
テーブルの上で、朔のスマホが小さく光った。グループの通知だった。
『朔くん、また寝てないでしょ。ちゃんと寝て』
澪、という名前だった。
美咲が言えなかった言葉と、同じ言葉だった。責める気持ちは、不思議と湧かなかった。ただ、その言葉をかけられる誰かが、朔のそばに、ほかにもいるのだと思った。
美咲は最後の一枚を包んで、箱の蓋を、そっと閉じた。




