第6話「いつもの顔」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第6話「いつもの顔」
【帰還から三週間 朝倉朔】
復帰初日、フロアは拍手で朔を迎えた。
「朝倉さん! 生きててよかった……!」
後輩は半泣きで、見積書を握っていた。今度は、数字が合っていた。
昼前、エレベーターホールで、朔は不意に後輩の腕を引いた。
「え?」
次の瞬間、通りがかった台車が荷物ごと床に崩れ落ちた。後輩が立っていた場所だった。
「……なんで分かったんですか」
「勘だ」
短く答えて、朔は非常口の位置を、もう一度目で確かめた。
その夜、美咲の部屋に泊まった朔は、ベッドを使わなかった。壁際の床に毛布を敷いて、玄関が見える位置で眠っていた。
「ベッド、狭い?」と朝に美咲が訊くと、朔は首を振った。
「いや。こっちのほうが落ち着く」
美咲は笑って「そう」と答えた。笑えた自分に、少しだけほっとした。
【帰還から三週間 水城澪】
会議のあと、澪は隣の席の後輩に声をかけた。
「熱があるよ。今日は帰って」
「え、大丈夫です。平気です」
「だめ」
澪が後輩の手を取ると、掌がじんわりあたたかくなった。後輩の呼吸が、少しずつ深くなる。
「……あれ。楽になった」
「でしょ? ちゃんと休んでね」
後輩を見送ってから、澪は自分の手を見つめた。ほんの一瞬、指先に淡い熱が灯って、消えた。
その夜、彼と食事をした。
「澪、なんか変わった?」
「そう?」
「前なら、俺が気づくまで、何も言わなかったから」
褒められているのか、距離を置かれたのか、分からなかった。「大丈夫だよ」と答えかけて、澪は口を閉じた。
ふと、誰かの背中が浮かんだ。いつも先に立って、振り返らずに、みんなの前を歩いていた人の背中だった。
【帰還から三週間 小鳥遊莉子】
「え、冷凍餃子が六種類!?」
スーパーの冷凍コーナーの前で、莉子は目を輝かせていた。
「前から、あったよ」と航が笑う。
「知ってたけど、知らなかったの! 安い! 便利! 日本最高!」
セルフレジも、ポイントカードも、夜中に開いているコンビニも、莉子には全部新鮮だった。買い物かごを覗いた航が、眉を上げる。
「莉子、それ缶詰と乾物ばっかりじゃない?」
「あ……念のため」
「何の?」
莉子は一瞬だけ黙って、すぐに笑った。
「地震とか。ほら、日本だし」
航は「そっか」と頷いた。莉子は、レジの電子音を聞きながら、胸のどこかがほっとしているのを感じた。
【帰還から三週間 黒瀬琴音】
復帰ライブの夜、琴音は新曲を一曲だけ歌った。
ステージが静まり返った。歌い終えても、拍手が来なかった。客席のあちこちで、誰かが目元を拭っている。ようやく遅れて拍手が湧き上がったとき、琴音は小さく息をついた。
控室で、神谷が言った。
「あの曲、誰かのための歌?」
「……うん。小さい子の」
「誰?」
「まだ、名前は言えない」
神谷が見せたスマホには、すでに誰かが撮った動画が上がっていた。再生数は、見る間に増えていた。
【帰還から三週間 佐伯恒一】
山の救助要請は、夕方だった。
ヘリが出る前に、恒一はひとりで尾根を回り込んでいた。風の向き、沢の音、斜面の崩れ方。遭難した登山者は、誰も想像していなかった沢筋の窪みで、膝を抱えていた。
「どうして、ここが分かったんですか」と救助隊員が訊いた。
「……水の音が、こっちから聞こえた」
恒一はそれだけ答えた。
夜、テントの中で、彼は革紐に通した小さな牙の欠片を握りしめていた。ランタンの灯りが、それを鈍く光らせる。
「……待ってるだろうな」
誰に向けた言葉でもなかった。
【22:30 電話】
『なあ、朔』
恒一の声は、夜の山の静けさに溶けていた。
『戻りたいって思ったら、おかしいか』
朔は答えなかった。受話器の向こうで、風の音だけが続く。
『……おかしくない』ようやく朔は言った。
『お前は』
「俺は……」
朔は窓の外を見た。隣の部屋で、美咲が静かに眠っている。
「今は、ここにいる」
通話を切ったあと、朔はしばらく、自分の掌を見つめていた。




