第52話「ワイバーン」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第52話「ワイバーン」
【北の門 小鳥遊莉子】
リーヴェルの北の門の外に、赤い車輪が五つ並んでいた。
幌に描かれた、大きな赤い車輪の印。草原で見たときは三台だった荷馬車が、五台に増えていた。荷台には布の束と、樽と、銅の鍋を詰めた木箱が、雪よけの油布をかぶって積み上げられている。
一番前の荷馬車の御者台から、編んだ栗色の髪の女が飛び降りてきた。
「来た!」
マルタは両手を広げて駆けてきた。それから七人の首もとを見て、足を止めた。
金色の札が、七枚。
「……ねえ。それ」
「このあいだ、上がったの」と莉子は言った。
マルタは、しばらく口を開けていた。それから、腰に手を当てて、門の上の見張り塔を振り仰いだ。
「ギルドの人ね、もっと上のランクの組にしなさいって、何回も言ったのよ。……上になってるじゃない」
護衛たちのあいだから、笑い声が上がった。
その中に見覚えのある顔があった。草原で、肩に矢を受けていた若い護衛だった。男は澪を見つけると、帽子を取って、胸に当てた。肩は、ちゃんと上まで上がっていた。
「マルタさん」
莉子は、荷馬車の一台を指さした。
「あの香草、まだある? 煮込みの」
「あるわよ。袋ごと積んできた」
マルタはにやりと笑った。
「名前、また忘れたんでしょ」
「……三回は、聞いたんだけど」
「四回目は、山の上で教えてあげる」
門の上で、鐘が鳴った。荷馬車の車輪が、凍った轍の上で、きしんで動きだした。
【山の街道 佐伯恒一】
三日目の朝から、道は登りになった。
森が切れて、灰色の岩が増えていく。曲がり道を一つ越えるたびに下の景色が広くなった。来た道が白い草原の中を、細い糸のように延びている。その先に、リーヴェルの屋根が小さく光っていた。
四日目には、雲の中に入った。
道は、崖の中ほどを削った棚になった。右は岩の壁。左は、白い霧の底。荷馬車一台がやっと通れる幅で、ところどころ、車輪の外側に何もなかった。
恒一は隊商の先を歩いていた。
すぐ前の岩の上を、セリナが跳んでいく。尻尾で釣り合いを取りながら、凍った岩から岩へ。ときどき立ち止まって、両手の指をこすり合わせていた。弦を引く指先が、赤くなっている。
恒一はそれを見ないふりをした。見たことは覚えておいた。
昼過ぎ、セリナが岩の上で、ぴたりと止まった。
「……恒一」
顎で上をしゃくる。
壁の高いところの、張り出した岩棚。そこに、山羊が一頭、引っかかっていた。半分なかった。
恒一は、壁に手をかけて、目を凝らした。
岩棚の縁に白い傷が四本。深い。上から、何か大きなものが掴みかかった跡だ。食べ残しの山羊は、凍ってもいなかった。
「昨日の夜か、今朝だな」
それに、鳥が一羽もいなかった。崖の山道なら鴉くらいはいるはずだった。雪の上には小さな足跡ひとつない。
恒一は、隊商の真ん中まで戻った。
「朔」
朔はマルタの荷馬車の横を歩いていた。恒一の顔を見ただけで足を緩めた。
「上に、何かいる。でかい。山羊を、上から掴んで持っていくやつだ」
マルタが、御者台から身を乗り出した。
「……ワイバーン?」
「たぶん」
「嘘。この高さで?」
マルタは手綱を握り直した。
「二十年、この道を通ってるの。ワイバーンなんて、雲の上の崖を飛んでるのを、遠くから二回見ただけ。こんな下まで来たことなんて、一度もない」
朔は雲を見上げた。白いだけで、何も見えなかった。
「荷馬車を、壁の側に寄せてください。間を詰めて。馬の目隠しの布、ありますか」
「あるけど」
「つけておいてください。……念のため」
マルタは、朔の顔を見て、それ以上は訊かなかった。草原のときと同じだった。
【羽音 黒瀬琴音】
最初に聞こえたのは、布を叩くような音だった。
ばさり。間があって、ばさり。
風の音ではなかった。風はもっと細くて、途切れない。これは、重たいものが、空気をつかんで押す音だった。
ひとつ。少し離れて、ふたつ。
琴音は、足を止めた。
「朔」
声が思ったより小さく出た。
「上。三つ。……雲の中、回ってる」
朔が振り向いた。訊き返しはしなかった。
「全員、止まれ。壁に寄れ」
その声が、隊商の後ろまで届くより先に、雲が破れた。
灰色の影が、真上から落ちてきた。
翼を広げると、荷馬車より大きかった。前脚のかわりに翼があって、その先に鉤爪がついている。後ろ脚の爪が、二台目の荷馬車の馬に向かって、まっすぐ伸びていた。長い尾の先で、黒い棘が光った。
伊織が跳んだ。
荷台の縁を蹴って高く。剣が影の腹へ伸びる。
届かなかった。
影は、伊織の剣の先を、翼のひと打ちでかわした。それだけで、ずっと上にいた。伊織の体は空を切って、荷台の上に落ちた。
「玲奈!」
雷が雲に向かって走った。
当たらなかった。影は、雷が届く前に、もう雲の中へ戻っていた。白い雲の内側が、一瞬だけ明るく光って、それで終わりだった。
恒一とセリナの矢が、二本目の影の腹に当たった。
刺さらなかった。腹の鱗が矢を弾いた。乾いた音がして、矢は霧の底へ落ちていった。
三つ目の影が、横から来た。
狙いは、人だった。荷馬車の陰から馬を押さえていた、若い護衛。肩を治してもらった、あの男だった。
尾が、鞭のようにしなった。
男が短い声を上げて膝をついた。腿に黒い棘が深く刺さっていた。
影は、そのまま雲へ昇っていった。
ばさり。ばさり。三つの羽音が、また頭の上を回りはじめた。
琴音は喉に手を当てた。
剣が届かない。雷が当たらない。矢が刺さらない。草原でも、沼でも、迷宮でも、相手は地面の上にいた。
今度の相手は、地面に下りてこない。
【屋根 朝倉朔】
朔は、空ではなく、道を見た。
崖の壁。凍った棚の道。五台の荷馬車。目隠しをした馬。膝をついた護衛。その腿に、澪がもう手を当てている。
「止める」と澪が言った。「消せない。……莉子」
「毒の元がいる」と莉子の声。「あの尾の棘。ううん、棘だけじゃ足りない。尾の根の、毒の袋」
一頭、下ろさなければならない。
朔は羽音を数えた。三つ。回り方はさっきと同じ。雲の中で回って、真上から一頭ずつ落ちてくる。獲物を掴むときと、尾で刺すときだけ、下りてくる。
なら、下りてくる場所を、こちらで決めればいい。
「莉子。荷馬車の上に、屋根」
莉子は、もう種を握っていた。
「どこまで」
「全部。壁から、道の縁まで。……一か所だけ、空けてくれ。真ん中の、三台目の上」
莉子の手から蔓が噴きだした。岩の壁の割れ目に根を張って、荷馬車の幌の上を道の縁まで編み上がっていく。五台の荷馬車と、馬と、人の上に、緑の屋根が張られた。
三台目の上にだけ、空が残った。
「掴めるのは、あそこだけになる。あそこに、下りてくる」
朔は振り向かずに続けた。
「琴音。下りてきて、翼を一番大きく広げたとき。高い音を」
「どのくらい」
「耳の奥が痛くなるくらい。……あいつらは、羽ばたきの一回一回で、釣り合いを取ってる。そこを、崩してくれ」
琴音が、息を吸う音がした。
「恒一」
恒一は、もう短弓に矢をつがえていた。
「腹は駄目だ。鱗が硬え」
「翼の膜だ。指の骨のあいだの、薄いところ。……翼を広げたときにだけ、見える」
「分かってる」
恒一の隣で、セリナが黙って矢をつがえた。誰に言われたのでもなかった。最初から、そこにいた。
「玲奈。雷は、地面に落ちてからだ」
「了解。……空の上じゃ、当てる前に逃げられる。落ちて動けなければ、外さない」
最後に朔は伊織を見た。
伊織は、剣を抜いていた。ひびの入った剣だった。
「伊織は、受けるな。爪も、尾も、受けない。……落ちてきたやつの、首だけだ」
伊織は口の端を上げた。
「受けない戦い方、ってやつ?」
「ああ」
「じゃ、待ってる」
伊織は、三台目の荷馬車の陰に、しゃがんだ。
【膜 佐伯恒一】
羽音がひとつ、近づいてきた。
ほかの二つより、低い。重い。腹をすかせた音だと、恒一は思った。
雲が割れた。
影は、まっすぐ三台目の上の空へ落ちてきた。蔓の屋根の中で、そこだけが空いている。馬の匂いがする。下りてくるなら、そこしかない。
後ろ脚の爪が蔓の縁を掴んだ。
翼が、大きく広がった。体を止めるために、空気を全部つかむ広げ方だった。
その瞬間、琴音の声が、鳴った。
歌ではなかった。笛でもなかった。細くて、高くて、硬い音。恒一の耳の奥に、針を刺されたような痛みが走った。
影の首が、がくりと傾いた。
右の翼が、一拍だけ、羽ばたきを忘れた。体が左へ傾く。それを戻そうとして、両方の翼が、もう一度、いっぱいに開いた。
雲の明かりが、翼の膜を透かした。
指の骨のあいだの、薄い皮。血の筋が、葉脈みたいに見えた。
恒一は、息を止めた。
隣で、セリナの息も止まった。
二本の矢が、同時に放たれた。
一本は、右の翼の、一番長い骨の付け根の膜に。もう一本は、その指ひとつ分、外側に。膜が、二つの穴のあいだで、ばりっと裂けた。
裂け目に、風が入った。
影は、もう一度羽ばたいた。裂けた膜が、空気をつかまなかった。体が、横倒しのまま、道の上へ落ちた。
凍った石が、割れる音がした。
尾が、跳ね上がった。黒い棘が、一番近くの人間を探して振り回される。
伊織は、そこにいなかった。
尾が通り過ぎたあとの、ちょうど空いた場所に、もう立っていた。尾を受けもしないし、払いもしない。棘が鼻先をかすめる距離で、半歩だけ、ずれていた。
起き上がろうとした首が、伊織の前に来た。
剣が、横から入った。
ひびのある根もとではなく、刃の先の三分の一で。首の、鱗の継ぎ目に。
「玲奈!」
雷が、落ちた。
今度は、逃げなかった。濡れた岩と、凍った道と、地面についた大きな体。全部をつないで、白い光が走った。
影は、二度、痙攣して、動かなくなった。
上で、二つの羽音が、甲高く鳴いた。一つの羽音は、左右で長さが揃っていなかった。仲間が落ちたとき、上を回っていた一頭の翼の端に、セリナが続けて射た一本が残っていた。
二つの羽音は、雲の上へ昇っていった。遠ざかって、聞こえなくなった。
恒一は、弓を下ろした。
隣で、セリナが、矢筒の矢を数えていた。指先が、赤かった。
【毒 水城澪】
澪は、護衛の腿から、手を離さなかった。
黒い筋は、膝の上で止まっていた。止まっているだけだった。手のひらから流れていく力が、少しずつ細くなっていく。
「あと、どのくらい?」
声に出してから、自分に訊いたのだと気づいた。
「もうできる」
莉子が、鍋を抱えて走ってきた。
倒れたワイバーンの尾の根を、恒一が山刀で開いていた。莉子はそこから、灰色の小さな袋を取り出して、鍋の上で潰した。種を三つ、手のひらで芽吹かせる。根を落とす。混ぜる。
迷宮の回廊で、一度やったことだった。今度は、皿を並べて試さなかった。
「回廊の根で、いけた。……二回目だから、早いよ」
鍋の中身が、濁った緑から、琥珀色に変わっていった。
莉子が、木の匙で、護衛の口に流しこんだ。
黒い筋の先が、膝の上で、薄くなった。少しずつ、色が引いていく。澪は、そこで初めて、手から力を抜いた。
護衛が、目を開けた。
澪の顔を見て、それから、自分の脚を見た。
「……また、ですね」
「また、だね」
澪は、笑った。
「次は、肩でも脚でもないところにして。……目の届くところにいてくれれば、何回でも止めるから」
マルタが、荷馬車の陰から出てきた。倒れたワイバーンを見て、裂けた翼を見て、立ち上がった護衛を見た。
それから黙って、御者台の下から大きな鍋を引っぱり出した。
「今夜は、ここで煮る」
マルタは、言った。
「香草、ありったけ入れるわよ」
焚き火の支度を手伝いながら、澪は、朔の背中を目で追っていた。朔は、倒れたワイバーンの横にしゃがんで、恒一と何か話している。
その隣に琴音が立っていた。朔の肩のすぐ後ろで、何も言わずに。耳が朔のほうを向いていた。
澪は、ゆっくり息を吐いた。
あとで、言葉で言えばいい。私は、そういうふうにしか、伝えられないのだから。
【雲の上 白川玲奈】
ワイバーンの腹は、薄かった。
恒一が山刀の背で、鱗の上から押した。骨の形が、そのまま分かった。
「食ってねえ」
恒一は言った。
「腹の中、空っぽだ。山羊を半分残してたのは、腹がいっぱいだったからじゃねえ。……持っていこうとして、重くて、落としたんだ」
玲奈は、手帳を開いた。
ワイバーン、三頭。雲の中の高さ。山羊。痩せている。
それから、マルタの言葉。二十年、この高さで見たことはない。
玲奈は、そこでペンを止めた。オーガも、痩せていた。迷宮の魔物の足跡は、上を向いていた。
並べれば、何かの形に見える。でも、並べたのは、玲奈だった。
「痩せている、と書く」
玲奈は、声に出して言った。
「なぜ、とは書かない。まだ」
隣で、恒一が鼻を鳴らした。笑ったのだと、玲奈には分かった。
日が傾くと、風が変わった。
雲が、下から、ゆっくりと剥がれていった。崖の上のほうが、少しずつ見えてくる。灰色の岩。その上に、また岩。どこまでも上へ続く、切り立った壁。
そのずっと上で、夕日が、岩の肌を赤く染めていた。
雲の上の崖だった。
岩の肌に、黒い穴が、いくつも開いていた。
琴音が、焚き火のそばで、顔を上げた。
「……あそこ」
琴音は、崖の上を見たまま言った。
「さっきの二つ、帰ってる。……それと、もっといる。小さい声も。たくさん」
マルタが、煮込みの鍋をかき混ぜる手を止めた。
「峠に出る道はね、あの崖の下を通るの」
マルタは、崖を見上げた。
「ほかに、道はない。雪が深くなったら、春まで、通れない」
誰も、すぐには答えなかった。焚き火が、ぱちりとはぜた。
朔が、立ち上がった。
「なら、上に行きます」
伊織が、剣の柄に手を置いた。恒一が、矢筒の矢を数えはじめた。莉子が、袋の種を、手のひらの上で転がした。
玲奈は、手帳の新しい頁を開いた。
一行目に、こう書いた。
雲の上の崖。巣。




