↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
54/57

第54話「竜」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第54話「竜」


【冬の市 黒瀬琴音】


朝の冬の市は、音でできていた。


鈴の音。荷車の車輪が凍った石を噛む音。焼き栗の鍋を揺する音。毛皮を叩いて埃を払う、乾いた音。誰かが笛を吹いていて、その下で、太鼓が小さく拍を刻んでいた。


川は、町の真ん中で凍っていた。その氷の上にまで、露店が並んでいる。子どもたちが、氷の上を滑って歓声を上げていた。


琴音はマルタの露店の前で、目を閉じていた。


全部の音が、ちゃんと聞こえた。ひとつずつ、別々に。


「琴音ちゃん、目つむって歩くと、転ぶよ」


莉子が腕を引いた。手には、小さな布袋を持っている。


「名前、教えてもらった」と莉子は言った。「四回目で、やっと。……今度は、書いた」


袋の口に、莉子の字の札が結んであった。


露店の奥で、マルタが笑っていた。煮込みの鍋の湯気が、冷たい空に昇っていく。伊織はもう二杯目を手にしていた。澪は毛糸の襟巻きを二本並べて、どっちの色がいいか玲奈に訊いていた。玲奈は手帳から顔を上げずに「右」と答えていた。


恒一とセリナは、少し離れた矢羽根の露店にいた。セリナの手には、灰色の手袋があった。


朔は露店の柱にもたれて、その全部を眺めていた。


琴音は朔の隣に立った。


市の音の中で、朔の心臓の音だけは、聞こうとしなくても聞こえた。ゆっくりで、まっすぐで、どこにも急いでいない音。


いい朝だ、と琴音は思った。


そのとき、市の音の、ずっと奥で、別の音がした。


低い音だった。風が、大きな洞穴の口を通り抜けるような音。一度。少し間があって、もう一度。


琴音は北を向いた。


谷の奥。川の上流の、山のふもと。そこに、小さな村の屋根が見えていた。


その屋根の上に、煙が一本、立った。


町の鐘楼の鐘が、鳴りはじめた。


【ふもとの村 朝倉朔】


走りながら、朔は、それを見た。


谷の奥の空に、翼があった。


大きかった。ワイバーンの巣の大きいほうでさえ、あれの翼の一枚にも届かない。長い首。長い尾。煤をかぶったような色の鱗が、朝の光を鈍く跳ね返している。


翼のひと打ちで、村の上の煙が、横に吹き飛んだ。


「……竜」


後ろで、誰かが言った。誰だったかは分からなかった。


村は、町から川沿いに走れば、すぐの所だった。畑と、納屋と、二十軒ほどの家。村の人たちが、畑の中を、町のほうへ走ってくる。


朔は走りながら、全員に聞こえる声で言った。


「聞いてくれ。今日は、勝たない」


足音が、ひとつも乱れなかった。


「目的は、二つだ。村の人を、全員、町へ逃がす。それと、見る。あれが何をするか、全部、見て、覚えておく」


「倒さないの」と伊織。


「倒せるか分からない相手に、村の人を後ろに置いて挑まない」


伊織は何も返さなかった。剣の柄に、手を置いただけだった。


「莉子、玲奈。逃げ道を作ってくれ。村から町までの畑の道。澪は怪我人。琴音はあれの音を聞いていてくれ。何か分かったら、すぐ叫べ。恒一、あれの目を、村の人から逸らしてくれ。伊織と俺は、前に出る。……ただし、受けない」


伊織が口の端だけで笑った。


「分かってる」


「俺が『退く』と言ったら、何をしていても、全員、退く。いいな」


返事が、揃った。


竜が村の広場に、降りた。


地面が揺れた。広場の端の納屋が、翼の風だけで、屋根を飛ばした。


【息 黒瀬琴音】


近くで聞くと、それは、ふいごの音に似ていた。


鍛冶屋の炉に風を送る、大きな革の袋。あれの、何百倍も大きいもの。


竜が首を上げた。


すうううう、と、空気が吸いこまれていく音がした。広場の煙までが、竜の口のほうへ流れていく。


「吸った!」


琴音は叫んだ。


「伏せて! 来る!」


朔が近くの村人を二人まとめて、石垣の陰に引き倒した。伊織が反対側へ跳んだ。


炎が来た。


琴音の目の前を、白に近い橙色が流れていった。音は、思ったより静かだった。ごう、という低い唸りが、長く、長く続いた。


炎が止まった。


広場の向こうの納屋が、燃えていた。藁の屋根が、ひと息で灰になっていた。


琴音は数えていた。


炎が止まってから、竜が、もう一度、息を吸いはじめるまで。


一つ。二つ。三つ。


すうううう。


「吸った!」


二度目の炎が、畑を舐めた。


止まる。一つ。二つ。三つ。


吸う。


琴音は喉に手を当てた。


三拍。いつも、三拍だった。続けては、吐けない。吐いたあと、三拍だけ、あの大きなふいごは空になる。


それが何の役に立つのか、今は分からなかった。でも、覚えた。


【喉 白川玲奈】


雷は、効かなかった。


一度目は、鱗の上を滑って、地面へ逃げた。二度目は、竜が首を振っただけで、どこかへ散った。当たっているのに、雷が、体の中に入っていかなかった。


鱗が、雷を通さない。


玲奈は撃つのをやめた。


かわりに、見た。


村人たちが、莉子の作った蔓の垣根に沿って、畑の道を町へ走っていく。その背中と、竜とのあいだに、氷の壁を立てる。炎が来たら、氷は一瞬で溶ける。それでも、一瞬は稼げる。


琴音が、また叫んだ。


「吸った!」


玲奈は竜の喉を見ていた。


息を吸いきった、その瞬間。首の付け根から顎の下にかけて、喉の鱗が、ほんのわずかに浮いた。鱗と鱗のあいだに、細い隙間が開いた。


その隙間の奥が、赤く透けていた。


炉の中の、いちばん熱いところの色だった。


炎が吐き出された。鱗が、また閉じた。


玲奈は走りながら、手帳に書いた。


炎の前。喉の鱗が開く。中が赤い。


字が、ひどく乱れていた。それでも、読めればいい。


【剣 神崎伊織】


伊織は、竜の脚に斬りつけた。


鱗に、刃が弾かれた。手の中に、硬い石を叩いたような痺れが残った。根もとのひびが、きい、と小さく鳴った。


受けない。かわす。


竜の爪がさっきまで伊織のいた地面を、深くえぐった。尾が、横から来る。伊織は熱を脚に集めて、跳んだ。尾が、足の下を通り過ぎていった。


朔が反対側から、竜の目の前を横切った。竜の首が、朔を追う。


首が低く下がった。


喉の下が、伊織の目の前にあった。


考えるより先に、体が動いた。熱を、腕に、肩に、全部集める。刃の先で、喉の下の鱗の一枚を、斜めに打ち上げる。


手応えが、あった。


ほかの鱗とは違った。石ではなかった。硬い革に、刃の先が、ほんの少しだけ食いこむ感触。


次の瞬間、竜が首を振り上げた。


刃が、鱗に噛まれたまま、横にねじれた。


ぱきん、と音がした。


伊織の手の中で剣が軽くなった。


根もとのひびから、刃が、まっすぐに折れていた。折れた刃は、竜の首が振り上がる勢いで、空へ飛んで、畑のどこかに落ちた。


伊織は、柄だけになった剣を握ったまま、立っていた。


「伊織!」


朔の腕が、伊織の外套をつかんだ。そのまま、石垣の陰まで引きずられた。竜の爪が伊織の立っていた地面を、もう一度えぐった。


伊織は、石垣に背中を預けて、手の中を見た。


柄。鍔。根もとから先は、なかった。


「……折れた」


「ああ」


「喉の下。一枚だけ、入った」


伊織は朔を見た。


「ほかのは、石みたいだった。そこだけ、違った。……ほんの少しだけど」


朔は、伊織の目を見たまま、頷いた。


「覚えておけ」


【苔 小鳥遊莉子】


最後の家族が、畑の道を走っていく。


おばあさんを背負った男と、小さな男の子が二人。莉子はその後ろに、蔓の垣根をもう一枚、編み上げた。


足りない、と思った。


蔓は、燃える。さっきの炎で、垣根の半分が灰になった。


莉子は垣根の根もとに、手をついた。畑の脇の、湿った溝。雪が溶けて、水が溜まっている。そこに生えていた苔に、力を流しこんだ。


苔が、膨らんだ。水を吸って、厚く、重く、垣根の蔓に這い上がっていく。


「吸った!」と琴音の声。


炎が垣根を舐めた。


蔓は、燃えた。乾いたところから、ぱちぱちと音を立てて、黒くなっていく。


苔は燃えなかった。


白い煙を、もうもうと上げていた。じゅう、と水の煮える音がした。それでも、苔の厚いところだけは、炎の向こうで、緑のまま残っていた。


その後ろで、男の子が二人、振り返りもせずに走っていった。


莉子は、煙の上がる苔を、じっと眺めた。


湿った苔は、燃えない。全部は防げない。でも、少しは防げる。


莉子はそれを覚えた。


【平らな所 佐伯恒一】


恒一は、竜の目の前に、矢を射こみ続けていた。


刺さらないのは分かっていた。刺さらなくていい。目の前で、鱗に弾かれる音がすれば、竜は、そっちを向く。


竜の首が恒一のほうを向いた。翼が開いた。


恒一は、走った。村の裏の、岩の多い沢のほうへ。


隣を、セリナが走っていた。誰も何も頼んでいないのに、いつもどおり、恒一の半歩後ろにいた。


竜が飛んだ。


恒一とセリナの頭の上を、大きな影が通り過ぎた。沢の上で、一度、旋回する。


恒一は、岩陰に飛びこんで、上を見た。


竜は沢に降りてこなかった。


沢の上を、二度、三度と回る。翼の先が、両側の岩の斜面に触れそうになると、すぐに高く上がる。それから、沢を越えて、向こうの開けた畑に、降りた。


「……降りねえな」とセリナが言った。


恒一も、気づいていた。


さっきから、ずっとそうだった。広場。畑の真ん中。川原の平らな所。竜が降りるのは、いつも、翼を広げきれる、開けた平らな所だった。岩の多い狭い所には、一度も降りていない。


恒一は沢の岩の形を、目に焼きつけた。


【帰る 水城澪】


火傷は、深かった。


村の男の腕。炎の端がかすめただけだと、本人は言った。それなのに、皮膚の下の、ずっと深いところまで、熱が残っていた。普通の火傷なら表で止まるはずの熱が、肉の奥で、まだ燃え続けているようだった。


澪は、両手で男の腕を包んだ。


深いところから、順に戻していく。熱を抜いて、焼けた肉を、焼ける前の形に戻す。いつもの三倍、時間がかかった。


それでも、戻った。


男が腕を曲げて、目を丸くした。


「……治った」


「治せる」


澪は、自分に言い聞かせるように言った。


「深いけど、治せる。……それなら、前に出られる」


町の入り口の広場に、村の人たちが集まっていた。マルタが荷馬車から毛布を下ろしていた。町の衛兵たちが、名前を読み上げている。


朔が、広場に戻ってきた。伊織と、恒一と、セリナと。莉子は煤だらけで、玲奈は手帳を抱えていた。琴音の声は、すっかり嗄れていた。


「退く」と朔が言ったのは、もうずいぶん前だった。


七人が退いても、竜は追ってこなかった。村の上を、ゆっくりと回り続けていた。


日が傾いた。


谷の奥の空が、橙色に変わりはじめたとき、竜は、翼を大きく打った。


一度。二度。


それから、北へ向かって、まっすぐに飛んでいった。山のほうへ。雪の溶けた、あの黒い筋のほうへ。


誰も、何も言えなかった。


衛兵の一人が、帳面から顔を上げた。


「……全員、います」


その声で、広場の空気が、ゆっくりとほどけた。誰かが泣きだした。誰かが笑った。マルタが毛布を抱えたまま、膝から座りこんだ。


朔が、七人とセリナを見回した。


「全員、いるな」


「いる」と伊織が言った。


伊織は柄だけの剣を、腰に差したままだった。


納屋が四つと、畑の半分が焼けた。死んだ人は、いなかった。


澪は、朔の隣に立った。


「朔くん」


「ん」


「負けたね」


「ああ。負けた」


朔は北の山を見ていた。もう、竜の影はどこにもなかった。


「でも、全員いる。……それと、見た」


朔は、七人を振り返った。


「今夜は、休んでくれ。明日の朝、見たものを、全部出してくれ。どんなに小さいことでもいい」


伊織が柄を握った。琴音が、喉に手を当てた。玲奈が手帳を開いた。


澪は、自分の手のひらを見た。まだ、あの熱の深さが残っている気がした。


治せる。


だから、次は、もっと前で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。