第57話「黒い札の朝」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第57話「黒い札の朝」
【朝の広間 朝倉朔】
ギルドの扉を開けると、広間の話し声が止まった。
ここまでは、いつもと同じだった。でも、今朝はその先が違った。
誰も振り返らなかった。振り返らないまま、通り道があいた。長テーブルのあいだに座っていた男たちが、椅子を引いた。掲示板の前にいた若い組が、半歩ずつ横へずれた。誰も、何も言わない。
朔はその道を歩きながら、どうにも落ち着かなかった。
「……営業で、役員が来たときの廊下だ」
「何それ」と伊織が後ろで言った。
「全員、急に壁のほうを向いて仕事してるふりをする」
伊織は鼻で笑った。笑いながら、朔の背中を拳で軽く押した。早く行け、ということらしい。
窓の外では、まだ雪が積もっていた。ゆうべの樫の木亭の騒ぎの名残で、通りの雪には数えきれないほどの足跡が残っていた。
受付の台の向こうで、栗色の髪の娘が待っていた。台の上に、紙の束が載っていた。束というより、山だった。
「おはようございます」
娘の声は、昨日より少しだけ高かった。
「これ、全部、皆さんへの名指しの依頼です。ゆうべから、今朝までで」
玲奈が、山のいちばん上の一枚を手に取った。目で数えて、言った。
「四十一枚」
「四十二です。いま一枚、来ました」
広間の入り口から、使いの少年が走ってきて、山の上にもう一枚を載せた。
朔は、紙の山を見下ろした。
商隊の護衛。屋敷の警護。祭りの見世物。古い城の調べもの。どこかの家の婚礼の祝いの席に「立っていてくれるだけでいい」というものまである。報酬の欄は、どれもこれまで見たことのない数字だった。
「見積もりが、全部、先方持ちだな」
「先方持ち?」と娘。
「相手が、勝手に値段を決めてる。中身を見る前に」
朔は、紙の山を、台の向こうへそっと押し返した。
「すみません。今日は、どれも受けません」
娘は目を丸くした。それから、なぜか、ほっとしたように笑った。
「……よかった。全部受けるって言われたら、どうしようかと思いました」
「全部受けたら、七人じゃ足りない」
「七十人でも足りないです」
娘は紙の山を両手で抱えて、台の下にしまった。しまいながら、小さな声で言った。
「ギルド長が、そう言うと思うって、言ってました。『あの人たちは、名前のついた仕事は、しばらく受けない』って」
朔は、受付の奥の扉を見た。扉は、閉まっていた。
ゆうべ、黒い札を並べたとき、あの扉の前に立っていた人だ。朔は、その人と、まだ一言も話していなかった。
「話したほうがいいかな」
「たぶん、向こうから来ます。来たいときに」
娘はそう言って、羽根ペンを取った。
台の端から、低い声がした。
「受けねえのか。もったいねえ」
ガロだった。ジョッキの代わりに、湯気の立つ椀を持っていた。目の下が腫れていた。ゆうべ、最後まで樫の木亭にいた顔だった。
「そっちこそ、名指し、減ったんじゃないか」と朔。
「減った」
ガロは、あっさり言った。
「三年、この町でAはうちだけだった。それが二組になって、今朝からは、上に七人いる」
ガロは椀を口に運んだ。それから、にやりと笑った。
「悪くねえ。上がいるほうが、仕事は面白え」
【腕比べ 神崎伊織】
広間を出ようとしたところで、呼び止められた。
「待ってくれ」
若い男だった。伊織より少し年下に見える。銀色の札。Bだ。腰に長い片刃の剣を差していた。後ろで、同じ年頃の仲間が三人、心配そうに立っていた。
「本物かどうか、確かめさせてくれ」
広間が、また静かになった。
伊織は、男の顔を見た。目が、まっすぐだった。挑んでいるというより、何かを確かめたくて仕方がない顔をしていた。
「……本物だよ。札、見たでしょ」
「札じゃなくて」
男は、自分の剣の柄に手を置いた。
「俺は、七つ星の話を聞いて、冒険者になった。竜を落とした七人。山を割った七人。……あんたたちが、その七人なら、俺が目指してたものが何だったのか、知りたい」
伊織は、ちらっと朔を見た。朔は、肩をすくめた。好きにしろ、の顔だった。
「裏、空いてる?」と伊織は受付の娘に訊いた。
「裏の空き地なら。雪、かいてあります」
ギルドの裏の空き地は、四方を石の壁に囲まれていた。かいた雪が、壁ぎわで白い山になっている。踏み固められた地面が、朝の光でうっすら光っていた。
いつのまにか、壁の上にも、裏口の石段にも、人が鈴なりになっていた。
伊織は、腰の剣を抜かなかった。鞘ごと、腰から外した。
「それ、抜かねえのか」
「抜いたら、腕比べじゃなくなるでしょ」
伊織は鞘のまま、新しい剣を右手に下げた。鍛冶屋の親方が打った、細くて短めの剣。まだ手になじみきってはいない。でも、柄は濡れた手でも滑らない。
男も、鞘を払わなかった。それで、伊織は、この男が少し好きになった。
「いつでも」
男が踏みこんだ。
速かった。Bの札は、伊達じゃない。上から、斜めに、鞘ごと叩きつけてくる。重さを乗せた、きれいな一撃だった。
前の伊織なら、受けていた。剣で受けて、押し返して、熱を乗せて弾いていた。
伊織は、受けなかった。
半歩、左へ。鞘の先が、外套の裾をかすめて、地面を打った。踏み固めた雪が、ぱっと散った。
男の目が、伊織を追った。剣を引き戻して、横に払う。
伊織は、それも受けなかった。上体を後ろへ反らす。鼻の先を、鞘が通りすぎる。風の音がした。
三度目。男は、突いてきた。
伊織は、その突きの外側へ、すっと体を入れた。そのまま一歩、踏みこむ。男の懐の、いちばん近いところへ。
鞘の先が、男の喉の下のくぼみにそっと触れていた。
突いてはいなかった。触れているだけだった。
空き地が、しんとした。
「……一回も、当たらなかった」
男が、かすれた声で言った。
「当てさせなかったの」
伊織は、鞘を引いた。
「あんた、上手いよ。重さの乗せ方、ちゃんとしてる。……ただ、三回とも、先に肩が動いてる。次に何が来るか、肩が教えてくれる」
男は、自分の右肩を見下ろした。それから、伊織を見た。
「それ、誰に教わった」
伊織は、答えに詰まった。
五年間、誰に教わったのか。誰かに教わったこともある。誰にも教わらずに、体が覚えたこともある。全部まとめて、一言では言えなかった。
「……竜に」
本当のことの、半分だった。
男は、ぽかんと口を開けた。それから、いきなり、声を立てて笑った。
「竜にか。……そうか。竜にか」
男は鞘を腰に戻して、深く頭を下げた。後ろの三人も、慌てて一緒に頭を下げた。
壁の上で、誰かが口笛を吹いた。拍手が、ぱらぱらと起こって、すぐに大きくなった。
伊織は空き地の端に目をやった。
朔が石段の下にいた。腕を組んで、壁にもたれていた。目が合うと、朔は親指をほんの少し立てた。
伊織は、ふいと横を向いた。向いたまま、口の端が、勝手に上がった。
あの日、畑の上で剣が折れた。受けたからだ。受けなければよかったと、何度も思った。
今朝は、一度も、受けなかった。
【護符 白川玲奈】
昼すぎの広場には、雪かきの終わった石畳の上に屋台が並んでいた。
玲奈は、莉子と並んで歩いていた。莉子が、粉屋を見たいと言ったからだ。
広場の端に、七つ星の護符を売る露店があった。この町に着いた日、伊織が「あの七人って、誰」と訊いた店だ。
玲奈は、足を止めた。
品が増えていた。
前は、銅のメダルが板の上に並んでいるだけだった。今日は板が三枚になっていた。メダルの横に、木彫りの札、刺繍の布、小さな七つの星を彫りこんだ指輪まである。
「帰ってきた!」と露店の主人が叫んでいた。「本物の七つ星が、帰ってきた! 記念の守りだよ!」
主人は、玲奈たちの顔を見なかった。売るのに、忙しかった。
玲奈は刺繍の布を一枚、手に取った。七つの星の真ん中で、剣と杖が交差している。下に、細い字で何か縫いとってあった。
──七つ星の守り。東の村より。
「東の村」
玲奈は、声に出して読んだ。
「この布、どこで作ってるの」
主人は、ようやくこっちを向いた。
「さあね。仲買いが持ってくるんだよ。三年前から、ずっと同じ柄でね。よく売れるんだ。……お嬢さん、ひとつどう? 今なら、本物の七つ星と同じ空気を吸った守りだ」
「同じ空気」
「今朝、この広場の上を歩いたって話だからね。全員、扉に頭がつかえるほどの大男だそうだ」
玲奈は、布を板の上に戻した。
手帳を開いて、一行だけ書いた。左に。見たことの側に。
──七つ星の護符。三年前から同じ柄。刺繍布に「東の村より」。仲買い経由。作り手は不明。
右には何も書かなかった。何が分からないのかも、まだ分からなかった。
──誰が七つ星の名前で何をしているのか。
この町に着いた日、ギルドの奥の部屋でそう思った。あのときの問いは、答えのないまま、手帳の最初のほうの頁に残っている。
「玲奈ちゃん」
莉子が、粉屋の前で手招きしていた。
粉屋の店先で、莉子は、麦の粉を量ってもらっていた。量ってもらう袋が、二つになって、三つになった。
玲奈は、その袋を見た。
「三つ」
「うん」
「誰の分」
莉子は、すぐには答えなかった。粉屋の主人が、三つ目の袋の口を紐で縛るのを、じっと見ていた。
「……パン、焼きたいの。たくさん」
それだけ言って、莉子は代金を払った。
玲奈は、それ以上、訊かなかった。
訊かなくても、分かることがある。分からないことを、分からないまま、そばに置いておくこともできる。
玲奈は、莉子の手から、袋を一つ取った。
「持つ」
「重いよ」
「知ってる」
莉子は、少し驚いた顔をした。それから、笑った。
二人で、粉の袋を一つずつ抱えて、雪の残る通りを歩いた。莉子の歩き方は、いつもより、少しだけ速かった。
玲奈は、それに合わせた。
【東 小鳥遊莉子】
夜の樫の木亭は、ゆうべほどではなかったけれど、まだにぎやかだった。
いつもの卓に、七人とセリナがいた。
琴音は窓の外の雪を聞いていた。恒一は矢の羽根を一本ずつ確かめていた。その隣で、セリナが灰色の手袋の指先で、恒一の矢筒の革を撫でていた。澪は伊織の右手を取って、昼間の腕比べでどこか痛めていないか確かめていた。「一回も当たってないってば」「当たってなくても、ひねってることはあるの」。
朔は、手帳を開いた玲奈と、紙の山のことを話していた。
莉子は、焼きたてのパンを、卓の真ん中に置いた。
樫の木亭の窯を夕方に借りて、三つ目の袋の粉で試しに焼いたのだった。皮がぱりっとして、中がふんわり白い。まだ湯気が立っていた。
「おいしそう」と澪が言った。
「試しなの。……あの、みんな」
莉子は、椅子に座らなかった。立ったまま、両手を、前掛けの上で握った。
卓の上の音が、止まった。琴音が、窓から顔を戻した。
「行きたい所があるの」
誰も、急かさなかった。
莉子は、息を吸った。
「約束した子が、いるの」
日本で、航に言った言葉と同じだった。あのときは、声になるまでに長くかかった。今は、言ってから続きが出てくるまでに、それほどかからなかった。
「向こうにいたとき。……五年のうちの、どこかで。パンとスープを、渡した子。また来るって、言ったの。また来るよって」
莉子は自分の指を見た。小さな指がぎゅっと握った感触が、まだそこにある気がした。
「三年、経っちゃった」
「どこ」
朔が、短く訊いた。責めるのでも、急かすのでもない声だった。仕事の段取りを決めるときの声だった。
莉子は少し考えてから、体ごと向きを変えた。朝、日が昇ってくるほうの壁だった。
「東。……東の山の、向こう」
卓の上で、誰かが小さく息をのんだ。
朔は、すぐには答えなかった。
東の山。砦の村から、東に見えていた山だ。あのとき、オークの将に朔は自分で言った。東の山なら、人の村はない、と。
「山の、向こうなんだな」
「うん。山の中じゃない。向こう側」
莉子は、うなずいた。山の中に村はない。それは、莉子も覚えていた。あの子がいたのは、山を越えた先だった。
「越え方は」
「覚えてない。……ちゃんとは、覚えてない。でも、向こうに着いたら、分かると思う」
朔は、玲奈を見た。玲奈は、もう手帳を開いていた。
「東の山の地図は、ギルドにある?」
「分からない。明日、訊く」と玲奈。
「恒一」
「山なら行ける」と恒一は言った。矢の羽根から目を上げなかった。「冬の山じゃなけりゃな。雪が緩むまで待ったほうがいい」
「どのくらい」
「山を見ないと、分からねえ」
「伊織」
「行く」
伊織は、即答した。それから、パンを一つつかんで、ちぎった。
「莉子が行くなら、行く。……で、これ、食べていいの?」
「いいよ」
伊織は、ちぎったパンを口に放りこんだ。熱かったらしく、はふはふと息を吐いた。
澪は、莉子の手を取った。
「莉子ちゃんが言ってくれて、よかった」
澪の手は、温かかった。
「私も、行きたい所があるの。……でも、莉子ちゃんが先」
莉子は澪の顔を見た。澪は笑っていた。笑っているのに、その奥に何かを一つ、まだしまったままの顔をしていた。
琴音は、パンの皿を両手で莉子のほうへ少し寄せた。それから目を閉じた。
「莉子の心臓。……さっきより、ゆっくりになった」
莉子は自分の胸に手を当てた。そうだった。立ったときは走っていた。今は歩いていた。
最後に、朔がもう一度、口を開いた。
「決まりだ。東の山を越える。……雪が緩むのを待って、支度をする」
それから、少し笑った。
「名指しの依頼、一件だけ受けた、ってことにしよう。依頼主は、莉子。報酬は、そのパン」
「安すぎない?」と伊織。
「見積もりは、俺が決める」
卓のまわりに、笑い声が広がった。
莉子は、ようやく椅子に座った。座ったとたんに、膝が震えているのに気づいた。
玲奈がパンを半分にちぎって、莉子の皿に置いた。何も言わなかった。言わなくても、分かった。
そのとき、隣の卓で、ガロが椅子ごとこっちを向いた。
「東の山を越えるのか」
ガロは、椀の代わりに、今夜はジョッキを持っていた。
「やめとけ、とは言わねえ。……ただ、ひとつだけ」
ガロは、ジョッキを卓に置いた。
「東の山の向こうから来る荷が、この冬は一度も来てねえ。毛皮も蜂蜜もだ。毎年、雪の前に一度は来る仲買いが、今年は来なかった」
恒一が、初めて矢の羽根から目を上げた。
「道が、雪でふさがったんじゃねえのか」
「雪の前の話だ」
ガロは窓の外の暗がりに目をやった。
「それとな。秋の終わりに、東の森の端で、狩人が太鼓を聞いたって話がある。遠くで、ずっと鳴ってたってな。……砦の村の連中は、もうあの音は聞きたくねえって、耳をふさいだそうだ」
卓の上が、静かになった。
琴音が、目を開けた。
どん。どど。どん。
莉子の耳の奥で、あの音が、一度だけ鳴った気がした。
窓の外で、雪が、音もなく降りはじめていた。




