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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
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第56話「七つ星」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第56話「七つ星」


【右の頁 白川玲奈】


剣ができてからの二日で、右の頁は半分になった。


竜は、二日とも来た。一日目は日が傾きはじめた頃。二日目は、まだ昼前だった。どちらの日も、村の上を回って、何も焼かずに北の山へ帰っていった。


日が傾くと帰る、の行には、線を引かなかった。かわりに、横に書き足した。いつ来るかは、決まっていない。帰る方角だけは、見た四度とも同じ。


恒一とセリナは二日とも、谷の入り口の岩の上から、竜を見上げた。


北の山へ帰るとき、竜は二日とも、あの谷の上を通った。恒一が見つけた、二つ目の谷。両側に岩の斜面があって、底が平らな谷。


琴音は二日とも、宿の屋根から竜の息を聞いた。遠すぎて、三拍かどうかは分からなかった。それも、そのまま書いた。


莉子は谷の底に苔を育てていた。雪解けの水を、蔓の樋で引きこんで、岩の斜面じゅうを湿らせた。澪は、毎晩、琴音の喉を診た。


その次の朝、宿の食堂で朔が手帳の右の頁を指でなぞった。


「残ってるのは、ここだ」


鱗の隙間は、毎回開くのか。喉の下の一枚はどこか。狭い所に誘ったとき、上から焼くのか。


「この三つは、戦ってみないと分からない」と朔は言った。「だから、分からないまま行く。外れたら、その場で変える。……変えるときは、俺が言う」


誰も、異を唱えなかった。


「退く、は」と伊織。


「最後まで俺が持ってる。俺が言ったら、何をしていても、退く」


玲奈は、手帳を閉じた。


あるのは確かめたことと、確かめていないことの、境目だけだった。


【谷 佐伯恒一】


昼前に、鐘が鳴った。


恒一は、谷の入り口の岩の上から、それを見た。北ではなく、南から。町の上を越えて、竜がまっすぐこっちへ来る。


通り過ぎるのではなかった。まっすぐ、こっちへ来ていた。


「……読みが、外れた」


朔の声が、下から聞こえた。それでも朔は、すぐに言った。


「いい。ここで迎える。恒一、谷へ」


恒一は、竜の顔に、矢を射こんだ。鱗に弾かれる音がちゃんと届いた。竜の首が、恒一のほうを向いた。


恒一は、谷の奥へ走った。


隣に、セリナがいた。灰色の手袋の指先で、もう矢をつがえていた。誰も何も頼んでいなかった。


竜が、谷の上に来た。


恒一は岩陰に飛びこんで、上を見た。


竜は、降りてこなかった。


谷の上で、ゆっくりと輪を描く。それから、首を下げた。


すうううう、と、谷じゅうの空気が上へ吸い上げられていく音がした。


「吸った!」


琴音の声だった。


恒一が、ずっと恐れていたことだった。狭い所には降りない。そのかわり、上から焼く。


炎が、谷に流れこんできた。


恒一は、セリナの肩を引き寄せて岩の斜面に背中を押しつけた。橙色の光が、目の前の谷底を、端から端まで埋めた。


熱は来なかった。


足もとの苔が、白い煙を、もうもうと噴き上げていた。じゅう、と、谷じゅうで水が煮える音がした。莉子が、二日かけて湿らせた岩と苔が炎を受けて、煙に変えていた。


炎が止まった。


苔は、半分、茶色く縮れていた。


二度目は、もたない。


【退く 朝倉朔】


朔は谷の入り口で、それを見ていた。


谷の上から焼かれたら、竜は降りてこない。こっちの剣は、届かない。最初に組んだ形はここで終わりだった。


それでも、まだ、一つ、残っていた。


竜が降りるのは、いつも、翼を広げきれる、開けた平らな所。


谷の入り口の外には畑があった。雪をかぶった、平らな、何もない畑。


その下の土がどうなっているかは、莉子しか知らない。


「退く!」


朔は、谷じゅうに聞こえる声で、叫んだ。


全員が谷から走り出てきた。恒一とセリナが、岩の斜面を滑り降りてくる。莉子は泥だらけで、澪は琴音の手を引いていた。


竜は追ってこなかった。


谷の上で、首を巡らせて、七人を探していた。


朔は、畑の真ん中にひとりで立った。


「莉子。この畑の下、柔らかくできるか。俺が立ってるところから、谷の入り口まで」


莉子は、地面に手をついた。それから、顔を上げた。


「雪の下、ぜんぶ、水。……沼にできる。でも、ちょっとのあいだだけ」


「それでいい」


朔は、剣を抜いた。


竜の首が朔のほうを向いた。開けた平らな所に、ひとりで立つ人間。


翼が、大きく開いた。


竜が、畑に降りた。


その脚が、雪の下の土に、膝まで沈んだ。


【二拍 黒瀬琴音】


竜が吠えた。


脚を抜こうとして、翼を打つ。雪と泥が、四方に飛び散る。莉子の沼が、竜の脚をもう一度、引きずりこむ。


琴音は、竜の息を聞いていた。


すうううう。


「吸った!」


伏せる。炎が、頭の上を通り過ぎていく。


止まる。一つ。二つ。


すう。


琴音は、背中が冷たくなった。


三拍じゃなかった。


「二拍!」


かすれた声で叫んだ。


「怒ってると、二拍! 近づかないで!」


伊織が、踏み出しかけた足を、止めた。その鼻先を二度目の炎が舐めていった。


声が、もう、割れかけていた。二十回は叫んでいない。それでも、喉が焼けたように痛い。


後ろから、手が伸びてきた。


澪の手だった。琴音の喉に、そっと当てられる。痛みがすうっと引いていく。


「叫ぶのは、本当に要る時だけ」と澪が言った。「それ以外は、私が手を当て続ける。……数えて」


琴音は、頷く代わりに目を閉じた。


吸う音が、変わった。


長い。さっきより、ずっと長く吸っている。


琴音は、目を開けた。


「次、長い! 大きいのが来る!」


【喉 白川玲奈】


玲奈は竜の喉を見た。


長く吸う。首の付け根から顎の下まで、喉の鱗が、いっせいに浮いた。鱗と鱗のあいだに、細い隙間が並ぶ。その奥が赤く透けている。


炉の中の、いちばん熱いところの色。


いちばん大きく開いた隙間は、顎の真下にあった。


喉の下の、一枚。


伊織が話していた場所と、同じだった。


あの一枚は、柔らかかったんじゃなくて、炎の前に開いていたのかもしれない。伊織の刃の先が入ったのは、竜が吸いきる瞬間だったのかもしれない。


玲奈は、叫んだ。


「伊織! 顎の真下! 吸いきった時だけ開く!」


安全な時と、弱いところが見える時は、重ならない。


それは、もう分かっていた。


だから、重ねるしかない。いちばん危ない瞬間に、いちばん前に誰かが立つ。


玲奈は、氷を伊織の足もとから竜の顎の下まで、坂のように伸ばした。雷は効かない。それでも、足場なら作れる。


【剣 神崎伊織】


伊織は、氷の坂を駆け上がった。


軽い。新しい剣は、手の中でほとんど重さがなかった。前の剣なら、ここで重さに引っぱられて、一歩遅れた。


すうううう。


竜が、吸っている。長く。


伊織の目の前で、顎の下の鱗が浮いた。


隙間の奥が、赤い。熱が顔に当たる。


「伊織、まだ!」


琴音の声。


まだ。まだ、吸いきっていない。隙間が、いちばん大きく開くのは、吸いきった、その瞬間。


伊織は、熱を脚と、腕と、剣を握る手に、全部集めた。


顔と胸には、何も残らなかった。


「今!」


伊織は、突いた。


受けない。斬らない。刃の先だけを、隙間に届ける。


細い切っ先が、顎の真下の、いちばん大きな隙間にまっすぐ入った。


手応えは、硬い革ではなかった。熱い、柔らかい、何か。


剣が、根もとまで、沈んだ。


炎は、出てこなかった。


赤い光が、鱗の隙間という隙間から、噴き出した。


伊織は、剣から手を離した。


熱が顔に来た。腕を上げる暇もなかった。熱を、顔と胸に回していなかった。


体が、後ろに引っぱられた。


朔の腕だった。伊織の外套をつかんで氷の坂から引きずり下ろしていく。


その上を、莉子の苔の壁が、閉じた。白い煙が、視界を埋めた。


【戻す 水城澪】


伊織の顔と胸に火傷があった。


深かった。村の男の腕より、ずっと深い。熱が、まだ皮膚の下で燃えている。


澪は、もう伊織の隣に膝をついていた。前に出ると決めた、その場所だった。


両手で、伊織の頬を包む。


深いところから、順に戻していく。いつもの三倍。それより、もっとかかる。


「澪」と伊織が言った。唇が焼けて割れていた。「剣、置いてきちゃった」


「いいから、黙ってて」


煙の向こうで、竜が、首を振り上げていた。


鱗の隙間から、まだ、赤い光が漏れている。翼を打とうとして、打てない。脚が莉子の沼に沈んだまま、抜けない。


竜が、もう一度、吸おうとした。


すう、と、短い音。


琴音は、叫ばなかった。


その必要がなかった。すう、という音はそこで途切れた。


竜の首が、ゆっくりと傾いた。


大きな体が、雪と泥の上に横倒しになった。地面が、長く揺れた。


誰も、動かなかった。


竜の喉から漏れていた赤い光が、少しずつ、暗くなっていった。それから、消えた。


澪の手の下で、伊織の頬が焼ける前の形に戻っていった。


伊織が、目を開けた。


「……勝った?」


澪は竜を見た。動かなかった。


「勝ったよ」


【全員 朝倉朔】


朔は、畑の真ん中に立っていた。


剣は、抜いたままだった。それを、鞘に戻すのをしばらく忘れていた。


七人とセリナを、見回した。


伊織は、澪に支えられて、座りこんでいた。顔の火傷はもうほとんど消えていた。莉子は、泥の中に仰向けに寝転がっていた。琴音は、喉を押さえて声もなく笑っていた。玲奈は、手帳を開いて、震える手で何かを書いていた。恒一は、セリナと並んで谷の入り口の岩に座りこんでいた。


「全員、いるな」


「いる」と伊織が、かすれた声で言った。


朔は、竜を見た。


煤をかぶったような色の鱗が、昼の光を鈍く跳ね返していた。こうして近くで見ても、何なのかは分からなかった。なぜ北の山で目を覚ましたのか。なぜ何度も、村の上を回ったのか。


最初に組んだ形は、谷で、外れた。三拍は二拍になった。それでも、勝った。


外れるたびに、誰かが何かを見ていた。


伊織が立ち上がって、竜の顎の下まで歩いていった。根もとまで沈んだ剣の柄に、手をかける。


抜けなかった。


伊織は、両手で柄を握って足を竜の顎にかけて、ぐい、と引いた。


剣が、抜けた。


伊織は、刃を日にかざした。


折れていなかった。曲がってもいなかった。


「……受けてないからね」


伊織は、朔を見て、にっと笑った。


【黒い札 小鳥遊莉子】


リーヴェルに帰り着いたのは、それから八日後だった。


マルタの隊商の荷馬車に揺られて雪の峠を越えた。荷台には、冬の市の町の衛兵長の手紙と、ふもとの村の長の手紙が載っていた。マルタは、それを、自分の膝の上から一度も下ろさなかった。


竜の亡骸をどうするかは、冬の市の町の人たちと話しても決まらなかった。


リーヴェルの白い漆喰の壁に、雪が積もっていた。街灯の石が、夕方の通りにひとつずつ灯りはじめていた。


ギルドの扉を開けると、広間の話し声が、止まった。


莉子は、玲奈の後ろから、そっと中をのぞいた。


四度目の止まり方だった。


今日は誰も、何も言わなかった。


受付の台の向こうで、栗色の髪の娘が、立っていた。マルタが二通の手紙を台に置いた。娘は、それを読んだ。一通目を読み終えて、二通目を開いたところで、手が止まった。


娘は手紙を置いた。


それから、台の下から、古い台帳を取り出した。最初の日に、七人の名前を照らし合わせた台帳だった。娘は、その頁を開いて台の上に置いた。


照合済み、の印が、七つ並んでいた。


奥の扉の前に、ギルド長が立っていた。


娘は、朔を見た。


「ポケットの中のもの、出していただけますか」


朔は、外套の内側に手を入れた。


黒い札が出てきた。


伊織も自分の外套の内側から出した。澪が。玲奈が。恒一が。琴音が。


莉子も、自分の外套の内側から、黒い札を出した。


ずっと、そこにあった。重さを忘れるくらい、ずっと。


娘が、七枚の黒い札を、台の上にひとつずつ並べた。


表に、Sと刻んであった。


広間の誰かが、息を呑んだ。


娘の声は、震えていなかった。


「七つ星。ランクS」


一拍、何の音もしなかった。


それから、広間の奥で椅子の脚が床を擦る音がした。


最初の日に、髭はどうした、と笑った男だった。男は、自分から、立ち上がっていた。その隣の男も。その向こうのテーブルも。


ガロがジョッキを置いて、立ち上がった。


広間じゅうの冒険者が、立っていた。


誰も、笑っていなかった。誰も拍手もしなかった。ただ、立っていた。


莉子は、黒い札を、首から下げた。金色の札の、隣に。


重かった。


でも、悪くない重さだった。


【いつもの卓 黒瀬琴音】


その夜、樫の木亭は扉が閉まらなかった。


入りきれない人が、雪の通りにまであふれていた。誰かがリュートを弾いて、誰かが歌っていた。窯焼きのパンの匂いと、マルタが持ちこんだ煮込みの湯気。


七人とセリナはいつもの卓にいた。


琴音は、目を閉じていた。


音が、全部、聞こえた。ひとつずつ、別々に。


伊織が、朔の皿から肉を取っていく音。朔は何も言わずに、皿を伊織のほうへ少し寄せた。


澪が、伊織の頬に指で触れて、火傷の痕がないか確かめている音。「ないよ」「ある気がする」「ないってば」。


玲奈が手帳の頁をめくる音。右の頁に、また何か書き足していた。なぜ竜が目を覚ましたのか、とは書いていなかった。まだ、書かない、と言っていた。


莉子が、冬の市で名前を教わった香草の袋をマルタの鍋のそばに置く音。


恒一とセリナは、何も話していなかった。卓の下で、灰色の手袋が、恒一の手の甲に触れていた。


それから、すぐ隣で、朔の心臓の音。


ゆっくりで、まっすぐで、どこにも急いでいない音。


あの市の朝と、同じ音だった。


琴音は目を開けた。


朔が、こっちを見ていた。


「どうした」


「数えてた」


「何を」


琴音は、笑った。声は、まだ少しかすれていた。


「いい音。……全部」

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