第53話「ワイバーンの巣」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第53話「ワイバーンの巣」
【段取り 朝倉朔】
夜明け前の焚き火は、ほとんど熾火になっていた。
朔はその前に地面を均して、木の枝で崖を描いた。
下に、棚の道。真ん中より少し上に、雲の線。その上に、切り立った壁。壁のいちばん上に、黒い穴の並ぶ岩棚。
「巣は、ここだ」
七人とセリナが、熾火を囲んでしゃがんでいた。マルタがその後ろで腕を組んで立っている。
「隊商は、ここから動かさない。崖の下には入れない。莉子、昨日の屋根は、もう一晩もつか」
「三日はもつよ。根が岩の割れ目に入ったから」
「マルタさんたちは、屋根の下で待っていてください。日が沈んでも俺たちが下りてこなかったら、来た道を戻ってください」
マルタは何か言いかけて、口を閉じた。それから、ゆっくり頷いた。
「煮込み、温めとくわよ。日が沈むまで」
朔は枝の先を壁に当てた。
「登るのは、全員。ただ、壁の上では、昨日のやり方はそのまま使えない」
壁の上では、地面がない。足場は、自分の足の幅しかない。避けるには、横に跳ぶしかない。跳べば、落ちる。
「だから、壁に取りついているあいだは、戦わない。登ることだけを考える。来たら、恒一が追い払う。玲奈はあいつらが壁に爪をかけたときだけ撃つ」
玲奈が手帳から顔を上げた。
「壁に爪をかけているあいだは、動かない。そこなら、外さない」
「そうだ」
それから、朔は莉子を見た。
「足場は、全部、莉子の蔓だ。……莉子が倒れたら、全員が壁の上で止まる」
莉子は袋の種を握りしめた。
「倒れない」
それだけ言って、立ち上がった。
【蔓の梯子 小鳥遊莉子】
壁は、思っていたより冷たかった。
莉子は岩の割れ目に種を押しこんで、手のひらを当てた。
根が割れ目の奥へ潜っていく。岩の中の、ほんの少しの湿り気を探して、細い根が何本も伸びていく。それから、芽が出た。芽は蔓になって、壁に沿って横へ這い、輪を作って固まった。
足を一つ、のせられる輪。
その上に、また一つ。その上に、また一つ。
莉子が先に登り、輪を作る。すぐ後ろに伊織。その後ろに澪、琴音、玲奈、朔。最後に、恒一とセリナ。
雲の中に入ると、下が見えなくなった。上も見えなかった。白い中に、自分の手と、蔓の輪と、冷たい岩だけがあった。
「莉子」と、下から伊織の声。「速すぎ。あたし、追いつけない」
「伊織が遅いの」
「重いの、剣が」
莉子は笑いそうになって、やめた。笑うと、息が乱れる。息が乱れると、根の伸びが鈍る。
雲を抜けた。
光が、いきなり目に入った。
足もとに、白い雲の海が広がっていた。どこまでも平らで、ところどころ、山の頂が島のように突き出している。その上に、真っ青な空。
莉子は一瞬、手を止めた。
きれいだった。
そのとき、琴音の声が、下から飛んできた。
「莉子、右!」
ばさり。
影が右から壁に沿って滑ってきた。昨日、翼の端にセリナの矢を受けたほうだった。羽ばたきが左右で揃っていない。それでも、速かった。
鉤爪が、莉子の目の前の蔓の輪を、まとめて引き裂いた。
莉子の足が、空を踏んだ。
【壁 神崎伊織】
伊織は考えなかった。
右手で蔓の輪をつかんだまま、左手を伸ばした。落ちてくる莉子の、外套の背中をつかむ。
腕に、莉子の全部の重さがかかった。
熱を、左の肩から指の先まで集める。腕が、石のように固まった。指は、外套の布を一本も離さなかった。
「……っ、伊織!」
「つかまって。あたしの腰」
莉子が伊織の腰の帯にしがみついた。体が、壁に戻る。
上で、影が向きを変えた。もう一度、来る。
「来るぞ!」と下から朔。「伊織、受けるな!」
「受けない。……莉子、輪、もう一個。あたしの右」
莉子の手が伊織の腰をつかんだまま、岩に伸びた。種が割れ目に入る。根が潜る。蔓が伊織の右足の横に、輪を作った。
伊織はその輪に体を移した。
影の爪が、さっきまで伊織がいた岩を、深く削った。
影はそのまま壁に爪をかけて、止まった。壁にしがみついたまま、首をこっちへ向ける。口が開いた。
「玲奈!」
雷が伊織の頭の上を抜けた。
影の爪から、岩へ。白い光が、壁を走った。影の体が、壁から剥がれて、雲の海へ落ちていった。
雲に、小さな穴が開いて、閉じた。
伊織は息を吐いた。それから、腰にしがみついたままの莉子の頭を、空いた手で軽く叩いた。
「重い」
「……剣のほうが、重いでしょ」
「どっこい」
莉子がやっと笑った。
二頭目は、上から来た。
昨日、雲の上へ逃げた、もう一頭。今度は壁に爪をかけなかった。真上から、尾で狙ってくる。黒い棘が、陽の光を弾いた。
恒一の矢が、翼の膜を裂いた。半拍遅れて、セリナの矢が、同じ裂け目を広げた。
影は傾いて、壁の張り出しに体をぶつけた。爪が、岩をつかもうとして、滑った。
岩に、爪の先が触れた。
二度目の雷が、壁を走った。
【巣 小鳥遊莉子】
最後の輪を、岩棚の縁に結んだ。
莉子は岩棚の上に這い上がった。
広い岩棚だった。奥に、黒い穴がいくつも開いている。風が、穴の中で鳴っていた。乾いた枝と、羊の毛と、何かの骨が、穴の前に積み上げてあった。
巣だった。
その真ん中に、大きなものがいた。
昨日の三頭より、ひと回り大きい。翼をたたんで、穴の前にうずくまっている。首をもたげて、莉子を見た。黄色い目だった。
その後ろで、小さな声が、いくつも鳴いた。
穴の奥から、首がのぞいていた。五つ、六つ。大きいほうの半分くらい。翼はもう生えそろっていて、穴の縁で、ぎこちなく広げたりたたんだりしている。
もう、飛べる大きさだった。
大きいほうが立ち上がった。翼を広げた。岩棚の幅いっぱいに。
莉子の後ろで、みんなが岩棚に上がってくる音がした。
「莉子、下がれ」と朔の声。
莉子は下がらなかった。
両手を、岩棚の床についた。
岩棚には、土があった。何百年も、ここで鳥や獣が暮らしてきた。羽と、毛と、枝が積もって、腐って、薄い土になっていた。
根はそこへ入れた。
莉子は持ってきた種を、全部、床にばらまいた。
「ごめんね。全部、借りるね」
大きいほうが飛び立とうとして、翼を打ち下ろした。
その翼の下から、蔓が噴き上がった。一本ではなかった。何十本も。翼の骨に、膜に、指に、絡みついて、岩棚の床へ引き戻す。
大きいほうが吼えた。片方の翼を引きちぎるように振る。蔓が何本も切れた。
切れたそばから、次の蔓が伸びた。
「莉子、もたせろ!」
「もたせる!」
莉子は床に手をついたまま、歯を食いしばった。腕の中を、何かがどんどん抜けていく。根が伸びるたびに、自分の中の力が、岩棚の土に吸いこまれていく。
それでも、離さなかった。
翼が床に縫いつけられた。
恒一とセリナの矢が、大きいほうの目の上に突き立った。顔をかばって、首が下がる。
伊織が蔓の上を走った。
受けなかった。尾が横から来たのを、蔓を蹴って跳び越えた。着地した場所の前に、下がった首があった。
刃の先が、首の鱗の継ぎ目に入った。
玲奈の雷が、床から走った。蔓を伝って、翼を伝って、大きな体の全部へ。
大きいほうは首を一度だけ高く上げた。それから、ゆっくりと、岩棚の上に倒れた。
穴の奥で、小さな声が、いっせいに鳴いた。
若いのが、一頭、穴の縁から飛び出した。ぎこちない羽ばたきで、雲の海の上へ。もう一頭。また一頭。
恒一が弓を上げかけた。
「追わない」
朔が言った。
「あいつらは、隊商を襲ったやつらじゃない。……大きいのが、いなくなった。巣を守るものも、もうない」
恒一は弓を下ろした。
六つの小さな影が、雲の上を、遠くへ散っていった。莉子は床に手をついたまま、それを見送った。
それから、そのまま、横に倒れた。
【骨 白川玲奈】
莉子は澪の膝の上で、目を閉じていた。
「力を使いきっただけ。怪我はない。……眠らせておけば戻る」と澪が言った。
玲奈は巣の前にしゃがんでいた。
積み上げられた枝と、羊の毛。骨。
骨が、少なかった。
何十年もここにいる巣なら、穴の前は骨で埋まっているはずだ。山羊の頭、羊の背骨、鳥の脚。ここにあるのは、両手で数えられるくらいだった。どれも、新しかった。
枝も、まだ青い色が残っているものが多かった。
「恒一」
「ああ」
恒一はもう玲奈の隣に来ていた。骨をひとつ拾って、匂いを嗅ぐ。
「新しい巣だな。ひと夏、いや、もっと短い。……ここに来て、まだ日が浅え」
玲奈は手帳を開いた。
巣。骨が少ない。枝が新しい。ここに来て、日が浅い。
それから、昨日の頁を開いた。痩せている。この高さで見たことはない。
その前の頁。オーガ。痩せている。足跡は、上を向いている。
玲奈は三つの頁を、指で押さえたまま、しばらく動かなかった。
並べたら、同じことを言っているように見える。
見えるだけだ。
玲奈は新しい頁に戻って、一行だけ足した。
前の頁と、似ている。
それだけ書いて、手帳を閉じた。
【指 佐伯恒一】
崖を下りきったのは、日が沈む少し前だった。
蔓の屋根の下で、煮込みの鍋が湯気を立てていた。マルタは七人とセリナの顔をひとりずつ数えて、八まで数えてから、やっと腰を下ろした。
恒一は焚き火から少し離れたところで、荷馬車の陰に回った。
セリナがそこにいた。岩に腰かけて、弓の弦を外して、指先に息を吹きかけていた。崖の上の風で、指先がまた赤くなっていた。
恒一は外套の内側から、小さな包みを出した。
昨日の夜、マルタが冬の市に持っていく品の中から、選んだものだった。灰色の羊毛を、きつく編んだ手袋。親指と、人さし指と、中指の先だけ、編み目が途中で止めてある。マルタに頼んで、そこだけ、ほどいてもらった。
「……やる」
恒一は包みをセリナの膝の上に落とした。
セリナは包みを開いた。手袋を持ち上げて、指の先を見た。
「……指、出てる」
「弦が、引けねえだろ。全部、覆ったら」
セリナはしばらく、何も言わなかった。
それから、手袋に右手を入れた。左手を入れた。指を、一本ずつ曲げて伸ばした。出ている三本の指の先で、外した弦を、軽く弾いた。
澄んだ音がした。
「……あったけえ」
セリナは手袋の手を、膝の上で握ったり開いたりした。恒一のほうは、見なかった。
「いつから」
「昨日。お前が、岩の上で指こすってた」
「見てたのか」
「見てねえふりは、した」
セリナが鼻で笑った。それから、肩を、恒一の肩にぶつけた。
ぶつけたまま、離さなかった。
尻尾の先が、恒一の背中に、ぱたりと一度だけ当たった。
【峠 水城澪】
峠に着いたのは、次の日の昼だった。
崖の下を抜けるあいだ、空には何も飛ばなかった。マルタの隊商の五台の荷馬車は、一台も欠けずに、雪の峠道を登りきった。
峠の上から、向こう側が見えた。
なだらかな谷が、白く広がっていた。谷の底を、凍った川が光りながら曲がっている。その川沿いに、屋根の集まった町があった。煙が、何本も、まっすぐ空に昇っていた。
「あれが、冬の市の町」とマルタが言った。「明日の夕方には着くわ」
護衛たちが、声を上げた。荷馬車の上で、誰かが帽子を投げた。
澪は谷の向こうを見た。
谷の、さらに北。雲の海の上に、ひときわ高い山が、白く突き出していた。
その頂の、少し下。
白い山肌に、一本、黒い筋が走っていた。
雪が、そこだけ、溶けていた。帯のように細長く。その黒い筋の上で、何かが、ゆらゆらと揺れていた。湯気だった。冬の山の上で、地面から湯気が上がっていた。
澪は目を細めた。遠すぎて、それ以上は何も分からなかった。
隣で、恒一が、北を向いていた。鼻が、ひくりと動いた。
「……焦げた匂いがする」
恒一は言った。
「すごく遠い。でも、する」
誰も、すぐには何も言わなかった。
朔が北の山を見ていた。その横顔は、草原で狼騎兵の数を数えていたときと、同じ顔だった。
澪は朔の隣に並んだ。
「朔くん」
「ん」
「冬の市、楽しみにしてるからね。……みんなで、行くんだから」
朔は北の山から目を離して、澪を見た。それから、少しだけ笑った。
「ああ。みんなで」
澪はその言葉を、胸の中で、もう一度くり返した。
言葉にしておけば、それは約束になる。約束なら、守りに行ける。
峠を下る道の先で、冬の市の町の煙が、まっすぐ昇っていた。




