↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
53/57

第53話「ワイバーンの巣」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第53話「ワイバーンの巣」


【段取り 朝倉朔】


夜明け前の焚き火は、ほとんど熾火になっていた。


朔はその前に地面を均して、木の枝で崖を描いた。


下に、棚の道。真ん中より少し上に、雲の線。その上に、切り立った壁。壁のいちばん上に、黒い穴の並ぶ岩棚。


「巣は、ここだ」


七人とセリナが、熾火を囲んでしゃがんでいた。マルタがその後ろで腕を組んで立っている。


「隊商は、ここから動かさない。崖の下には入れない。莉子、昨日の屋根は、もう一晩もつか」


「三日はもつよ。根が岩の割れ目に入ったから」


「マルタさんたちは、屋根の下で待っていてください。日が沈んでも俺たちが下りてこなかったら、来た道を戻ってください」


マルタは何か言いかけて、口を閉じた。それから、ゆっくり頷いた。


「煮込み、温めとくわよ。日が沈むまで」


朔は枝の先を壁に当てた。


「登るのは、全員。ただ、壁の上では、昨日のやり方はそのまま使えない」


壁の上では、地面がない。足場は、自分の足の幅しかない。避けるには、横に跳ぶしかない。跳べば、落ちる。


「だから、壁に取りついているあいだは、戦わない。登ることだけを考える。来たら、恒一が追い払う。玲奈はあいつらが壁に爪をかけたときだけ撃つ」


玲奈が手帳から顔を上げた。


「壁に爪をかけているあいだは、動かない。そこなら、外さない」


「そうだ」


それから、朔は莉子を見た。


「足場は、全部、莉子の蔓だ。……莉子が倒れたら、全員が壁の上で止まる」


莉子は袋の種を握りしめた。


「倒れない」


それだけ言って、立ち上がった。


【蔓の梯子 小鳥遊莉子】


壁は、思っていたより冷たかった。


莉子は岩の割れ目に種を押しこんで、手のひらを当てた。


根が割れ目の奥へ潜っていく。岩の中の、ほんの少しの湿り気を探して、細い根が何本も伸びていく。それから、芽が出た。芽は蔓になって、壁に沿って横へ這い、輪を作って固まった。


足を一つ、のせられる輪。


その上に、また一つ。その上に、また一つ。


莉子が先に登り、輪を作る。すぐ後ろに伊織。その後ろに澪、琴音、玲奈、朔。最後に、恒一とセリナ。


雲の中に入ると、下が見えなくなった。上も見えなかった。白い中に、自分の手と、蔓の輪と、冷たい岩だけがあった。


「莉子」と、下から伊織の声。「速すぎ。あたし、追いつけない」


「伊織が遅いの」


「重いの、剣が」


莉子は笑いそうになって、やめた。笑うと、息が乱れる。息が乱れると、根の伸びが鈍る。


雲を抜けた。


光が、いきなり目に入った。


足もとに、白い雲の海が広がっていた。どこまでも平らで、ところどころ、山の頂が島のように突き出している。その上に、真っ青な空。


莉子は一瞬、手を止めた。


きれいだった。


そのとき、琴音の声が、下から飛んできた。


「莉子、右!」


ばさり。


影が右から壁に沿って滑ってきた。昨日、翼の端にセリナの矢を受けたほうだった。羽ばたきが左右で揃っていない。それでも、速かった。


鉤爪が、莉子の目の前の蔓の輪を、まとめて引き裂いた。


莉子の足が、空を踏んだ。


【壁 神崎伊織】


伊織は考えなかった。


右手で蔓の輪をつかんだまま、左手を伸ばした。落ちてくる莉子の、外套の背中をつかむ。


腕に、莉子の全部の重さがかかった。


熱を、左の肩から指の先まで集める。腕が、石のように固まった。指は、外套の布を一本も離さなかった。


「……っ、伊織!」


「つかまって。あたしの腰」


莉子が伊織の腰の帯にしがみついた。体が、壁に戻る。


上で、影が向きを変えた。もう一度、来る。


「来るぞ!」と下から朔。「伊織、受けるな!」


「受けない。……莉子、輪、もう一個。あたしの右」


莉子の手が伊織の腰をつかんだまま、岩に伸びた。種が割れ目に入る。根が潜る。蔓が伊織の右足の横に、輪を作った。


伊織はその輪に体を移した。


影の爪が、さっきまで伊織がいた岩を、深く削った。


影はそのまま壁に爪をかけて、止まった。壁にしがみついたまま、首をこっちへ向ける。口が開いた。


「玲奈!」


雷が伊織の頭の上を抜けた。


影の爪から、岩へ。白い光が、壁を走った。影の体が、壁から剥がれて、雲の海へ落ちていった。


雲に、小さな穴が開いて、閉じた。


伊織は息を吐いた。それから、腰にしがみついたままの莉子の頭を、空いた手で軽く叩いた。


「重い」


「……剣のほうが、重いでしょ」


「どっこい」


莉子がやっと笑った。


二頭目は、上から来た。


昨日、雲の上へ逃げた、もう一頭。今度は壁に爪をかけなかった。真上から、尾で狙ってくる。黒い棘が、陽の光を弾いた。


恒一の矢が、翼の膜を裂いた。半拍遅れて、セリナの矢が、同じ裂け目を広げた。


影は傾いて、壁の張り出しに体をぶつけた。爪が、岩をつかもうとして、滑った。


岩に、爪の先が触れた。


二度目の雷が、壁を走った。


【巣 小鳥遊莉子】


最後の輪を、岩棚の縁に結んだ。


莉子は岩棚の上に這い上がった。


広い岩棚だった。奥に、黒い穴がいくつも開いている。風が、穴の中で鳴っていた。乾いた枝と、羊の毛と、何かの骨が、穴の前に積み上げてあった。


巣だった。


その真ん中に、大きなものがいた。


昨日の三頭より、ひと回り大きい。翼をたたんで、穴の前にうずくまっている。首をもたげて、莉子を見た。黄色い目だった。


その後ろで、小さな声が、いくつも鳴いた。


穴の奥から、首がのぞいていた。五つ、六つ。大きいほうの半分くらい。翼はもう生えそろっていて、穴の縁で、ぎこちなく広げたりたたんだりしている。


もう、飛べる大きさだった。


大きいほうが立ち上がった。翼を広げた。岩棚の幅いっぱいに。


莉子の後ろで、みんなが岩棚に上がってくる音がした。


「莉子、下がれ」と朔の声。


莉子は下がらなかった。


両手を、岩棚の床についた。


岩棚には、土があった。何百年も、ここで鳥や獣が暮らしてきた。羽と、毛と、枝が積もって、腐って、薄い土になっていた。


根はそこへ入れた。


莉子は持ってきた種を、全部、床にばらまいた。


「ごめんね。全部、借りるね」


大きいほうが飛び立とうとして、翼を打ち下ろした。


その翼の下から、蔓が噴き上がった。一本ではなかった。何十本も。翼の骨に、膜に、指に、絡みついて、岩棚の床へ引き戻す。


大きいほうが吼えた。片方の翼を引きちぎるように振る。蔓が何本も切れた。


切れたそばから、次の蔓が伸びた。


「莉子、もたせろ!」


「もたせる!」


莉子は床に手をついたまま、歯を食いしばった。腕の中を、何かがどんどん抜けていく。根が伸びるたびに、自分の中の力が、岩棚の土に吸いこまれていく。


それでも、離さなかった。


翼が床に縫いつけられた。


恒一とセリナの矢が、大きいほうの目の上に突き立った。顔をかばって、首が下がる。


伊織が蔓の上を走った。


受けなかった。尾が横から来たのを、蔓を蹴って跳び越えた。着地した場所の前に、下がった首があった。


刃の先が、首の鱗の継ぎ目に入った。


玲奈の雷が、床から走った。蔓を伝って、翼を伝って、大きな体の全部へ。


大きいほうは首を一度だけ高く上げた。それから、ゆっくりと、岩棚の上に倒れた。


穴の奥で、小さな声が、いっせいに鳴いた。


若いのが、一頭、穴の縁から飛び出した。ぎこちない羽ばたきで、雲の海の上へ。もう一頭。また一頭。


恒一が弓を上げかけた。


「追わない」


朔が言った。


「あいつらは、隊商を襲ったやつらじゃない。……大きいのが、いなくなった。巣を守るものも、もうない」


恒一は弓を下ろした。


六つの小さな影が、雲の上を、遠くへ散っていった。莉子は床に手をついたまま、それを見送った。


それから、そのまま、横に倒れた。


【骨 白川玲奈】


莉子は澪の膝の上で、目を閉じていた。


「力を使いきっただけ。怪我はない。……眠らせておけば戻る」と澪が言った。


玲奈は巣の前にしゃがんでいた。


積み上げられた枝と、羊の毛。骨。


骨が、少なかった。


何十年もここにいる巣なら、穴の前は骨で埋まっているはずだ。山羊の頭、羊の背骨、鳥の脚。ここにあるのは、両手で数えられるくらいだった。どれも、新しかった。


枝も、まだ青い色が残っているものが多かった。


「恒一」


「ああ」


恒一はもう玲奈の隣に来ていた。骨をひとつ拾って、匂いを嗅ぐ。


「新しい巣だな。ひと夏、いや、もっと短い。……ここに来て、まだ日が浅え」


玲奈は手帳を開いた。


巣。骨が少ない。枝が新しい。ここに来て、日が浅い。


それから、昨日の頁を開いた。痩せている。この高さで見たことはない。


その前の頁。オーガ。痩せている。足跡は、上を向いている。


玲奈は三つの頁を、指で押さえたまま、しばらく動かなかった。


並べたら、同じことを言っているように見える。


見えるだけだ。


玲奈は新しい頁に戻って、一行だけ足した。


前の頁と、似ている。


それだけ書いて、手帳を閉じた。


【指 佐伯恒一】


崖を下りきったのは、日が沈む少し前だった。


蔓の屋根の下で、煮込みの鍋が湯気を立てていた。マルタは七人とセリナの顔をひとりずつ数えて、八まで数えてから、やっと腰を下ろした。


恒一は焚き火から少し離れたところで、荷馬車の陰に回った。


セリナがそこにいた。岩に腰かけて、弓の弦を外して、指先に息を吹きかけていた。崖の上の風で、指先がまた赤くなっていた。


恒一は外套の内側から、小さな包みを出した。


昨日の夜、マルタが冬の市に持っていく品の中から、選んだものだった。灰色の羊毛を、きつく編んだ手袋。親指と、人さし指と、中指の先だけ、編み目が途中で止めてある。マルタに頼んで、そこだけ、ほどいてもらった。


「……やる」


恒一は包みをセリナの膝の上に落とした。


セリナは包みを開いた。手袋を持ち上げて、指の先を見た。


「……指、出てる」


「弦が、引けねえだろ。全部、覆ったら」


セリナはしばらく、何も言わなかった。


それから、手袋に右手を入れた。左手を入れた。指を、一本ずつ曲げて伸ばした。出ている三本の指の先で、外した弦を、軽く弾いた。


澄んだ音がした。


「……あったけえ」


セリナは手袋の手を、膝の上で握ったり開いたりした。恒一のほうは、見なかった。


「いつから」


「昨日。お前が、岩の上で指こすってた」


「見てたのか」


「見てねえふりは、した」


セリナが鼻で笑った。それから、肩を、恒一の肩にぶつけた。


ぶつけたまま、離さなかった。


尻尾の先が、恒一の背中に、ぱたりと一度だけ当たった。


【峠 水城澪】


峠に着いたのは、次の日の昼だった。


崖の下を抜けるあいだ、空には何も飛ばなかった。マルタの隊商の五台の荷馬車は、一台も欠けずに、雪の峠道を登りきった。


峠の上から、向こう側が見えた。


なだらかな谷が、白く広がっていた。谷の底を、凍った川が光りながら曲がっている。その川沿いに、屋根の集まった町があった。煙が、何本も、まっすぐ空に昇っていた。


「あれが、冬の市の町」とマルタが言った。「明日の夕方には着くわ」


護衛たちが、声を上げた。荷馬車の上で、誰かが帽子を投げた。


澪は谷の向こうを見た。


谷の、さらに北。雲の海の上に、ひときわ高い山が、白く突き出していた。


その頂の、少し下。


白い山肌に、一本、黒い筋が走っていた。


雪が、そこだけ、溶けていた。帯のように細長く。その黒い筋の上で、何かが、ゆらゆらと揺れていた。湯気だった。冬の山の上で、地面から湯気が上がっていた。


澪は目を細めた。遠すぎて、それ以上は何も分からなかった。


隣で、恒一が、北を向いていた。鼻が、ひくりと動いた。


「……焦げた匂いがする」


恒一は言った。


「すごく遠い。でも、する」


誰も、すぐには何も言わなかった。


朔が北の山を見ていた。その横顔は、草原で狼騎兵の数を数えていたときと、同じ顔だった。


澪は朔の隣に並んだ。


「朔くん」


「ん」


「冬の市、楽しみにしてるからね。……みんなで、行くんだから」


朔は北の山から目を離して、澪を見た。それから、少しだけ笑った。


「ああ。みんなで」


澪はその言葉を、胸の中で、もう一度くり返した。


言葉にしておけば、それは約束になる。約束なら、守りに行ける。


峠を下る道の先で、冬の市の町の煙が、まっすぐ昇っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。