第55話「新しい剣」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第55話「新しい剣」
【持ち寄る 白川玲奈】
朝の宿の食堂にはまだ誰もいなかった。
暖炉に火が入ったばかりで、窓の霜が溶けはじめていた。玲奈は大きな卓の真ん中に、手帳を開いて置いた。
昨日の字はひどかった。
炎の前。喉の鱗が開く。中が赤い。
走りながら書いた字は自分でも読むのに時間がかかった。
七人とセリナが、卓のまわりに揃った。マルタが、湯気の立つ杯を並べていった。誰も、すぐには口を開かなかった。
「見たものを、出してくれ」と朔が言った。「順番はいい。思い出した人から」
最初は琴音だった。
「炎の前に、息を吸う音がする。ふいごみたいな音。吐いたあと、もう一度吸うまで、三拍」
「何回、数えた」と玲奈は訊いた。
「近くにいたときだけ。……四回。四回とも、三拍だった」
玲奈は書いた。三拍。四回。近くにいたときだけ。
次は玲奈自身だった。喉の鱗が開いて、奥が赤く透けたこと。見たのは一回だけだということ。
「それ、いつ」と琴音が言った。
「吸いきった瞬間。炎が出る、直前」
琴音が首をかしげた。
「じゃあ、私の三拍と、玲奈の隙間は別の時なんだ」
卓の上が、静かになった。
玲奈も、気づいていた。琴音の三拍は炎のあと。竜が空になって、近づいても炎が来ない時間。玲奈の隙間は炎の前。いちばん危ない瞬間に、いちばん弱いところが開く。
安全な時と、弱いところが見える時が、重ならない。
「……噛み合わないね」と莉子が言った。
「今は噛み合わなくていい」と朔は言った。「続けてくれ」
伊織は喉の下の鱗が一枚だけ、刃を受け入れたことを話した。首が低く下がった時だった。炎の前だったか、あとだったかは分からないと言った。
「そこが、玲奈の見た隙間と同じ所かも、分からない」
恒一は竜が開けた平らな所にしか降りなかったことを話した。五回、全部そうだった。
「ただ」と恒一は言った。「狭い所には降りない、ってだけだ。狭い所に誘いこんだら、降りてこないで、上から焼くかもしれねえ」
莉子は苔の話をした。炎の端で、湿った苔が燃えずに煙を上げたこと。真ん中で浴びたらどうなるかは見ていないこと。
澪は火傷の話をした。深いが、治せた。ただ、いつもの三倍かかった。
「何人まで続けられるかはまだ分からない」
最後は朔だった。
「七人が退いても、追ってこなかった。日が傾いたら、北の山へ帰った」
「毎日、そうなの」と澪が言った。
「一日しか見てない。分からない」
玲奈は手帳の頁を、縦に二つに分けた。左に「見たこと」。右に「分からないこと」。
右のほうが、長くなった。
三拍はいつも三拍か。鱗の隙間は毎回開くのか。喉の下の一枚はどこか。狭い所に誘ったとき、上から焼くのか。苔は炎の真ん中で、どこまでもつか。澪の手は何人分もつか。竜は毎日、日が傾くと帰るのか。
玲奈はペンを置いた。
「勝ち方はまだ、ない」
誰も、反論しなかった。
「ないけど」と玲奈は言った。「何を確かめればいいかはここに書いてある」
朔が、頁の右側を指でなぞった。
「これを、一つずつ潰す。……それと、伊織の剣だ」
伊織が、柄だけの剣を卓に置いた。
その横に、恒一が布の包みを置いた。開くと、煤けた刃が出てきた。
「朝、畑で拾った」と恒一は言った。「焼けた藁の中に、刺さってた」
【折れた刃 神崎伊織】
冬の市の町の鍛冶屋は川沿いの、いちばん煙の多い通りにあった。
親方は腕の太い男だった。両腕に、古い火傷の痕が、まだらに残っている。昨日の煙が、この通りまで流れてきたのだと言った。
伊織は柄と、折れた刃を、金床の上に並べた。
親方は折れた刃の断面を、窓の光にかざした。それから、刃の先を、指の腹でなぞった。
「根もとに、古いひびがあったな」
「うん。オークの将の大剣を、一回だけ、まともに受けた」
「それで、ここまで持たせたのか」
親方は刃の先を伊織のほうへ向けた。
「先のほうに、細い傷がある。何かに噛まれて、横にねじられた傷だ。……ねじられて、古いひびから折れた」
伊織はその傷を見た。
喉の下の、一枚。あの手応えは本当にあった。
「同じのを、打てる?」と伊織は訊いた。
「打てる。だが、同じのでいいのか」
親方は壁に掛かった剣を一本、下ろした。長くて、幅が広くて、重い剣だった。
「お前さんの前の剣はこれに近い。受け止めるための重さがある」
「受けないよ」と伊織は言った。「あたし、かわすほうが得意」
「なら、この重さはお前さんの邪魔をしてた」
伊織は何も返せなかった。
最初にあの剣を選んだとき、重いのが嬉しかった。重さがあれば、受けられる。受けたから、ひびが入った。
「何を斬りたい」と親方が言った。
伊織は少し考えた。
「斬るんじゃない。突く。……鱗の、一枚のところに、先だけ届けばいい」
親方は炉に炭を足した。
「短くする。先を細くする。そのぶん、軽くなる。受けたら、折れるぞ」
「受けない」
「三日、かかる」と親方は言った。「柄も、新しく作る。前の柄はこの刃には合わん」
伊織は、柄だけの剣を手に取った。
濡れた手で選んだ柄だった。
「……これ、ここに置いてっていい?」
「溶かさんよ」と親方は言った。「棚に、置いとく」
【苔と炉 小鳥遊莉子】
その日の午後、莉子は鍛冶屋の炉の前にいた。
親方に頼んで、いちばん火の強いところを借りた。桶には、川べりの湿った苔。莉子は、苔に力を流しこんで、厚く膨らませた。
それを、鉄の板に載せて、炉の口に差し入れる。
じゅう、と音がした。白い煙が上がる。苔は、燃えない。
莉子は数えた。
十。二十。三十。
四十を過ぎたところで、煙が細くなった。苔の端が、茶色く縮れはじめる。五十で、端から火がついた。
莉子は板を引き抜いて、桶に浸けた。
「湿ってるあいだだけ、だ」
親方が、腕を組んで眺めていた。
「炉の火と、竜の炎は、違うだろう」
「うん。違う。竜のほうが、熱い」
莉子は、もう一度、苔を膨らませた。今度は、桶の水をたっぷり吸わせてから。
六十まで、もった。
水を足せば、長くもつ。でも、水がなくなれば、ただの苔になる。
莉子は、指を折って数えた。苔を育てる時間。水を運ぶ道。竜の炎の、真ん中の熱さ。どれも、まだ分からない。
分からないことが、ひとつ、はっきりした。
それは、悪くないことだと思った。
帰りに莉子は市の種屋に寄った。崖で使いきって空になった袋に、新しい種を詰めてもらった。袋が、また重くなった。
【焼けた村 水城澪】
二日目の朝、澪は朔と一緒に、ふもとの村へ戻った。
焼けた納屋は、黒い柱だけになっていた。畑の半分は、灰の色だった。煙の匂いが、まだ地面から立ちのぼってくる。
村の人たちが、何人か、戻ってきていた。焼け残った納屋から、道具を運び出している。
小さな男の子が、澪の外套を引いた。竜の来た日に、畑の道を、振り返らずに走っていった子だった。
「腕、もう痛くない」と男の子は言った。「父ちゃんの」
「よかった」
「でも、うちの納屋、なくなった」
澪は、しゃがんで、男の子の目の高さに合わせた。
「うん。なくなったね」
男の子は、黒い柱を見た。それから、澪を見た。
「また来る? あれ」
澪は、嘘をつかなかった。
「来るかもしれない」
村の長が、朔の前に立って、両手で朔の手を握っていた。全員が生きているのは、あなた方のおかげだと言っていた。
朔は、その手を握り返した。
「全員が無事だったのは、村の人たちが、ちゃんと走ってくれたからです。……俺たちは、あれに勝てませんでした」
村の長が、困ったように笑った。
帰り道、澪は朔の隣を歩いた。
「朔くん」
「ん」
「次は、私も前に出る」
朔は、すぐには答えなかった。
「澪が前に出たら、後ろで治す人がいなくなる」
「後ろに運ばれてくるのを待ってたら、深い火傷は、間に合わない」
澪は、自分の手のひらを見た。
「怖いよ。でも、前に出たいの。朔くんの見える所で、治したい」
朔は、長いあいだ黙っていた。それから、言った。
「どこまで前に出るか、一緒に決めよう。俺一人では決めない」
澪は、それでいいと思った。
【影 佐伯恒一】
恒一は、谷を歩いていた。
竜が降りない場所。翼を広げきれない、狭い所。それを、地図ではなく、足で探していた。
矢筒は、重かった。朝のうちに市の矢羽根の露店で、村で射ちつくした分を買い足していた。
隣には、セリナがいた。今朝、恒一が宿を出ようとしたら、もう外套を着て、門の外に立っていた。灰色の手袋をしていた。
一つ目の谷は、狭すぎた。竜どころか、人が二人並んで歩けない。
二つ目の谷は、ちょうどよかった。両側に岩の斜面。底は平らで、雪解けの水が細く流れている。ただ、入り口が、村から遠すぎた。
「ここまで、どうやって連れてくるかだな」と恒一は言った。
セリナは答えなかった。急に、空を見上げた。
恒一も、聞こえた。
風の音とは違う、低い音。大きな洞穴を、風が抜けるような。
二人で、岩陰に身を伏せた。
影が、谷の上を通った。
竜は、高かった。あの日より、ずっと高い所を飛んでいた。谷の上で、一度だけ、ゆっくりと輪を描いた。恒一は、息を止めた。
降りてこなかった。
竜は、そのまま南へ、冬の市の町の上を越えていった。遠くで、鐘楼の鐘が鳴りはじめた。
恒一の指が、弓の弦にかかったまま、固まっていた。
しばらくして、竜は戻ってきた。何もせずに、北の山のほうへ。日は、まだ高かった。
「……日が傾く前に、帰ったな」とセリナが言った。
恒一は、頷けなかった。
朔の「日が傾いたら、北の山へ帰った」は、一日しか見ていない。今日は、昼に来て、昼に帰った。何もしないで。
分からないことが、一つ増えた。
恒一は、二つ目の谷の形を、頭の中で何度もなぞった。それから、セリナの手袋の指先を見た。冷えて、赤くなっていた。
「帰るか」
セリナは、黙って恒一の半歩後ろに戻った。
【夜の音 黒瀬琴音】
その夜、琴音は宿の屋根の上にいた。
北を向いて、耳を澄ませていた。川の氷が軋む音。遠くの犬。町の衛兵の足音。北の山からは、何も聞こえない。
それでも、耳を閉じることができなかった。
屋根の梯子が、軋んだ。朔だった。
朔は何も言わずに、琴音の隣に座った。
琴音は、朔のほうを向かなかった。北を向いたまま、言った。
「あの吸う音、ずっと耳に残ってる」
「怖かったか」
「怖かった。……あの音が聞こえたら、次の瞬間、誰かが焼かれるかもしれないから」
琴音は、指で膝を叩いた。一つ。二つ。三つ。
「三拍って、短いよ。走っても、何歩も行けない」
「ああ」
「でも、私が数えないと、誰も三拍のあいだに動けない」
琴音は、喉に手を当てた。まだ、少しかすれていた。
「ただ、声がもたないかもしれない。村では、二十回くらい叫んだ。最後のほうは、もう、ちゃんと出てなかった」
歌うときと同じだった。長くは、もたない。
「明日、澪に喉を診てもらう」と琴音は言った。「それと、叫ぶのは、本当に要る時だけにする」
朔の心臓の音が、聞こえていた。市の朝と、同じ音。ゆっくりで、まっすぐで。
「琴音」
「ん」
「次も、数えてくれるか」
琴音は、やっと朔のほうを向いた。
「数える。……朔の心臓も、ついでに数えてる」
朔が、少し笑った。心臓の音が、一拍だけ、速くなった。
琴音は、それを、黙って覚えておいた。
【新しい剣 神崎伊織】
三日目の夕方、親方は、布にくるんだ剣を金床に置いた。
伊織は、布を開いた。
刃の横に、新しい鞘が並んでいた。
前の剣より、手のひら一つ分、短かった。刃の幅も、細い。切っ先に向かって、すっと細くなっていく。
伊織は、焼き入れ用の水槽に、両手を浸けた。
親方が、片方の眉を上げた。
「……何してる」
「濡れた手で、握る」
伊織は、新しい柄を握った。濡れた手のひらに、柄が収まった。握り直しても、ずれない。前の柄とも、五年握った柄とも、違う手触りだった。それでも、滑らなかった。
伊織は、振らずに、突いた。
刃の先が、炉の火の前で、細い線を引いた。軽い。体が、刃より先に動く。前の剣なら、重さに引っぱられて止まった所で、もう一歩、踏みこめる。
「受けるなよ」と親方が言った。「その刃は、受けたら、一度で折れる」
「受けない」
伊織は、もう一度、突いた。
手の中に、喉の下の一枚の手応えを、思い出しながら。
工房の入り口に、朔が立っていた。その後ろに、五人とセリナ。
伊織は剣を鞘に収めて、振り返った。
「どう」
「軽そうだな」と朔。
「軽い。受けられない。……いつもどおりだよ」
伊織は、にっと笑った。
代金は、朔が払った。ヒュドラの報酬の残りからだった。外套の内側の袋には、朔は触れなかった。いくらだったのか伊織は聞かなかった。
工房を出ると、日が傾いていた。玲奈が手帳を開いて、右の頁を朔に見せた。いくつかの行に、線が引いてあった。まだ、半分以上が残っていた。
「剣はできた」と朔は言った。「勝ち方は、まだない」
誰も、笑わなかった。
「だから、次は、確かめに行く。勝ちにじゃない。右の頁を、減らしに行く」
伊織は、北の山を見た。
雪の溶けた黒い筋の上に、白い湯気が、細く昇っていた。
新しい剣の柄が、手のひらに冷たかった。




