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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
50/71

第50話「ミノタウロス」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第50話「ミノタウロス」


【息 朝倉朔】


琴音は、床に手を当てたまま動かなかった。


朔も動かなかった。肩に澪の頭の重さがある。寝息は深いままだった。


「……吸った」


琴音が、ほとんど声にならない声で言った。


「また、息してる。ゆっくり。……向こうへ、離れていく」


広間の空気が、少しゆるんだ。誰かが長く息を吐いた。エーベルだった。


朔は、倒れた二体のオーガを見た。


灰色の皮膚の下に、あばら骨が浮いている。恒一が言ったとおり、二体とも痩せていた。食べるものがなくなって、上へ逃げてきた体だった。


二体を倒した。それで、上にいるブルーノの組は守れた。


でも、それだけだった。


骨の兵も、大蜘蛛も、このオーガも、みんな下から上へ逃げてきた。そして、迷宮の外でも、北から魔物が下りてきている。ガロが最初に言っていたことは、何ひとつ片づいていない。


「朔」


玲奈が、手帳を閉じた。


「エーベルさんの記録の地図は、あと一枚。この広間の奥から先の一枚が、最後」


エーベルが、本を胸に抱えなおした。


「三年前から、何が起きているのか。……見に来たのは、それだった」


朔は、肩の上の寝息を聞いた。


「澪が起きたら、下りる」


誰も反対しなかった。琴音だけが、床から手を離さないまま言った。


「あれ、こっちが来るのを、待ってると思う」


「なら、待たせておけ」と朔は言った。「こっちの準備ができてからだ」


【迷路 白川玲奈】


柱の広間の奥に、低いアーチがあった。


くぐった先は、壁だった。


正確には、壁と壁のあいだの、細い道だった。人の背丈の三倍ほどの石の壁が、右へ、左へ、折れながら続いている。天井は見えないほど高い。苔の光が、壁の上のほうで、星みたいに散っていた。


迷路だ。


玲奈は、エーベルの本の最後の一枚を開いた。


三百年前の地図には、細かい線が、びっしりと描きこまれていた。描いた人は、ここを何日も歩いたのだろう。線の途中に、小さな字の書きこみがある。行き止まり。ここも行き止まり。水。


「地図は、だいたい合ってる」


玲奈は、角を三つ曲がったところで言った。


「崩れて通れなくなったところが、二つ。……それと、ひとつ、地図にないものがある」


床だった。


道の真ん中だけが、まわりの石より、白っぽく光っていた。磨かれている。何かが、長いあいだ、同じところを何度も何度も踏んで歩いた跡だった。


恒一がしゃがんで、その白い道に指を当てた。


「蹄だ」


低い声だった。


「二つに割れた蹄。……でかい。オーガの足より、でかい」


白い道は、迷路の奥へ続いていた。曲がり角では、壁ぎりぎりのところで大きく弧を描いている。速く走ったまま、曲がった跡だ。


玲奈は、手帳に写しはじめた。地図の線の上に、白い道を重ねて描いていく。


分かっていること。ここには、蹄のある大きなものがいる。決まった道を、何度も走っている。


分からないこと。それが、どうして上へ逃げなかったのか。


玲奈は、そこまで書いて、ペンを止めた。


琴音が、すぐ後ろで立ち止まっていた。


「……止まった」


琴音は言った。


「さっきまで、奥で息してた。今、また止めた」


玲奈は顔を上げた。


「どこで?」


琴音は答えなかった。目を閉じて、壁のほうへ顔を向けている。


それから、目を開けた。


「分かんない。……息をしてないと、どこにいるのか、聞こえない」


【角 神崎伊織】


伊織は、一番後ろを歩いていた。


前から順に、恒一、セリナ、朔、玲奈、エーベル、莉子、琴音、澪。それから、伊織。


さっきから、背中がざわざわした。


何もいない。振り返っても、通ってきた道があるだけだ。苔の光。白い道。足音は、自分たちのものだけ。


それなのに、誰かに見られている気がした。


「琴音」と伊織は声を落とした。「後ろ、何かいる?」


「……聞こえない」


琴音の声が、少し震えていた。


「なんにも聞こえないの。それが、変。さっきまでいた虫の音も、水の音も、聞こえない。……まわりが、みんな、息を止めてるみたい」


そのときだった。


すぐ後ろで、ふうっ、と、大きな息の音がした。


伊織は振り返った。


角の向こうから、それが、ゆっくりと姿を見せた。


牛の頭だった。


黒い毛に覆われた、大きな牡牛の頭。そこから、左右に二本の角が、ぐるりと前へ反り返っている。その下に、人の形の体。でも、人ではない。オーガより、まだ大きい。肩の筋肉が、岩を積んだように盛り上がっている。脚は膝から下が獣の脚で、先に、二つに割れた蹄があった。


手には、両側に刃のついた、大きな斧。


ミノタウロスだった。


伊織の背中を、冷たいものが走った。


足音が、しなかった。あんな体で、あんな蹄で、すぐ後ろまで来ていたのに。


ミノタウロスは、すぐには動かなかった。


大きな鼻の穴が、ひくひくと動いた。耳が、こちらへ向いた。濁った赤い目は、伊織を見ていなかった。伊織の、もっと後ろ。九人の足音のするほうを、聞いていた。


「……伊織。ゆっくり、こっちへ」と朔の声がした。


伊織は、一歩、下がった。


その足音を、ミノタウロスの耳が拾った。


次の瞬間、角が目の前にあった。


速い。


オーガとは、比べものにならない。白い道の上を、蹄が叩いた。一度だけ。その一度で、距離が消えた。


伊織は横へ跳んだ。


跳んだつもりだった。角はかわした。でも、そのあとから来た肩が、伊織の体ごとはね飛ばした。


当たる直前に、胸と背中へ熱を集めた。壁が、背中にぶつかった。息が、全部出ていった。


「伊織!」


澪の声。走ってくる足音。


ミノタウロスが、斧を振り上げた。


恒一とセリナの矢が、その肩に当たる。刺さらない。玲奈の雷が、胸を打つ。毛が焦げて、煙が上がる。ミノタウロスは、首を振っただけだった。


莉子の蔓が、床から噴き上がった。ミノタウロスの脚に巻きつく。


蔓は、一歩でちぎれた。


でも、その一歩のあいだに、朔が伊織の体をつかんで、角の陰へ引きずりこんでいた。


澪の手が、伊織の胸に当たった。光。あばらの上に広がりかけていた青い色が、引いていく。


「折れてない」と澪は言った。息が、上がっていた。「……でも、熱で固めてなかったら、折れてた。伊織、次にあれを受けたら、固めても、もたない」


「受けてない。かすっただけ」


「かすっただけで、これ」


伊織は、言い返せなかった。


角の向こうで、ミノタウロスが、斧を引きずる音がした。


それから、その音も、止まった。


息の音も、止まった。


迷路が、また、しんと静かになった。


【作り変え 小鳥遊莉子】


行き止まりの小部屋に、九人で身を寄せていた。


入口は一つ。その入口を、莉子の根が、何重にもふさいでいる。


根は、きしんでいなかった。外には、何もいなかった。少なくとも、莉子にはそう思えた。


琴音が、ふさいだ根に耳を押し当てていた。


「……いる。三つ向こうの角。息を、止めてる」


誰も、しばらく口をきかなかった。


最初に言ったのは、琴音だった。


「あれ、耳で狩ってる」


琴音は、自分の耳に指を当てた。


「目は、あんまり使ってない。伊織が一歩下がった音で、来た。こっちが音を立てないと、動かない。息を止めて、聞いてる。……ずっと下から、こっちを聞いてたのも、それ」


次に、玲奈が手帳を開いた。


「あれは、白い道しか走らない」


玲奈は、地図の上に描いた白い線を、指でなぞった。


「さっきも、白い道の上で一歩踏んで、来た。曲がり角は、壁ぎりぎりで大きく曲がる。速すぎて、小さく曲がれないんだと思う。……それに、白い道は、全部つながってる。一本の、長い輪」


恒一が、玲奈の手帳をのぞきこんだ。そして、輪のひとつの角を指さした。


「ここ。長いまっすぐのあとの角だ。一番速いまま、曲がるところ。……さっき通ったとき、ここの床だけ、音が軽かった。下が、空いてる」


「落とせる?」と朔。


「床の石を一枚、割れば。あの重さなら、勝手に抜ける」


莉子は、自分の手のひらを見た。


「床の石なら、根で割れる。でも、そこまで行って根を通すあいだに、あれに聞かれる」


「足音を消せばいい」と澪が言った。


莉子は、はっとした。


「苔。……壁の苔を、床に増やせる。苔の上なら、足音が、ほとんどしない」


朔が、全員の顔を見た。


「白い道は、あれの道だ。……それを、こっちの道にする」


朔は、玲奈の手帳の地図を、指で叩いた。


「莉子。白い道の分かれ目を、根で閉じる。輪を、恒一の角へ行く一本にする。それと、俺たちの逃げ道を一本、開けてくれ」


「壁の薄いところなら、開けられる」


「恒一は、角の床の石を見ておけ。莉子が根を通す場所を、決めろ」


「おう」


「伊織」


伊織が、顔を上げた。


「落ちたあれに、とどめを。一太刀だ。……受けるな。上から行け」


伊織は、腰の剣に手を当てた。ひびの入った剣だった。


「一太刀なら、もつ」


それから、朔は、琴音を見た。


「あれを、恒一の角まで連れてくる。……琴音。足音を、作れるか」


琴音は、すぐには答えなかった。目を閉じて、迷路のどこかの音を聞いていた。


オーガの広間で、大きいほうの唸りを真似た。あの声ひとつで、小さいほうは走り出した。走った先に何が待っているかも、知らないまま。


それから、目を開けた。


「みんなの足音、覚えてる。朔は、まっすぐで重い。伊織は、軽くて、ときどき跳ねる。恒一は、かかとから。……それを、壁に当てて鳴らせば、別の通路から聞こえる。この迷路、音が、よく跳ね返るから」


「できるか」


「できる」


セリナに、割り振りはなかった。恒一の矢筒の矢を数えて、自分の矢を何本か足した。


莉子は、ふさいだ根に手を当てた。


根の向こうで、迷路はまだ、息を止めていた。


【足音 黒瀬琴音】


苔は、指の幅ほどの厚さで、床を覆っていた。


その上を、八人が歩いていく。足音は、ほとんどしなかった。布を踏むような、かすかな音だけ。


琴音は、苔の道の外れに一人で立っていた。


白い道が、目の前を横切っている。


ミノタウロスは、まだ三つ向こうの角にいた。息を止めたまま。琴音には聞こえない。でも、分かった。迷路じゅうの小さな音が、そこだけ、ぽっかりと抜けていた。


莉子の根が、遠くで石をこする音がした。分かれ目が、一つずつ閉じていく。


それから、どこかの薄い壁が、ぱきりと割れる音。新しい抜け道が一本、開いた。こっちの逃げ道だ。


恒一の角で、床の石に根が入っていく音。細い、細い、ひびの音。


まだ。まだ、聞かれちゃいけない。


琴音は、壁に向かって、喉を鳴らした。


とん。とん。


まっすぐで、重い足音。朔の足音。


壁が、その音を跳ね返した。右の壁から、左の壁へ。角を二つ越えて、音は、恒一の角とは反対の通路から聞こえた。


迷路の奥で、大きな息の音がした。


吸った。


蹄が、白い道を叩いた。


来る。偽の朔の足音のほうへ。


琴音は、すぐに次の音を作った。とん、とととん。軽くて、ときどき跳ねる。伊織の足音。今度は、別の壁に当てる。音は、もう一つ向こうの通路へ飛んだ。


蹄の音が、向きを変えた。


琴音は、歌うときと同じように、息を配った。音の高さ。強さ。どの壁に、どの角度で当てれば、どこから聞こえるか。この迷路を歩きながら、ずっと聞いていた。


かかとから着く、恒一の足音。小さくて速い、莉子の足音。ゆっくりな、エーベルの足音。


偽の足音が、迷路じゅうに散らばっていく。


ミノタウロスは、白い道の上を走った。こっちの角。あっちの角。でも、どこへ行っても、誰もいない。そのたびに、蹄が止まる。息が止まる。聞く。


聞いて、また走る。


そして、走るたびに、莉子が閉じた分かれ目に阻まれて、輪の一本へ押しこまれていく。


迷路が、変わっていく。あれの迷路から、こっちの迷路へ。


蹄の音が、長いまっすぐに入った。


恒一の角へ続く、最後のまっすぐだ。


琴音は、息を吸った。


最後の足音は、決めてあった。


軽くて、ときどき跳ねる足音。恒一の角の、すぐ向こうから。


とん、とととん。


ミノタウロスが、吼えた。


初めて聞く、あれの声だった。地の底から湧いてくるような、低い声。


蹄が、白い道を叩いた。速い。一番速い。


角の向こうで、伊織の足音が鳴っている。本物の伊織は、角の壁の高いところに、莉子の根で作った足場の上で、身を伏せている。


まっすぐの終わり。角。


ミノタウロスは、壁ぎりぎりで、大きく曲がろうとした。


その蹄が、恒一の選んだ石を踏んだ。


ばきん、と、乾いた音がした。


床が、抜けた。


【一太刀 佐伯恒一】


ミノタウロスの体が、胸まで床に沈んだ。


抜けた石の下は、深い穴だった。ミノタウロスは、両腕を穴の縁にかけて、体を支えた。下半身は、穴の中で宙に浮いている。蹄が、何もない闇を蹴っていた。


莉子の根が、その腕に絡みついた。何本も。何十本も。


ミノタウロスが、吼えた。片腕で、根を引きちぎる。斧を持ったほうの腕が、穴の縁から振り上がった。


「目!」と恒一は叫んだ。


恒一の矢と、セリナの矢が、並んで飛んだ。


二本とも、ミノタウロスの右目の横に突き立った。刺さりはしない。でも、ミノタウロスは、斧を持った腕で顔をかばった。


首が、むき出しになった。


伊織が、壁の上の足場から跳んだ。


剣は、もう抜かれていた。


落ちていく伊織の体と、剣の刃が、一本の線になった。


伊織は、受けなかった。叩きつけもしなかった。上から、ただ、まっすぐに。体の重さを全部、刃の一点に乗せて。


一太刀。


剣が、牛の首の太い筋を、断った。


刃の根もとで、細い、高い音が鳴った。恒一の耳にも、はっきり聞こえた。


ミノタウロスの腕から、力が抜けた。斧が、穴の縁から滑り落ちて、闇の底へ消えた。ずいぶんたってから、遠くで、石に当たる音がした。


大きな体が、穴の縁に、ぐったりと顎をのせた。


濁った赤い目が、最後に動いた。


伊織ではなかった。迷路の奥の、琴音のいるほうへ。


もう鳴っていない足音を、まだ、聞いているみたいだった。


それから、目は動かなくなった。


伊織は、穴の縁に膝をついていた。


剣を、目の前にかざした。


恒一は、伊織の指が刃の根もとをなぞるのを見た。


伊織の指が、止まった。


ひびが、ほんの少し、伸びていた。


伊織は、何も言わなかった。剣を、そっと鞘に戻した。


恒一も、何も言わなかった。言わないでくれ、という背中だった。


すぐ後ろで、セリナが、ほんの小さく息を吐いた。恒一の肩に、セリナの肩が、一瞬だけ触れた。


【肩 水城澪】


迷路は、本当に静かになった。


さっきまでの、息を止めたような静けさとは違った。何もいない、ただの静けさだった。


エーベルが、穴の縁に座りこんで、本に書いていた。今度は、手が震えていなかった。


「ミノタウロス」


エーベルは、その名前を、一文字ずつ書いた。それから、顔を上げた。


「これで、魔物は上へ逃げてこなくなるのだろうか」


玲奈は、すぐには答えなかった。手帳を開いて、自分の書いた行を、上から読み直していた。


「分からない」


玲奈は言った。


「分かったのは、ここにミノタウロスがいたことだけ。オーガも、骨の兵も、大蜘蛛も、これから逃げていたのかどうかは、まだ分からない。……北のことは、もっと分からない」


エーベルは、玲奈の言ったとおりに、書いた。分からない、と。


「それでいい」と玲奈は言った。


帰りの支度のあいだ、澪は壁にもたれて、みんなを見ていた。


伊織は、剣の柄に手を置いたまま、莉子の干した果物を、また二つ食べていた。恒一は、矢を拾い集めていた。セリナが、恒一の拾い損ねた一本を、黙って渡していた。


朔は、迷路の入口のほうを見ていた。帰り道のことを考えている顔だった。


琴音が、朔の隣に、そっと座った。


澪と、目が合った。


琴音は、少し困ったような顔をした。


澪は、笑ってしまった。


「聞こえてた。半分、起きてたから。……次は、琴音の番、でしょ」


澪は、言葉にした。言葉にすると、胸の奥で、何かがすっと落ち着いた。


琴音の耳が、赤くなった。それから、琴音は、朔の肩に、そっと頭をのせた。眠るためではなかった。耳を、当てるためだった。


朔は、動かなかった。


しばらくして、琴音が、ほとんど聞こえない声で言った。


「……速い」


朔が、天井を見上げた。


「さっきまで、戦ってたからだ」


「ううん」


琴音は、目を閉じたまま言った。


「戦ってたときより、今のほうが、速い」


朔は、何も答えなかった。


伊織が、果物を喉に詰まらせて、むせた。


莉子が、伊織の背中をとんとんと叩いた。


澪は、また笑った。


上では、ブルーノの組が待っている。帰りに、拾っていく。それが済んだら、迷宮の外の空の下へ。


それでも、何かが片づいた気はしなかった。


迷路を出るとき、澪は一度だけ振り返った。


白い道が、闇の奥へ続いていた。あの大きな体が、何度も何度も走った道。


迷宮の魔物が、なぜ上へ逃げてくるのか。北から、なぜ魔物が下りてくるのか。答えは、まだ一つも出ていない。


澪は前を向いて、みんなのあとを追った。

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