第51話「金の札」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第51話「金の札」
【角 佐伯恒一】
石段を上りきったところで、恒一は背負い袋を担ぎ直した。
袋の口から黒い角の先がのぞいていた。外套の切れ端で巻いてある。長すぎて巻ききれなかった。
迷路を出る前に、穴の縁で切り取ってきたものだ。根もとに山刀を当てて、何度も挽いた。オーガの骨より、ずっと硬かった。
伊織が「代わる」と言った。恒一は首を振った。ひびの入った剣で、骨を挽かせるわけにはいかない。
「持って帰らないと、誰も信じない」と言いだしたのは、エーベルだった。「僕の記録だけでは、学者の作り話で終わる」
柱の広間を抜ける。倒れた二体のオーガは、そのままだった。
恒一は石段を一段ずつ見ながら上った。下りてきたときに見た爪の跡がまだ残っている。どれも、上を向いていた。
新しい跡は、ひとつもなかった。
「エーベル」
恒一は振り返らずに言った。
「下りてきたときから、足跡が増えてねえ」
後ろで、本を開く音がした。
「……一日で、分かることではないよ」
「分かってる。増えてねえ、ってだけだ」
玲奈のペンの音が、エーベルの声に重なった。
「増えていない、と書いておく。止まった、とは書かない」
恒一は、口の端で笑った。この二人は、同じところで止まる。
すぐ後ろを、セリナが歩いていた。恒一の足跡の上を、一歩もずれずに踏んでくる。来るときと同じだった。
背中の角が歩くたびに肩に当たった。
重い。でも、この重さは、悪くなかった。
【光る石 小鳥遊莉子】
回廊の入口の石段の下に、小さな焚き火が見えた。
最初に立ち上がったのは、ネルだった。弓を下ろして、それから、口を両手で押さえた。
カイが石段を駆け上がってきた。途中で一度つまずいて、それでも止まらなかった。
ブルーノは、焚き火のそばに座ったまま、片手を上げた。
「……生きてたか」
「待ってるって、言ってたでしょ」と莉子は言った。
ブルーノの脚の黒い筋は、すっかり消えていた。もう、自分の脚で立てる顔色だった。
恒一が背負い袋を下ろして外套の切れ端をほどいた。
焚き火の明かりに、黒い角が現れた。
誰も、すぐには口をきかなかった。
「……ミノタウロス」
カイの声が、裏返った。
「本当に、いたんだ」とネルがつぶやいた。
ブルーノは、角に手を伸ばしかけて、止めた。それから、ゆっくり触れた。指先で、根もとの切り口をなぞる。
「二十年、潜ってる」
ブルーノは言った。
「こんな角は、話でしか聞いたことがねえ」
莉子は腰の袋を探った。
指に、冷たくてすべすべしたものが当たった。取り出して、ブルーノの手のひらにのせる。
白い石のかけらだった。親指の先くらいの大きさ。迷路の白い道が抜けたとき、穴の縁に転がっていたものだ。何百年も踏まれて磨かれた石は、焚き火の明かりを受けて、ぼうっと光って見えた。
「光る石」と莉子は言った。「本物の光る石かは、分からないけど。……光ってるでしょ」
ブルーノは、手のひらの石を見下ろした。
「……ルカに、か」
「うん」
ブルーノは石を握った。太い指が震えていた。
「あいつ、父ちゃんが拾ったって言わねえと、信じねえぞ」
「本当のことを言って」
莉子は笑った。
「三層で一日半がんばって、帰りに、友だちから石をもらったって」
ブルーノは、喉の奥で笑った。それから、石を木の熊の人形と一緒に、腰の袋にしまった。袋の口を、二回確かめた。
伊織が「背負おうか」と言った。
「いらねえ」とブルーノは言った。「帰りは、自分の脚で帰る」
二層の小部屋で、エーベルのロバが待っていた。置いていかれたことに文句を言うみたいに、長く鼻を鳴らした。
【外の空 朝倉朔】
一層の骨の広間は静かだった。
崩れた骨の兵が、来たときのまま、床に散らばっている。起き上がってくるものは、一体もいなかった。
石段の上に、白い光の四角が見えた。
アーチをくぐると冷たい風が顔に当たった。
空が、白かった。細かい雪が、音もなく降っていた。灰色の岩の丘も、天幕の屋根も、うっすらと白い。北の山並みは、雪の向こうに隠れて見えなかった。
莉子が空を見上げて、手のひらを出した。雪が、ひとつ、溶けた。
「冬だ」
野営地の焚き火のまわりで冒険者たちが顔を上げた。
最初に気づいたのは、盾の割れていた男だった。入った日に、石段を駆け上がってきたBの組の頭だ。盾は、新しいものに替わっていた。
男は、九人を見た。後ろから上がってくる、ブルーノの組を見た。それから、恒一の背負い袋からのぞく、黒い角を見た。
男はゆっくり立ち上がった。
「……何層まで、行った」
「地図のあるところまで」と朔は言った。
男は、しばらく朔の顔を眺めていた。それから、自分の首の銀の札に、無意識みたいに触れた。
「入るときは、やめとけって言ったな」
「聞きました」
「……撤回する」
ギルドの見張り小屋から、係の男が帳面を抱えて出てきた。七人の名前と、入った日と、出てきた日を書きつける。恒一が角を見せると、係の男の羽根ペンが止まった。
「リーヴェルには、先に早馬を出しておきます」
係の男は角から目を離さずに言った。
「でないと、受付の子に、なんで先に知らせなかったって怒られる」
松明売りの男が、荷車の陰から、ぽかんと口を開けてこっちを眺めていた。
澪が、ブルーノの組の顔色を、ひとりずつ確かめていた。
朔は雪の降る空を見上げた。
九人と、三人。迷宮に入った人数と、出てきた人数が、合っている。
全員で、出てこられた。でも、分からないことは、入る前と同じだけ残っていた。
ただ、分からないことの書いてある帳面は、厚くなった。
【足音 黒瀬琴音】
帰り道の二日目の夜、琴音は眠れなかった。
天幕の外で雪が降る音がした。ほとんど音のない音。積もった雪に、新しい雪が重なっていく、かすかな音だった。
焚き火のそばで、朔が見張りをしていた。
琴音は、毛布を肩にかけて、朔の隣に座った。
朔は何も訊かなかった。薪を一本、火に足しただけだった。
しばらく、火のはぜる音を聞いていた。
「あれ」
琴音は言った。
「最後まで、私の足音のほう、向いてた」
ミノタウロスの、濁った赤い目。伊織の刃が首を断ったあと、最後に動いた目。琴音の作った、もう鳴っていない足音を、まだ聞いていた。
オーガのときもそうだった。小さいほうは、鳴らない合図を最後まで待っていた。
二回とも、琴音が騙した。
「……ああ」と朔は言った。
それだけだった。いいとも、悪いとも言わなかった。
琴音は、それでよかった。
「忘れない」
琴音は、膝を抱えた。
「あの息の音。止めたときの、静かな音。……覚えておく。私が、鳴らしたほうだから」
朔は火を見たまま、小さく頷いた。
琴音は朔の肩に、少しだけ寄りかかった。耳を当てるほどではなかった。肩と肩が触れるくらい。
雪は朝まで降り続いた。
【金の札 白川玲奈】
リーヴェルの白い漆喰の壁に雪がよく似合っていた。
街灯の石が、昼間なのに、ぼんやりと灯っている。噴水のまわりで子どもたちが、薄く積もった雪を集めて小さな山を作っていた。
ギルドの扉を開けると広間の話し声が止まった。
三度目の止まり方だった。
最初の日は、値踏みする止まり方だった。Cの札を受け取った日は、驚く止まり方だった。
今日は、待っていた止まり方だった。早馬はちゃんと着いていた。
広間の真ん中の長テーブルで、ガロが立ち上がった。ジョッキを持ったまま恒一の背負い袋の角を見て、口笛を吹いた。
受付の台の向こうで、栗色の髪の娘が、もう台の上を片づけて待っていた。
恒一が角を台にのせた。
広間が、ざわっと揺れた。後ろのほうの冒険者たちが、椅子の上に立って、首を伸ばした。
エーベルが本を開いて、台の横に置いた。
「迷宮の記録です。三百年前の地図と、今の迷宮の違い。出た魔物の数と、場所。足跡の向き」
エーベルは娘の目を見て言った。
「それと、分からないことの一覧。……分からないことのほうが、長い」
娘は、本の頁をめくって、目を丸くした。几帳面な字がびっしり並んでいた。ところどころ、手が震えたような字が混じっていた。
ブルーノが前に出た。
「Cのブルーノだ。俺の組は、三層の罠の円で、一日半、足止めを食った」
ブルーノは広間全体に聞こえる声で言った。
「こいつらは、その罠を、半日で解いた。毒も抜いた。宝箱に化けた魔物から、うちの若いのを引っぱり出した。……それで、帰りに拾うって言って、本当に拾いに来た」
カイが、耳まで赤くなってうつむいた。ネルがその背中を叩いた。
娘は、台の下から、小さな木の箱を取り出した。
蓋を開けると、金色の札が七枚並んでいた。表に、Aと刻んである。
「ふだんは、ひとつずつしか上げられません」
娘の声が少し震えていた。
「でも、Cから上は、証と証言がそろったときだけ、一度に上げられます。角と、エーベルさんの記録と、ブルーノさんの証言。……今日は、三つともそろっています」
娘は、小さく息を吐いた。
「……Aまで、ですけど」
七人は、首の銅の札を外して、金色の札を下げた。
ガロがジョッキを掲げた。
「おい。俺と同じ色かよ」
「嫌なら、上げるけど」と伊織が言った。
「上げろ上げろ。そのほうが、俺の組の箔がつく」
広間が、どっと沸いた。
娘は、朔の外套の胸のあたりに、ちらりと目をやった。それから、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「……もうひとつ上は、まだ、ポケットの中ですね」
朔は答えなかった。ただ、外套の胸を軽く叩いた。
騒ぎから少し離れたところで、エーベルが本を閉じた。
「古文書館に戻って、今日の記録を清書する」
エーベルは玲奈を見た。
「三百年前の地図は、あの迷路で終わっていた。その先があるのかどうかも、まだ分からない」
「分からないことが多いうちは、また行く価値がある」と玲奈は言った。
「……僕も、そう思う」
エーベルは少し間を置いた。
「君の手帳の写しを、もらえるか。足跡の向きの頁だけでいい」
「全部あげる」
玲奈は、手帳を閉じたまま言った。
「そのかわり、あなたの人口で割った表、もう一回、見せて」
エーベルが真顔でうなずいた。研究者の顔だった。玲奈も、たぶん同じ顔をしていた。
【手紙 神崎伊織】
樫の木亭の二階の部屋で、伊織は、ランプの下に剣を置いた。
刃の根もとから、斜めに走るひび。迷路で、ほんの少し伸びた。伸びた分は爪の先ほどだった。
伊織は指の腹でひびをなぞった。
扉が開いて朔が入ってきた。手に封をした紙を持っていた。
朔は、剣を見た。それから、伊織の顔を見た。
「伸びたな」
「……知ってたの」
「恒一の背中が、そう言ってた」
伊織は鼻で笑った。
「あいつ、隠すの下手すぎ」
剣を鞘に戻す。ことり、と小さな音がした。
伊織は立ち上がって、朔の前まで行った。それから、何も言わずに、朔の肩に額を押しつけた。
朔の手が、伊織の背中に回った。
「まだ、もつよ」
伊織は額を押しつけたまま言った。
「受けなきゃ、もつ。……でも、あと何回かは、分かんない」
「分かった」
朔の声が額の骨に響いた。
「受けない戦い方を、組む」
伊織は、顔を上げなかった。そのかわり、朔の外套の胸をつかんだ。中の黒い札の硬さが、指に当たった。
しばらくして、伊織は額を離した。耳が熱かった。ごまかすように、朔の手の紙を指さした。
「それ、何」
「下で、受付の子から預かった。今日、届いたそうだ」
朔が封を切った。
伊織は朔の肩越しにのぞきこんだ。
丸っこい、大きな字だった。
『通りすがりのみなさんへ。
マルタです。煮込みの。
雪が深くなる前に、山の街道を越えて、隊商を出します。山の向こうの町の、冬の市に間に合わせたいの。
護衛を、みなさんにお願いしたい。名指しで。
ギルドの人には、もっと上のランクの組にしたほうがいいって言われたけど、断りました。うちの商隊を助けてくれたのは、あなたたちだから。
煮込みは、たっぷり持っていきます』
伊織は吹き出した。
「煮込みの、って」
朔も少し笑っていた。
窓の外で、雪がまだ降っていた。北の空は、雲で白く塞がれていた。その向こうに、山がある。
伊織は、鞘の上から、剣の柄を握った。濡れた手で選んだ柄だった。
「行こ」
伊織は言った。
「マルタさんの煮込み、また食べたいし」




