第48話「罠の回廊」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第48話「罠の回廊」
【三層 佐伯恒一】
三層へ下りる石段は、二層の野営の部屋からすぐのところにあった。
エーベルのロバは、ゆうべ泊まった小部屋につないできた。罠の多い回廊には連れていけない、と恒一が言ったからだ。ロバは、置いていかれるのが分かったように、不満そうに鼻を鳴らしていた。
石段の下は、まっすぐな回廊だった。
幅は人が四人並んで歩けるくらい。天井は高く、壁は継ぎ目も見えないほど滑らかな石で、光る苔がところどころに薄く張りついている。回廊は苔の光が届かない奥まで、ずっと続いていた。
エーベルが本を開いた。
「三百年前の記録だと、三層は『回廊』と呼ばれていた。……そのあとに一行だけ書いてある」
エーベルは指でその行をなぞった。
「『罠多し。戻らぬ者、多し』」
伊織が肩をすくめた。
「書いた人は戻ってきたんでしょ」
「戻ってきた人が書いたから、『多し』で済んでいるんだ」
恒一はもう、回廊の床にしゃがみこんでいた。
床の石は、どれも同じ大きさの四角できれいに並んでいる。そのうちの一枚だけ、まわりとの隙間に埃がたまっていなかった。
「ここ、踏むな」
恒一は腰の袋から小石を出して、その石の真ん中に置いた。目印だった。
五歩先。壁の膝の高さに、指が一本入るくらいの穴が並んでいる。穴の縁だけ苔が生えていない。
「ここから何か飛ぶ。かがんで通れ」
さらに十歩先。天井から垂れた細い鎖が、床すれすれに張られた糸につながっていた。糸は苔と同じ色に染めてあった。
「またげ」
恒一は、立ち止まらずに進んだ。しゃがんで、指でなぞって、小石を置いて、また歩く。後ろのみんなは、小石をよけて、恒一が歩いたところだけを歩いた。
エーベルが、本と回廊を何度も見比べていた。
「……記録には、この回廊の罠が十一書いてある。君はもう、そのうちの九つを見つけた」
「十二だ」と恒一は言った。「記録にねえのが、三つある」
エーベルは急いで本に書きこんだ。
恒一は振り返らなかった。でも、背中で分かっていた。
すぐ後ろの足音が、自分の足音と、ぴったり重なっている。
セリナだった。最後尾にいたはずなのに、罠が増えてきたあたりから、いつのまにか恒一の真後ろにいる。恒一が足を置いた石に、そのまま自分の足を置いて歩いていた。疑いもしないで。
恒一は、歩幅を少し縮めた。
後ろでセリナが鼻を鳴らした。
「……縮めなくても、届く」
「知ってる」
恒一はそれ以上は言わずに、次の石の前でしゃがんだ。
その指が、宙で迷った。
回廊の壁に、線が刻まれていた。
細い溝が何本も、壁を這うように走っている。溝の奥が、青白くかすかに光っていた。苔の緑とは違う光だった。線は、ところどころで枝分かれしては合わさって、回廊の奥へ続いていた。
埃の乱れもない。石の継ぎ目もない。仕掛けの穴も、糸も、鎖もない。
「……これは、跡がねえ」
恒一は立ち上がって、振り返った。
「仕掛けなら俺が見つける。でも、これは仕掛けじゃねえ。俺には読めねえ」
玲奈が、恒一の横に来て、壁の線に顔を近づけた。
【声 黒瀬琴音】
壁の線は鳴っていた。
琴音にしか聞こえない、細い音だった。弦をずっと弓で引き続けているような、高くも低くもない一本の長い音。
「この線、ずっと同じ音で鳴ってる」
琴音が言うと、玲奈が手帳を開いた。
「音が変わったら教えて」
琴音は頷きかけて、ふと、顔を上げた。
回廊の奥から、別の音がした。
人の声だった。かすれた男の声。
「……誰か、いるのか」
全員が足を止めた。
「前。右に曲がった先」と琴音は言った。「三人。心臓が三つ。ひとつ、すごく遅い」
恒一が、罠をよけながら足を速めた。
回廊は、少し先で右に折れて、丸い部屋に出た。
天井の高い部屋だった。回廊は部屋を横切って、反対側へまた続いている。右の壁ぎわにくぼみがあって、その奥に古びた木の箱がひとつ置いてあった。鉄の帯で縁を巻いた、宝箱だった。
くぼみの手前の床には、大きな円が刻まれていた。
壁の線と同じ、青白く光る溝の円だった。
その円の中に、三人の冒険者が立っていた。
首に、銅の札。Cだった。
がっしりした髭の男が、斧を杖にして片膝をついていた。左の腿に布がきつく巻いてあって、その上の肌に、黒っぽい筋が何本も浮いている。そばに短弓を背負った女。それに、まだ二十にもならないくらいの若い剣士。
「来るな」
髭の男が、かすれた声で言った。
「円に入るな。……それと、俺たちも出られねえ」
若い剣士が上を見た。
琴音も、つられて見上げた。
円の真上だけ、天井が低かった。
石の天井が、四角く切り取られたように、そこだけ下がってきている。その裏側に、鉄の杭が、びっしりと並んで下を向いていた。
「足を一本、円から出しただけで、あれが下がった」と短弓の女が言った。「二回やって、二回とも。……一日半、ここに立ってる」
琴音は、円に耳を澄ました。
壁の線と同じ、長い音。でも、少しだけ高い。
それと、もうひとつ。
琴音は、くぼみの奥の宝箱へ、耳を向けた。
とくん。とくん。
低い、間のあいた音。箱の中から聞こえていた。
琴音は、朔の袖を引いた。
「……あの箱。心臓の音がする」
朔は、箱を一度だけ見て、小さく言った。
「今は言わなくていい」
【毒 水城澪】
「その足、針?」
澪は、円の縁から十歩ほど手前で、膝をついた。それ以上は近づけなかった。
「壁から飛んできた」と髭の男。「円に入ったとたんだ。抜いて捨てたら、円の外に転がっていった」
男の腿の黒い筋は、布の上まで伸びていた。数えられるくらいの細い筋が、腰のほうへ、じわじわと這い上がっている。
澪は、男の体を目で読んだ。顔色。唇の色。汗の出方。呼吸の浅さ。
「名前、教えてもらっていい?」
「……ブルーノ」
「ブルーノさん。私は澪。今から、そこまで手を届かせるから、驚かないで」
澪は、両手を前に出した。
円の中には入らない。でも、届く。
手のひらから、淡い光が、細い糸のようにブルーノの脚へ伸びた。
澪は、治そうとはしなかった。
治しても、毒が残っていれば、また壊される。今やるのは、止めることだった。腿から上へ流れていく血を遅くする。毒が心臓に届くのを、遅らせる。
「脚が冷たくなる。痺れるけど、我慢して」
「……冷てえ」
「うん。それでいいの」
黒い筋の先が、腰の手前で、止まった。
止まっただけだった。消えはしない。
澪のこめかみに、汗がにじんだ。血の流れを遅くするのは、速くするよりずっと難しい。手を離したら、すぐ元に戻ってしまう。
「莉子」
澪は、ブルーノから目を離さずに言った。
「毒、消せる? 私は止めることはできるけど、消すことはできない」
後ろで、鍋が床に置かれる音がした。
「消す」と莉子が言った。「そのために来たんだから」
【鍋 小鳥遊莉子】
「針がほしいの。毒のついたやつ」
莉子がそう言ったときには、恒一がもう、円の外の床に這いつくばっていた。
「捨てた針は、あれか」
円の縁から三歩のところに、細い針が一本、転がっていた。
「それと、もう一本」
恒一は、円を挟んで反対側の壁へ歩いた。腰ほどの高さの石の継ぎ目に、同じ針が、もう一本刺さっていた。
「飛んできたのは二本だ。一本は外れて、ここに刺さってる。……こっちのほうが、毒がまだ乾いてねえ」
恒一は布で包んで針を抜き、莉子に渡した。
莉子は、鍋の蓋を裏返して床に置き、その上に小さなブリキの皿を三枚並べた。
一枚目に、光る苔を絞った汁。二枚目に、北の街道で摘んだ野草を揉んだ汁。三枚目には、腰の袋から出した種をひとつ、手のひらの上で芽吹かせた。芽はすぐに白い根を伸ばした。その根を潰して汁を落とす。
それから、針の先を、一枚ずつ浸した。
一枚目の皿が、すうっと濁った。
二枚目の皿が、縁から黒くなった。
三枚目の皿は、何も変わらなかった。
「これ」
莉子は三枚目の皿を持ち上げた。
「この根が、毒に負けてない。……あとは濃くするだけ」
鍋に水を張って、根を何本も育てては潰して落とす。手のひらに小さな火を灯して、鍋の底を温める。木のへらで、ゆっくり混ぜる。
最初は、泥のような濁った緑だった。
莉子は混ぜながら、自分の魔力を、ほんの少し鍋に落とした。根がまだ土の中で生きていたときの力を、思い出させるように。
濁りが、底から晴れていった。
鍋の中が、蜂蜜を水で溶いたような澄んだ琥珀色になった。
「……もうちょっと」
鍋の向こうで、ブルーノが、荒い息をつきながら笑った。
「いい匂いだな。……飯か」
「薬。でも、飯だと思って飲んでいいよ」
ブルーノは、片膝をついたまま、腰の袋に手をやった。袋の口から、小さな木の人形が、顔を出していた。手のひらに乗るくらいの、不格好な熊の人形だった。
「せがれのだ」とブルーノは言った。「父ちゃんを守ってくれるから持ってけって、無理やり持たされた」
莉子は、へらを動かす手を止めずに訊いた。
「いくつ?」
「六つ。ルカっていう」
ブルーノは、人形を見下ろした。
「迷宮から、光る石を持って帰ってきてくれって。そんなものがあるのかも知らねえのに、あるって決めてやがる。父ちゃんは強いから、いちばん奥まで行けるんだって」
ブルーノは、喉の奥で笑った。
「いちばん奥どころか。三層で一日半、突っ立ってる」
莉子は鍋をかき混ぜた。
琥珀色の中に、苔の光が映りこんで、ちらちら揺れていた。
小さな手のことを、思い出した。
ぎゅっと握られた指の感触。あの子は待っている。いまも、どこかで。
莉子は、その手のことを胸の奥にしまって、へらを置いた。
「できた」
小瓶に、琥珀色の薬を注いで、栓をした。
「円の中に、物を投げても平気?」
莉子が訊くと、琴音が手を上げた。
「試す」
恒一が、小石をひとつ、円の中へ放った。
小石がブルーノの足もとで、ころんと跳ねた。
全員が、天井を見上げた。
天井は動かなかった。
「音、変わらない」と琴音が言った。「軽いものは数えてない」
莉子が小瓶を構えると、横から、手が伸びてきた。
セリナだった。
「貸せ。……届かせる」
莉子は小瓶を渡した。
セリナは、ほとんど狙いもつけずに、手首だけでふわりと放った。
小瓶は、ゆるい弧を描いて、若い剣士の胸の前にすとんと落ちてきた。剣士が慌てて両手で受け止める。
「……割れねえように落ちてきた」と剣士がつぶやいた。
「そういう投げ方をした」とセリナ。
ブルーノは、小瓶を一息に飲んだ。
やがて、腿の黒い筋の先が薄くなりはじめた。腰のほうから、膝のほうへ。少しずつ引いていく。
澪が、長い息を吐いて、手を下ろした。
ブルーノが莉子を見た。
「……あんたら、何なんだ。Cの組だって?」
莉子は笑った。
「ルカくんには、お父さんは三層で一日半がんばった、って言っていいと思う」
【式 白川玲奈】
毒は抜けた。
でも、三人は、まだ円の中にいた。
玲奈は円の縁を歩いていた。円に触れないように、半歩外を。床に顔を近づけて、溝の光を目で追う。
エーベルが、本を抱えて、すぐ後ろをついてきた。
「記録に、この円の絵がある」
黄ばんだ羊皮紙に、円と、壁を這う線の絵が描いてあった。その下に細かい字が何行か。
「『円の間。踏めば光り、離れれば天井が来る』。……それから、『大きな線を断て』」
「大きな線?」
エーベルは、部屋の左の壁を指さした。
円から、太い溝が一本、壁を這い上がっていた。いちばん太くて、いちばん明るい線。それが、壁の高いところの、大きな目のような模様につながっている。
「あれを断てば罠は止まる、と書いてある。……でも」
エーベルは、次の行を指さした。
「この人の記録は、そこで終わっているんだ。次の行からは、別の人の字になる」
玲奈は太い線と、その先の目の模様を眺めた。
それから首を横に振った。
「琴音。あの太い線、音はどこまで続いてる?」
琴音が、太い線の溝に耳を近づけて、目を閉じた。
「……目の模様のところで途切れてる。その先に行ってない」
「行き止まり」
「うん。鳴ってるけど、どこにも行ってない」
玲奈は手帳を開いた。
円から出ている線を、一本ずつ書いていく。太い線。それと、もう一本。
もう一本は細かった。光もほとんど見えないくらい弱い。床の縁に沿って、石の割れ目に隠れるように這い、部屋の右の柱の裏へ回りこんでいた。柱の裏から天井へ。杭の並んだ四角い石の、すぐ脇へ。
「こっちの細いほうは」
琴音が、柱の裏に回って耳を当てた。
「……上まで行ってる。天井まで。円と同じ高さの音」
玲奈は、手帳に、二本の線を並べて書いた。
太いほう。明るい。目立つ。どこにも行っていない。
細いほう。暗い。隠れている。天井まで行っている。
「太いのは、見せるための線」と玲奈は言った。「断たせるために目立たせてある。……たぶん、断ったら天井が来る」
エーベルが、本の最後の行を見下ろした。
「この人の記録が、ここで終わっている理由か」
「書いた人は、そこまでしか分からなかっただけ」
玲奈は、細い線を見た。
「円は、上に乗っている重さを覚えてる。小石くらいじゃ音は変わらない。でも、人ひとり分の重さが減ると、この細い線に光が走って天井まで届く。届いたら天井が下がる。……光が届かなければ、天井はたぶん動かない」
「断つのか、その細いほうを」とエーベル。
「断たない。断つのも合図になるかもしれないから」
玲奈は、自分の手のひらを見た。指先に、冷気が白く集まりはじめていた。
「止める。溝の途中を凍らせて、光が氷のところで止まるようにする」
円の中で、若い剣士が、ごくりと唾を飲んだ。
玲奈は、朔を振り返った。
「分かってるのは、細いほうが天井につながってること。太いほうが行き止まりなこと。円が人の重さを数えてること。……分からないのは、凍らせて光が本当に止まるか。止まっても、どのくらいもつか」
「どのくらい自信がある」
「八割」
朔は迷わなかった。
「残りの二割の段取りは、こっちで持つ」
朔は振り返って、短く言った。
「莉子、天井。伊織と恒一、円の縁。澪、すぐ後ろ」
莉子が、円のまわりの床に両手をついた。石の割れ目から太い根が何本も伸びあがり、柱を伝って、天井の四角い石の下へ、格子のように張りつめた。下りてきたら、一瞬でも受け止めるために。
伊織と恒一が、円の縁の、三人にいちばん近いところに膝をついた。手を伸ばせば届く距離。
澪が、その後ろについた。
セリナは何も言われなかった。何も言わずに、恒一の真後ろに立った。
玲奈は柱の裏に回って、細い溝に両手の指先を当てた。
冷気を流した。
溝の中が白く凍った。指一本分の長さ。二本分。三本分。氷が、細い栓のように、溝の中に詰まっていく。
「琴音」
「……音が、氷のところで止まってる。その先は静か」
玲奈は息を整えた。
「一人ずつ。ゆっくり」
最初に、短弓の女が、円の外へ足を出した。
その瞬間、細い溝に光が走った。
円から床の割れ目へ、柱の裏へ。光が、溝の中を、ものすごい速さで駆け上がってくる。
玲奈の指先の、氷のところで。
光が止まった。
止まった光が、氷の手前でぎゅっと固まって、まぶしく瞬いた。
天井は動かなかった。
伊織が、短弓の女の腕をつかんで、円の外へ引き寄せた。
「次」
若い剣士がブルーノに肩を貸して、二人で一歩ずつ動いた。ブルーノの脚は、まだ痺れていた。
二人分の重さが、円から減っていく。光がまた駆け上がってきて、氷の手前で止まる。さっきより明るく瞬く。
氷が、みしりと鳴った。
「玲奈」と琴音が言った。
「分かってる」
玲奈は、指先に、もっと冷気を流しこんだ。手の甲まで白く霜が降りた。
氷のこちら側で、光が、押してくる。凍らせても凍らせても、氷の奥に細い亀裂が走る。
若い剣士とブルーノが、あと一歩のところでもつれた。
恒一が、剣士の襟首をつかんで引っぱった。伊織が、ブルーノの太い腕を両手でつかんで、自分の肩の上へ引きずり上げた。
最後の足が、円から離れた。
氷が割れた。
光が天井まで駆け抜けた。
天井の四角い石が落ちてきた。
莉子の根の格子が、一瞬だけ、それを受け止めた。根がきしんで、ちぎれる音。その一瞬のあいだに、伊織は、ブルーノを背負ったまま、後ろへ転がった。
轟音がした。
鉄の杭が、円の中の床に、隙間なく突き刺さった。石の破片と土埃が、部屋いっぱいに舞い上がった。
土埃が晴れていった。
円の上には、天井の石がずっしりと載っていた。その下から、鉄の杭の先が、何十本も覗いていた。
円の外に、三人ともいた。
ブルーノは、伊織の背中の上で、目を見開いていた。
伊織が首だけ振り返った。
「重い。……生きてる?」
「……生きてる」
短弓の女は、床に座りこんだまま、天井の石と玲奈を、交互に見ていた。
「一日半。……一日半、誰もどうにもできなかったのに」
玲奈は、霜で真っ白になった自分の手を見下ろしていた。指がまだ少し震えていた。
エーベルが、玲奈の隣にしゃがみこんだ。
本を開いて、円の絵の下の、途切れた行の横に、羽根ペンで一行書き足した。
それから、黙って、その頁を玲奈に見せた。
『大きな線は、見せるための線。断つな。細い線を凍らせて止めよ。――玲奈』
玲奈は、その字を見つめた。
「……私の名前、書いた」
「見つけた人の名前を残すのが、記録だ」
エーベルは本を閉じた。それから、少し間を置いて、付け足した。
「三百年後に、誰かがこれを読んで、戻ってこられるように」
【宝箱 神崎伊織】
伊織がブルーノを床に下ろすと、若い剣士がふらふらと立ち上がった。
剣士の目は、天井の石の、向こうを見ていた。
くぼみの奥。宝箱は無事だった。落ちてきた天井の、ほんのわずか奥で、何事もなかったようにちょこんと置かれている。
「……あれのせいなんだ」
剣士の名前はカイといった。
「あの箱が見えて。中身、きっとすごいものだと思って。俺が真っ先に円に入った」
カイは、拳を握りしめた。
「ブルーノさんが針を食らったのも、ネルが一日半立ちっぱなしだったのも、全部、俺が」
「カイ」とブルーノが言った。「その話は地上でやれ」
カイは、唇を噛んで、宝箱を睨んだ。
「せめて、中身くらい……」
カイが天井の石の脇を回りこんで、くぼみのほうへ足を踏み出した。
琴音が、その前に、すっと立った。
「やめたほうがいい」
「なんで」
琴音は、宝箱を指さした。
「あれ、生きてる」
カイがぽかんと口を開けた。
恒一が、宝箱の蓋のあたりを眺めて、鼻を鳴らした。
「蓋が浮いてる。腹、減らしてるな。……箱に化けるやつは、腹が減ると我慢がきかなくなる」
恒一は腰の袋から干し肉をひと切れ出して、くぼみのほうへぽいと放った。
干し肉が、宝箱の前に落ちた。
宝箱の蓋が、ぱかりと開いた。
中には、金貨も宝石もなかった。
あったのは、歯だった。蓋の縁と箱の縁に、ぎざぎざの白い歯が、上下にずらりと並んでいた。その奥から紫色の長い舌がしゅるりと伸びて、干し肉を巻き取った。
蓋が、ばくん、と閉じた。
もぐもぐと、箱が動いた。
カイの顔から、血の気が引いた。
伊織は、両の拳をそっと握った。熱が、指の付け根に集まりかける。
あれなら二発。いや、一発でいける。
「伊織」と朔が言った。
「分かってる」
伊織は拳を開いて、熱を逃がした。
「今日は、戦わない日でしょ」
「そういう日だ」
宝箱は、干し肉を食べ終えると、箱の底から短い脚を何本も出して、くぼみのさらに奥の暗がりへ、ごそごそと歩いていった。
それきり出てこなかった。
カイは、宝箱が消えた暗がりを、長いこと見つめていた。
それから、伊織たちを振り返った。
「……知ってたのか。最初から」
「最初から」と琴音。
「なんで言わなかったんだ」
「言ってたら」と伊織は言った。「あんた、天井の下でもっと暴れてたでしょ」
カイは何か言い返そうとして、やめた。
短弓の女、ネルが、座りこんだまま笑い出した。最初は小さく、それからこらえきれないみたいに肩を震わせて。一日半ぶりに笑ったのかもしれなかった。
ブルーノも、つられて笑った。笑いながら、腰の袋の木の熊を、ぽんと叩いた。
「ルカには、この話もしてやらなきゃな。父ちゃんの組の若いのが、箱に食われかけたって」
「食われかけてない」とカイ。
「食われかけた」と伊織とネルが同時に言った。
【足音 朝倉朔】
ブルーノの組は、回廊の入口まで戻って、そこで待つことになった。
恒一が置いてきた小石の目印を、逆にたどれば、罠は踏まない。伊織が、ブルーノを入口の石段の下まで背負っていって、戻ってきた。
四日前に入ったのだと、ブルーノは言った。入口の広間の骨の兵が、まだ五、六体だったころだ。
「帰りに、拾っていく」と朔は言った。
ブルーノは、壁に背中を預けて座ったまま、朔を見上げた。
「……あんたが頭か」
「段取り係です」
ブルーノは、朔の顔を、じっと眺めた。
それから、首を振った。
「俺は二十年、迷宮に潜ってる。罠を見つけるやつも、毒を消すやつも見たことはある。……でも、一度に全部やるやつらは、初めて見た」
ブルーノは目を閉じた。
「帰りに拾ってくれ。それまで、死なないで待ってる」
回廊の奥へ、もう一度、歩き出した。
円の間を越えると、罠はぐっと減った。恒一が、ときどきしゃがんで小石を置く。セリナが、その後ろを、恒一の足跡どおりに歩く。
朔は、少し後ろを歩く澪の足音が、いつもより遅いことに気づいていた。
振り返ると、澪は、壁に片手をついていた。
「澪」
「大丈夫」
澪はそう言いかけて、言葉を止めた。
それから、朔の顔を見て、言い直した。
「……大丈夫じゃない、って言ってもいい?」
朔は足を止めた。
「血を遅くするの、すごく疲れるの。治すより、ずっと。……今、ちょっと脚に力が入らない」
澪は、自分の言ったことに、自分で少し驚いたような顔をした。
「疲れた、ってちゃんと言ったの、たぶん初めて」
朔は、澪の隣に並んで、腕を差し出した。
澪は、その腕に、自分の手をそっと掛けた。
「次の休みまで」と澪が言った。
「次の休みまで」と朔も言った。
前を歩いていた伊織が、ちらりと振り返って、何も言わずに前を向いた。琴音が、伊織の背中を、指先でつんとつついた。
回廊が終わった。
突き当たりに、下へ降りる幅の広い石段があった。四層への石段だった。三百年前の地図にも同じ場所に描いてある、とエーベルが言った。
石段の上で、恒一が、しゃがみこんだ。
一番上の段に、足跡があった。
裸足の、人の足の形をしていた。指が五本。かかと。土踏まず。
ただ、大きさが違った。
恒一が、自分の足を、その横に並べた。恒一の足が、三つ入りそうだった。
「……人の形をしてる。でかさが三倍だ」
恒一は、跡の深さを指で測った。
「重さは、三倍じゃきかねえ」
琴音が、石段の脇の石壁に、耳を当てていた。
「歩いてる。下で。……二つ」
ゆうべ、二層の床の下から聞こえた、少しずれた拍の、二つの足音。
「昨日より近い」
もっと下の、あの静かな息の音は聞こえるか。朔が訊くと、琴音は首を横に振った。
「今は、こっちの二つが大きくて、その下まで聞こえない」
どん。
朔の足の裏にも、それが届いた。
どん。どん。
石段の奥の闇から、重い足音が上がってきた。少しずれた拍で、二つ。
そして、石段のどこか下のほうで、止まった。
静かになった。
琴音が、耳を石から離さずに、ささやいた。
「……止まった。上を、向いてる」




