第54話「竜」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第54話「竜」
【冬の市 黒瀬琴音】
朝の冬の市は、音でできていた。
鈴の音。荷車の車輪が凍った石を噛む音。焼き栗の鍋を揺する音。毛皮を叩いて埃を払う、乾いた音。誰かが笛を吹いていて、その下で、太鼓が小さく拍を刻んでいた。
川は、町の真ん中で凍っていた。その氷の上にまで、露店が並んでいる。子どもたちが、氷の上を滑って歓声を上げていた。
琴音はマルタの露店の前で、目を閉じていた。
全部の音が、ちゃんと聞こえた。ひとつずつ、別々に。
「琴音ちゃん、目つむって歩くと、転ぶよ」
莉子が腕を引いた。手には、小さな布袋を持っている。
「名前、教えてもらった」と莉子は言った。「四回目で、やっと。……今度は、書いた」
袋の口に、莉子の字の札が結んであった。
露店の奥で、マルタが笑っていた。煮込みの鍋の湯気が、冷たい空に昇っていく。伊織はもう二杯目を手にしていた。澪は毛糸の襟巻きを二本並べて、どっちの色がいいか玲奈に訊いていた。玲奈は手帳から顔を上げずに「右」と答えていた。
恒一とセリナは、少し離れた矢羽根の露店にいた。セリナの手には、灰色の手袋があった。
朔は露店の柱にもたれて、その全部を眺めていた。
琴音は朔の隣に立った。
市の音の中で、朔の心臓の音だけは、聞こうとしなくても聞こえた。ゆっくりで、まっすぐで、どこにも急いでいない音。
いい朝だ、と琴音は思った。
そのとき、市の音の、ずっと奥で、別の音がした。
低い音だった。風が、大きな洞穴の口を通り抜けるような音。一度。少し間があって、もう一度。
琴音は北を向いた。
谷の奥。川の上流の、山のふもと。そこに、小さな村の屋根が見えていた。
その屋根の上に、煙が一本、立った。
町の鐘楼の鐘が、鳴りはじめた。
【ふもとの村 朝倉朔】
走りながら、朔は、それを見た。
谷の奥の空に、翼があった。
大きかった。ワイバーンの巣の大きいほうでさえ、あれの翼の一枚にも届かない。長い首。長い尾。煤をかぶったような色の鱗が、朝の光を鈍く跳ね返している。
翼のひと打ちで、村の上の煙が、横に吹き飛んだ。
「……竜」
後ろで、誰かが言った。誰だったかは分からなかった。
村は、町から川沿いに走れば、すぐの所だった。畑と、納屋と、二十軒ほどの家。村の人たちが、畑の中を、町のほうへ走ってくる。
朔は走りながら、全員に聞こえる声で言った。
「聞いてくれ。今日は、勝たない」
足音が、ひとつも乱れなかった。
「目的は、二つだ。村の人を、全員、町へ逃がす。それと、見る。あれが何をするか、全部、見て、覚えておく」
「倒さないの」と伊織。
「倒せるか分からない相手に、村の人を後ろに置いて挑まない」
伊織は何も返さなかった。剣の柄に、手を置いただけだった。
「莉子、玲奈。逃げ道を作ってくれ。村から町までの畑の道。澪は怪我人。琴音はあれの音を聞いていてくれ。何か分かったら、すぐ叫べ。恒一、あれの目を、村の人から逸らしてくれ。伊織と俺は、前に出る。……ただし、受けない」
伊織が口の端だけで笑った。
「分かってる」
「俺が『退く』と言ったら、何をしていても、全員、退く。いいな」
返事が、揃った。
竜が村の広場に、降りた。
地面が揺れた。広場の端の納屋が、翼の風だけで、屋根を飛ばした。
【息 黒瀬琴音】
近くで聞くと、それは、ふいごの音に似ていた。
鍛冶屋の炉に風を送る、大きな革の袋。あれの、何百倍も大きいもの。
竜が首を上げた。
すうううう、と、空気が吸いこまれていく音がした。広場の煙までが、竜の口のほうへ流れていく。
「吸った!」
琴音は叫んだ。
「伏せて! 来る!」
朔が近くの村人を二人まとめて、石垣の陰に引き倒した。伊織が反対側へ跳んだ。
炎が来た。
琴音の目の前を、白に近い橙色が流れていった。音は、思ったより静かだった。ごう、という低い唸りが、長く、長く続いた。
炎が止まった。
広場の向こうの納屋が、燃えていた。藁の屋根が、ひと息で灰になっていた。
琴音は数えていた。
炎が止まってから、竜が、もう一度、息を吸いはじめるまで。
一つ。二つ。三つ。
すうううう。
「吸った!」
二度目の炎が、畑を舐めた。
止まる。一つ。二つ。三つ。
吸う。
琴音は喉に手を当てた。
三拍。いつも、三拍だった。続けては、吐けない。吐いたあと、三拍だけ、あの大きなふいごは空になる。
それが何の役に立つのか、今は分からなかった。でも、覚えた。
【喉 白川玲奈】
雷は、効かなかった。
一度目は、鱗の上を滑って、地面へ逃げた。二度目は、竜が首を振っただけで、どこかへ散った。当たっているのに、雷が、体の中に入っていかなかった。
鱗が、雷を通さない。
玲奈は撃つのをやめた。
かわりに、見た。
村人たちが、莉子の作った蔓の垣根に沿って、畑の道を町へ走っていく。その背中と、竜とのあいだに、氷の壁を立てる。炎が来たら、氷は一瞬で溶ける。それでも、一瞬は稼げる。
琴音が、また叫んだ。
「吸った!」
玲奈は竜の喉を見ていた。
息を吸いきった、その瞬間。首の付け根から顎の下にかけて、喉の鱗が、ほんのわずかに浮いた。鱗と鱗のあいだに、細い隙間が開いた。
その隙間の奥が、赤く透けていた。
炉の中の、いちばん熱いところの色だった。
炎が吐き出された。鱗が、また閉じた。
玲奈は走りながら、手帳に書いた。
炎の前。喉の鱗が開く。中が赤い。
字が、ひどく乱れていた。それでも、読めればいい。
【剣 神崎伊織】
伊織は、竜の脚に斬りつけた。
鱗に、刃が弾かれた。手の中に、硬い石を叩いたような痺れが残った。根もとのひびが、きい、と小さく鳴った。
受けない。かわす。
竜の爪がさっきまで伊織のいた地面を、深くえぐった。尾が、横から来る。伊織は熱を脚に集めて、跳んだ。尾が、足の下を通り過ぎていった。
朔が反対側から、竜の目の前を横切った。竜の首が、朔を追う。
首が低く下がった。
喉の下が、伊織の目の前にあった。
考えるより先に、体が動いた。熱を、腕に、肩に、全部集める。刃の先で、喉の下の鱗の一枚を、斜めに打ち上げる。
手応えが、あった。
ほかの鱗とは違った。石ではなかった。硬い革に、刃の先が、ほんの少しだけ食いこむ感触。
次の瞬間、竜が首を振り上げた。
刃が、鱗に噛まれたまま、横にねじれた。
ぱきん、と音がした。
伊織の手の中で剣が軽くなった。
根もとのひびから、刃が、まっすぐに折れていた。折れた刃は、竜の首が振り上がる勢いで、空へ飛んで、畑のどこかに落ちた。
伊織は、柄だけになった剣を握ったまま、立っていた。
「伊織!」
朔の腕が、伊織の外套をつかんだ。そのまま、石垣の陰まで引きずられた。竜の爪が伊織の立っていた地面を、もう一度えぐった。
伊織は、石垣に背中を預けて、手の中を見た。
柄。鍔。根もとから先は、なかった。
「……折れた」
「ああ」
「喉の下。一枚だけ、入った」
伊織は朔を見た。
「ほかのは、石みたいだった。そこだけ、違った。……ほんの少しだけど」
朔は、伊織の目を見たまま、頷いた。
「覚えておけ」
【苔 小鳥遊莉子】
最後の家族が、畑の道を走っていく。
おばあさんを背負った男と、小さな男の子が二人。莉子はその後ろに、蔓の垣根をもう一枚、編み上げた。
足りない、と思った。
蔓は、燃える。さっきの炎で、垣根の半分が灰になった。
莉子は垣根の根もとに、手をついた。畑の脇の、湿った溝。雪が溶けて、水が溜まっている。そこに生えていた苔に、力を流しこんだ。
苔が、膨らんだ。水を吸って、厚く、重く、垣根の蔓に這い上がっていく。
「吸った!」と琴音の声。
炎が垣根を舐めた。
蔓は、燃えた。乾いたところから、ぱちぱちと音を立てて、黒くなっていく。
苔は燃えなかった。
白い煙を、もうもうと上げていた。じゅう、と水の煮える音がした。それでも、苔の厚いところだけは、炎の向こうで、緑のまま残っていた。
その後ろで、男の子が二人、振り返りもせずに走っていった。
莉子は、煙の上がる苔を、じっと眺めた。
湿った苔は、燃えない。全部は防げない。でも、少しは防げる。
莉子はそれを覚えた。
【平らな所 佐伯恒一】
恒一は、竜の目の前に、矢を射こみ続けていた。
刺さらないのは分かっていた。刺さらなくていい。目の前で、鱗に弾かれる音がすれば、竜は、そっちを向く。
竜の首が恒一のほうを向いた。翼が開いた。
恒一は、走った。村の裏の、岩の多い沢のほうへ。
隣を、セリナが走っていた。誰も何も頼んでいないのに、いつもどおり、恒一の半歩後ろにいた。
竜が飛んだ。
恒一とセリナの頭の上を、大きな影が通り過ぎた。沢の上で、一度、旋回する。
恒一は、岩陰に飛びこんで、上を見た。
竜は沢に降りてこなかった。
沢の上を、二度、三度と回る。翼の先が、両側の岩の斜面に触れそうになると、すぐに高く上がる。それから、沢を越えて、向こうの開けた畑に、降りた。
「……降りねえな」とセリナが言った。
恒一も、気づいていた。
さっきから、ずっとそうだった。広場。畑の真ん中。川原の平らな所。竜が降りるのは、いつも、翼を広げきれる、開けた平らな所だった。岩の多い狭い所には、一度も降りていない。
恒一は沢の岩の形を、目に焼きつけた。
【帰る 水城澪】
火傷は、深かった。
村の男の腕。炎の端がかすめただけだと、本人は言った。それなのに、皮膚の下の、ずっと深いところまで、熱が残っていた。普通の火傷なら表で止まるはずの熱が、肉の奥で、まだ燃え続けているようだった。
澪は、両手で男の腕を包んだ。
深いところから、順に戻していく。熱を抜いて、焼けた肉を、焼ける前の形に戻す。いつもの三倍、時間がかかった。
それでも、戻った。
男が腕を曲げて、目を丸くした。
「……治った」
「治せる」
澪は、自分に言い聞かせるように言った。
「深いけど、治せる。……それなら、前に出られる」
町の入り口の広場に、村の人たちが集まっていた。マルタが荷馬車から毛布を下ろしていた。町の衛兵たちが、名前を読み上げている。
朔が、広場に戻ってきた。伊織と、恒一と、セリナと。莉子は煤だらけで、玲奈は手帳を抱えていた。琴音の声は、すっかり嗄れていた。
「退く」と朔が言ったのは、もうずいぶん前だった。
七人が退いても、竜は追ってこなかった。村の上を、ゆっくりと回り続けていた。
日が傾いた。
谷の奥の空が、橙色に変わりはじめたとき、竜は、翼を大きく打った。
一度。二度。
それから、北へ向かって、まっすぐに飛んでいった。山のほうへ。雪の溶けた、あの黒い筋のほうへ。
誰も、何も言えなかった。
衛兵の一人が、帳面から顔を上げた。
「……全員、います」
その声で、広場の空気が、ゆっくりとほどけた。誰かが泣きだした。誰かが笑った。マルタが毛布を抱えたまま、膝から座りこんだ。
朔が、七人とセリナを見回した。
「全員、いるな」
「いる」と伊織が言った。
伊織は柄だけの剣を、腰に差したままだった。
納屋が四つと、畑の半分が焼けた。死んだ人は、いなかった。
澪は、朔の隣に立った。
「朔くん」
「ん」
「負けたね」
「ああ。負けた」
朔は北の山を見ていた。もう、竜の影はどこにもなかった。
「でも、全員いる。……それと、見た」
朔は、七人を振り返った。
「今夜は、休んでくれ。明日の朝、見たものを、全部出してくれ。どんなに小さいことでもいい」
伊織が柄を握った。琴音が、喉に手を当てた。玲奈が手帳を開いた。
澪は、自分の手のひらを見た。まだ、あの熱の深さが残っている気がした。
治せる。
だから、次は、もっと前で。




