↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
48/57

第48話「罠の回廊」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第48話「罠の回廊」


【三層 佐伯恒一】


三層へ下りる石段は、二層の野営の部屋からすぐのところにあった。


エーベルのロバは、ゆうべ泊まった小部屋につないできた。罠の多い回廊には連れていけない、と恒一が言ったからだ。ロバは、置いていかれるのが分かったように、不満そうに鼻を鳴らしていた。


石段の下は、まっすぐな回廊だった。


幅は人が四人並んで歩けるくらい。天井は高く、壁は継ぎ目も見えないほど滑らかな石で、光る苔がところどころに薄く張りついている。回廊は苔の光が届かない奥まで、ずっと続いていた。


エーベルが本を開いた。


「三百年前の記録だと、三層は『回廊』と呼ばれていた。……そのあとに一行だけ書いてある」


エーベルは指でその行をなぞった。


「『罠多し。戻らぬ者、多し』」


伊織が肩をすくめた。


「書いた人は戻ってきたんでしょ」


「戻ってきた人が書いたから、『多し』で済んでいるんだ」


恒一はもう、回廊の床にしゃがみこんでいた。


床の石は、どれも同じ大きさの四角できれいに並んでいる。そのうちの一枚だけ、まわりとの隙間に埃がたまっていなかった。


「ここ、踏むな」


恒一は腰の袋から小石を出して、その石の真ん中に置いた。目印だった。


五歩先。壁の膝の高さに、指が一本入るくらいの穴が並んでいる。穴の縁だけ苔が生えていない。


「ここから何か飛ぶ。かがんで通れ」


さらに十歩先。天井から垂れた細い鎖が、床すれすれに張られた糸につながっていた。糸は苔と同じ色に染めてあった。


「またげ」


恒一は、立ち止まらずに進んだ。しゃがんで、指でなぞって、小石を置いて、また歩く。後ろのみんなは、小石をよけて、恒一が歩いたところだけを歩いた。


エーベルが、本と回廊を何度も見比べていた。


「……記録には、この回廊の罠が十一書いてある。君はもう、そのうちの九つを見つけた」


「十二だ」と恒一は言った。「記録にねえのが、三つある」


エーベルは急いで本に書きこんだ。


恒一は振り返らなかった。でも、背中で分かっていた。


すぐ後ろの足音が、自分の足音と、ぴったり重なっている。


セリナだった。最後尾にいたはずなのに、罠が増えてきたあたりから、いつのまにか恒一の真後ろにいる。恒一が足を置いた石に、そのまま自分の足を置いて歩いていた。疑いもしないで。


恒一は、歩幅を少し縮めた。


後ろでセリナが鼻を鳴らした。


「……縮めなくても、届く」


「知ってる」


恒一はそれ以上は言わずに、次の石の前でしゃがんだ。


その指が、宙で迷った。


回廊の壁に、線が刻まれていた。


細い溝が何本も、壁を這うように走っている。溝の奥が、青白くかすかに光っていた。苔の緑とは違う光だった。線は、ところどころで枝分かれしては合わさって、回廊の奥へ続いていた。


埃の乱れもない。石の継ぎ目もない。仕掛けの穴も、糸も、鎖もない。


「……これは、跡がねえ」


恒一は立ち上がって、振り返った。


「仕掛けなら俺が見つける。でも、これは仕掛けじゃねえ。俺には読めねえ」


玲奈が、恒一の横に来て、壁の線に顔を近づけた。


【声 黒瀬琴音】


壁の線は鳴っていた。


琴音にしか聞こえない、細い音だった。弦をずっと弓で引き続けているような、高くも低くもない一本の長い音。


「この線、ずっと同じ音で鳴ってる」


琴音が言うと、玲奈が手帳を開いた。


「音が変わったら教えて」


琴音は頷きかけて、ふと、顔を上げた。


回廊の奥から、別の音がした。


人の声だった。かすれた男の声。


「……誰か、いるのか」


全員が足を止めた。


「前。右に曲がった先」と琴音は言った。「三人。心臓が三つ。ひとつ、すごく遅い」


恒一が、罠をよけながら足を速めた。


回廊は、少し先で右に折れて、丸い部屋に出た。


天井の高い部屋だった。回廊は部屋を横切って、反対側へまた続いている。右の壁ぎわにくぼみがあって、その奥に古びた木の箱がひとつ置いてあった。鉄の帯で縁を巻いた、宝箱だった。


くぼみの手前の床には、大きな円が刻まれていた。


壁の線と同じ、青白く光る溝の円だった。


その円の中に、三人の冒険者が立っていた。


首に、銅の札。Cだった。


がっしりした髭の男が、斧を杖にして片膝をついていた。左の腿に布がきつく巻いてあって、その上の肌に、黒っぽい筋が何本も浮いている。そばに短弓を背負った女。それに、まだ二十にもならないくらいの若い剣士。


「来るな」


髭の男が、かすれた声で言った。


「円に入るな。……それと、俺たちも出られねえ」


若い剣士が上を見た。


琴音も、つられて見上げた。


円の真上だけ、天井が低かった。


石の天井が、四角く切り取られたように、そこだけ下がってきている。その裏側に、鉄の杭が、びっしりと並んで下を向いていた。


「足を一本、円から出しただけで、あれが下がった」と短弓の女が言った。「二回やって、二回とも。……一日半、ここに立ってる」


琴音は、円に耳を澄ました。


壁の線と同じ、長い音。でも、少しだけ高い。


それと、もうひとつ。


琴音は、くぼみの奥の宝箱へ、耳を向けた。


とくん。とくん。


低い、間のあいた音。箱の中から聞こえていた。


琴音は、朔の袖を引いた。


「……あの箱。心臓の音がする」


朔は、箱を一度だけ見て、小さく言った。


「今は言わなくていい」


【毒 水城澪】


「その足、針?」


澪は、円の縁から十歩ほど手前で、膝をついた。それ以上は近づけなかった。


「壁から飛んできた」と髭の男。「円に入ったとたんだ。抜いて捨てたら、円の外に転がっていった」


男の腿の黒い筋は、布の上まで伸びていた。数えられるくらいの細い筋が、腰のほうへ、じわじわと這い上がっている。


澪は、男の体を目で読んだ。顔色。唇の色。汗の出方。呼吸の浅さ。


「名前、教えてもらっていい?」


「……ブルーノ」


「ブルーノさん。私は澪。今から、そこまで手を届かせるから、驚かないで」


澪は、両手を前に出した。


円の中には入らない。でも、届く。


手のひらから、淡い光が、細い糸のようにブルーノの脚へ伸びた。


澪は、治そうとはしなかった。


治しても、毒が残っていれば、また壊される。今やるのは、止めることだった。腿から上へ流れていく血を遅くする。毒が心臓に届くのを、遅らせる。


「脚が冷たくなる。痺れるけど、我慢して」


「……冷てえ」


「うん。それでいいの」


黒い筋の先が、腰の手前で、止まった。


止まっただけだった。消えはしない。


澪のこめかみに、汗がにじんだ。血の流れを遅くするのは、速くするよりずっと難しい。手を離したら、すぐ元に戻ってしまう。


「莉子」


澪は、ブルーノから目を離さずに言った。


「毒、消せる? 私は止めることはできるけど、消すことはできない」


後ろで、鍋が床に置かれる音がした。


「消す」と莉子が言った。「そのために来たんだから」


【鍋 小鳥遊莉子】


「針がほしいの。毒のついたやつ」


莉子がそう言ったときには、恒一がもう、円の外の床に這いつくばっていた。


「捨てた針は、あれか」


円の縁から三歩のところに、細い針が一本、転がっていた。


「それと、もう一本」


恒一は、円を挟んで反対側の壁へ歩いた。腰ほどの高さの石の継ぎ目に、同じ針が、もう一本刺さっていた。


「飛んできたのは二本だ。一本は外れて、ここに刺さってる。……こっちのほうが、毒がまだ乾いてねえ」


恒一は布で包んで針を抜き、莉子に渡した。


莉子は、鍋の蓋を裏返して床に置き、その上に小さなブリキの皿を三枚並べた。


一枚目に、光る苔を絞った汁。二枚目に、北の街道で摘んだ野草を揉んだ汁。三枚目には、腰の袋から出した種をひとつ、手のひらの上で芽吹かせた。芽はすぐに白い根を伸ばした。その根を潰して汁を落とす。


それから、針の先を、一枚ずつ浸した。


一枚目の皿が、すうっと濁った。


二枚目の皿が、縁から黒くなった。


三枚目の皿は、何も変わらなかった。


「これ」


莉子は三枚目の皿を持ち上げた。


「この根が、毒に負けてない。……あとは濃くするだけ」


鍋に水を張って、根を何本も育てては潰して落とす。手のひらに小さな火を灯して、鍋の底を温める。木のへらで、ゆっくり混ぜる。


最初は、泥のような濁った緑だった。


莉子は混ぜながら、自分の魔力を、ほんの少し鍋に落とした。根がまだ土の中で生きていたときの力を、思い出させるように。


濁りが、底から晴れていった。


鍋の中が、蜂蜜を水で溶いたような澄んだ琥珀色になった。


「……もうちょっと」


鍋の向こうで、ブルーノが、荒い息をつきながら笑った。


「いい匂いだな。……飯か」


「薬。でも、飯だと思って飲んでいいよ」


ブルーノは、片膝をついたまま、腰の袋に手をやった。袋の口から、小さな木の人形が、顔を出していた。手のひらに乗るくらいの、不格好な熊の人形だった。


「せがれのだ」とブルーノは言った。「父ちゃんを守ってくれるから持ってけって、無理やり持たされた」


莉子は、へらを動かす手を止めずに訊いた。


「いくつ?」


「六つ。ルカっていう」


ブルーノは、人形を見下ろした。


「迷宮から、光る石を持って帰ってきてくれって。そんなものがあるのかも知らねえのに、あるって決めてやがる。父ちゃんは強いから、いちばん奥まで行けるんだって」


ブルーノは、喉の奥で笑った。


「いちばん奥どころか。三層で一日半、突っ立ってる」


莉子は鍋をかき混ぜた。


琥珀色の中に、苔の光が映りこんで、ちらちら揺れていた。


小さな手のことを、思い出した。


ぎゅっと握られた指の感触。あの子は待っている。いまも、どこかで。


莉子は、その手のことを胸の奥にしまって、へらを置いた。


「できた」


小瓶に、琥珀色の薬を注いで、栓をした。


「円の中に、物を投げても平気?」


莉子が訊くと、琴音が手を上げた。


「試す」


恒一が、小石をひとつ、円の中へ放った。


小石がブルーノの足もとで、ころんと跳ねた。


全員が、天井を見上げた。


天井は動かなかった。


「音、変わらない」と琴音が言った。「軽いものは数えてない」


莉子が小瓶を構えると、横から、手が伸びてきた。


セリナだった。


「貸せ。……届かせる」


莉子は小瓶を渡した。


セリナは、ほとんど狙いもつけずに、手首だけでふわりと放った。


小瓶は、ゆるい弧を描いて、若い剣士の胸の前にすとんと落ちてきた。剣士が慌てて両手で受け止める。


「……割れねえように落ちてきた」と剣士がつぶやいた。


「そういう投げ方をした」とセリナ。


ブルーノは、小瓶を一息に飲んだ。


やがて、腿の黒い筋の先が薄くなりはじめた。腰のほうから、膝のほうへ。少しずつ引いていく。


澪が、長い息を吐いて、手を下ろした。


ブルーノが莉子を見た。


「……あんたら、何なんだ。Cの組だって?」


莉子は笑った。


「ルカくんには、お父さんは三層で一日半がんばった、って言っていいと思う」


【式 白川玲奈】


毒は抜けた。


でも、三人は、まだ円の中にいた。


玲奈は円の縁を歩いていた。円に触れないように、半歩外を。床に顔を近づけて、溝の光を目で追う。


エーベルが、本を抱えて、すぐ後ろをついてきた。


「記録に、この円の絵がある」


黄ばんだ羊皮紙に、円と、壁を這う線の絵が描いてあった。その下に細かい字が何行か。


「『円の間。踏めば光り、離れれば天井が来る』。……それから、『大きな線を断て』」


「大きな線?」


エーベルは、部屋の左の壁を指さした。


円から、太い溝が一本、壁を這い上がっていた。いちばん太くて、いちばん明るい線。それが、壁の高いところの、大きな目のような模様につながっている。


「あれを断てば罠は止まる、と書いてある。……でも」


エーベルは、次の行を指さした。


「この人の記録は、そこで終わっているんだ。次の行からは、別の人の字になる」


玲奈は太い線と、その先の目の模様を眺めた。


それから首を横に振った。


「琴音。あの太い線、音はどこまで続いてる?」


琴音が、太い線の溝に耳を近づけて、目を閉じた。


「……目の模様のところで途切れてる。その先に行ってない」


「行き止まり」


「うん。鳴ってるけど、どこにも行ってない」


玲奈は手帳を開いた。


円から出ている線を、一本ずつ書いていく。太い線。それと、もう一本。


もう一本は細かった。光もほとんど見えないくらい弱い。床の縁に沿って、石の割れ目に隠れるように這い、部屋の右の柱の裏へ回りこんでいた。柱の裏から天井へ。杭の並んだ四角い石の、すぐ脇へ。


「こっちの細いほうは」


琴音が、柱の裏に回って耳を当てた。


「……上まで行ってる。天井まで。円と同じ高さの音」


玲奈は、手帳に、二本の線を並べて書いた。


太いほう。明るい。目立つ。どこにも行っていない。


細いほう。暗い。隠れている。天井まで行っている。


「太いのは、見せるための線」と玲奈は言った。「断たせるために目立たせてある。……たぶん、断ったら天井が来る」


エーベルが、本の最後の行を見下ろした。


「この人の記録が、ここで終わっている理由か」


「書いた人は、そこまでしか分からなかっただけ」


玲奈は、細い線を見た。


「円は、上に乗っている重さを覚えてる。小石くらいじゃ音は変わらない。でも、人ひとり分の重さが減ると、この細い線に光が走って天井まで届く。届いたら天井が下がる。……光が届かなければ、天井はたぶん動かない」


「断つのか、その細いほうを」とエーベル。


「断たない。断つのも合図になるかもしれないから」


玲奈は、自分の手のひらを見た。指先に、冷気が白く集まりはじめていた。


「止める。溝の途中を凍らせて、光が氷のところで止まるようにする」


円の中で、若い剣士が、ごくりと唾を飲んだ。


玲奈は、朔を振り返った。


「分かってるのは、細いほうが天井につながってること。太いほうが行き止まりなこと。円が人の重さを数えてること。……分からないのは、凍らせて光が本当に止まるか。止まっても、どのくらいもつか」


「どのくらい自信がある」


「八割」


朔は迷わなかった。


「残りの二割の段取りは、こっちで持つ」


朔は振り返って、短く言った。


「莉子、天井。伊織と恒一、円の縁。澪、すぐ後ろ」


莉子が、円のまわりの床に両手をついた。石の割れ目から太い根が何本も伸びあがり、柱を伝って、天井の四角い石の下へ、格子のように張りつめた。下りてきたら、一瞬でも受け止めるために。


伊織と恒一が、円の縁の、三人にいちばん近いところに膝をついた。手を伸ばせば届く距離。


澪が、その後ろについた。


セリナは何も言われなかった。何も言わずに、恒一の真後ろに立った。


玲奈は柱の裏に回って、細い溝に両手の指先を当てた。


冷気を流した。


溝の中が白く凍った。指一本分の長さ。二本分。三本分。氷が、細い栓のように、溝の中に詰まっていく。


「琴音」


「……音が、氷のところで止まってる。その先は静か」


玲奈は息を整えた。


「一人ずつ。ゆっくり」


最初に、短弓の女が、円の外へ足を出した。


その瞬間、細い溝に光が走った。


円から床の割れ目へ、柱の裏へ。光が、溝の中を、ものすごい速さで駆け上がってくる。


玲奈の指先の、氷のところで。


光が止まった。


止まった光が、氷の手前でぎゅっと固まって、まぶしく瞬いた。


天井は動かなかった。


伊織が、短弓の女の腕をつかんで、円の外へ引き寄せた。


「次」


若い剣士がブルーノに肩を貸して、二人で一歩ずつ動いた。ブルーノの脚は、まだ痺れていた。


二人分の重さが、円から減っていく。光がまた駆け上がってきて、氷の手前で止まる。さっきより明るく瞬く。


氷が、みしりと鳴った。


「玲奈」と琴音が言った。


「分かってる」


玲奈は、指先に、もっと冷気を流しこんだ。手の甲まで白く霜が降りた。


氷のこちら側で、光が、押してくる。凍らせても凍らせても、氷の奥に細い亀裂が走る。


若い剣士とブルーノが、あと一歩のところでもつれた。


恒一が、剣士の襟首をつかんで引っぱった。伊織が、ブルーノの太い腕を両手でつかんで、自分の肩の上へ引きずり上げた。


最後の足が、円から離れた。


氷が割れた。


光が天井まで駆け抜けた。


天井の四角い石が落ちてきた。


莉子の根の格子が、一瞬だけ、それを受け止めた。根がきしんで、ちぎれる音。その一瞬のあいだに、伊織は、ブルーノを背負ったまま、後ろへ転がった。


轟音がした。


鉄の杭が、円の中の床に、隙間なく突き刺さった。石の破片と土埃が、部屋いっぱいに舞い上がった。


土埃が晴れていった。


円の上には、天井の石がずっしりと載っていた。その下から、鉄の杭の先が、何十本も覗いていた。


円の外に、三人ともいた。


ブルーノは、伊織の背中の上で、目を見開いていた。


伊織が首だけ振り返った。


「重い。……生きてる?」


「……生きてる」


短弓の女は、床に座りこんだまま、天井の石と玲奈を、交互に見ていた。


「一日半。……一日半、誰もどうにもできなかったのに」


玲奈は、霜で真っ白になった自分の手を見下ろしていた。指がまだ少し震えていた。


エーベルが、玲奈の隣にしゃがみこんだ。


本を開いて、円の絵の下の、途切れた行の横に、羽根ペンで一行書き足した。


それから、黙って、その頁を玲奈に見せた。


『大きな線は、見せるための線。断つな。細い線を凍らせて止めよ。――玲奈』


玲奈は、その字を見つめた。


「……私の名前、書いた」


「見つけた人の名前を残すのが、記録だ」


エーベルは本を閉じた。それから、少し間を置いて、付け足した。


「三百年後に、誰かがこれを読んで、戻ってこられるように」


【宝箱 神崎伊織】


伊織がブルーノを床に下ろすと、若い剣士がふらふらと立ち上がった。


剣士の目は、天井の石の、向こうを見ていた。


くぼみの奥。宝箱は無事だった。落ちてきた天井の、ほんのわずか奥で、何事もなかったようにちょこんと置かれている。


「……あれのせいなんだ」


剣士の名前はカイといった。


「あの箱が見えて。中身、きっとすごいものだと思って。俺が真っ先に円に入った」


カイは、拳を握りしめた。


「ブルーノさんが針を食らったのも、ネルが一日半立ちっぱなしだったのも、全部、俺が」


「カイ」とブルーノが言った。「その話は地上でやれ」


カイは、唇を噛んで、宝箱を睨んだ。


「せめて、中身くらい……」


カイが天井の石の脇を回りこんで、くぼみのほうへ足を踏み出した。


琴音が、その前に、すっと立った。


「やめたほうがいい」


「なんで」


琴音は、宝箱を指さした。


「あれ、生きてる」


カイがぽかんと口を開けた。


恒一が、宝箱の蓋のあたりを眺めて、鼻を鳴らした。


「蓋が浮いてる。腹、減らしてるな。……箱に化けるやつは、腹が減ると我慢がきかなくなる」


恒一は腰の袋から干し肉をひと切れ出して、くぼみのほうへぽいと放った。


干し肉が、宝箱の前に落ちた。


宝箱の蓋が、ぱかりと開いた。


中には、金貨も宝石もなかった。


あったのは、歯だった。蓋の縁と箱の縁に、ぎざぎざの白い歯が、上下にずらりと並んでいた。その奥から紫色の長い舌がしゅるりと伸びて、干し肉を巻き取った。


蓋が、ばくん、と閉じた。


もぐもぐと、箱が動いた。


カイの顔から、血の気が引いた。


伊織は、両の拳をそっと握った。熱が、指の付け根に集まりかける。


あれなら二発。いや、一発でいける。


「伊織」と朔が言った。


「分かってる」


伊織は拳を開いて、熱を逃がした。


「今日は、戦わない日でしょ」


「そういう日だ」


宝箱は、干し肉を食べ終えると、箱の底から短い脚を何本も出して、くぼみのさらに奥の暗がりへ、ごそごそと歩いていった。


それきり出てこなかった。


カイは、宝箱が消えた暗がりを、長いこと見つめていた。


それから、伊織たちを振り返った。


「……知ってたのか。最初から」


「最初から」と琴音。


「なんで言わなかったんだ」


「言ってたら」と伊織は言った。「あんた、天井の下でもっと暴れてたでしょ」


カイは何か言い返そうとして、やめた。


短弓の女、ネルが、座りこんだまま笑い出した。最初は小さく、それからこらえきれないみたいに肩を震わせて。一日半ぶりに笑ったのかもしれなかった。


ブルーノも、つられて笑った。笑いながら、腰の袋の木の熊を、ぽんと叩いた。


「ルカには、この話もしてやらなきゃな。父ちゃんの組の若いのが、箱に食われかけたって」


「食われかけてない」とカイ。


「食われかけた」と伊織とネルが同時に言った。


【足音 朝倉朔】


ブルーノの組は、回廊の入口まで戻って、そこで待つことになった。


恒一が置いてきた小石の目印を、逆にたどれば、罠は踏まない。伊織が、ブルーノを入口の石段の下まで背負っていって、戻ってきた。


四日前に入ったのだと、ブルーノは言った。入口の広間の骨の兵が、まだ五、六体だったころだ。


「帰りに、拾っていく」と朔は言った。


ブルーノは、壁に背中を預けて座ったまま、朔を見上げた。


「……あんたが頭か」


「段取り係です」


ブルーノは、朔の顔を、じっと眺めた。


それから、首を振った。


「俺は二十年、迷宮に潜ってる。罠を見つけるやつも、毒を消すやつも見たことはある。……でも、一度に全部やるやつらは、初めて見た」


ブルーノは目を閉じた。


「帰りに拾ってくれ。それまで、死なないで待ってる」


回廊の奥へ、もう一度、歩き出した。


円の間を越えると、罠はぐっと減った。恒一が、ときどきしゃがんで小石を置く。セリナが、その後ろを、恒一の足跡どおりに歩く。


朔は、少し後ろを歩く澪の足音が、いつもより遅いことに気づいていた。


振り返ると、澪は、壁に片手をついていた。


「澪」


「大丈夫」


澪はそう言いかけて、言葉を止めた。


それから、朔の顔を見て、言い直した。


「……大丈夫じゃない、って言ってもいい?」


朔は足を止めた。


「血を遅くするの、すごく疲れるの。治すより、ずっと。……今、ちょっと脚に力が入らない」


澪は、自分の言ったことに、自分で少し驚いたような顔をした。


「疲れた、ってちゃんと言ったの、たぶん初めて」


朔は、澪の隣に並んで、腕を差し出した。


澪は、その腕に、自分の手をそっと掛けた。


「次の休みまで」と澪が言った。


「次の休みまで」と朔も言った。


前を歩いていた伊織が、ちらりと振り返って、何も言わずに前を向いた。琴音が、伊織の背中を、指先でつんとつついた。


回廊が終わった。


突き当たりに、下へ降りる幅の広い石段があった。四層への石段だった。三百年前の地図にも同じ場所に描いてある、とエーベルが言った。


石段の上で、恒一が、しゃがみこんだ。


一番上の段に、足跡があった。


裸足の、人の足の形をしていた。指が五本。かかと。土踏まず。


ただ、大きさが違った。


恒一が、自分の足を、その横に並べた。恒一の足が、三つ入りそうだった。


「……人の形をしてる。でかさが三倍だ」


恒一は、跡の深さを指で測った。


「重さは、三倍じゃきかねえ」


琴音が、石段の脇の石壁に、耳を当てていた。


「歩いてる。下で。……二つ」


ゆうべ、二層の床の下から聞こえた、少しずれた拍の、二つの足音。


「昨日より近い」


もっと下の、あの静かな息の音は聞こえるか。朔が訊くと、琴音は首を横に振った。


「今は、こっちの二つが大きくて、その下まで聞こえない」


どん。


朔の足の裏にも、それが届いた。


どん。どん。


石段の奥の闇から、重い足音が上がってきた。少しずれた拍で、二つ。


そして、石段のどこか下のほうで、止まった。


静かになった。


琴音が、耳を石から離さずに、ささやいた。


「……止まった。上を、向いてる」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。