第47話「迷宮の入口」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第47話「迷宮の入口」
【北の街道 白川玲奈】
北へ向かう街道は、三日のあいだに、少しずつ冬の匂いになっていった。
一日目は、色づいた森の中だった。赤と黄色の葉が、街道に厚く積もっていて、歩くたびにさくさくと鳴った。
二日目の朝、野営地の草が、白く凍っていた。初霜だった。莉子が、鍋の水に張った薄い氷を指でつついて、「冬だ」と小さく言った。
三日目には、木がまばらになって、灰色の岩の丘が続くようになった。北の空に、雪を頂いた山並みが、昨日よりずっと大きく見えた。
エーベルはロバに乗っていた。
ロバの両脇には、本と羊皮紙の巻物を詰めた袋が、左右にひとつずつ。ロバは不満そうに鼻を鳴らしながら歩いていた。
「その荷物、全部要るの?」と玲奈は訊いた。
「全部要る」
エーベルは袋から一冊の本を抜き出して、鞍の上で開いた。
「三百年前の迷宮探索の記録だ。一層から五層までの地図と、出た魔物の一覧が書いてある」
「三百年前の地図、今も合ってるの?」
「合っていないところを見つけるのが、今回の目的のひとつだ」
玲奈は少し考えてから、手帳を開いた。
「三百年前の地図と、今の迷宮の違いを、全部書く。……分かっていることと、分からないことを、分けて」
エーベルが鞍の上で、玲奈のほうを振り向いた。
「僕の言うことを、先に言うな」
「言われる前に、思いついただけ」
前を歩いていた伊織が、肩越しに振り返って、にやにやしていた。琴音が、伊織の脇腹を肘でつついた。
【入口 朝倉朔】
迷宮の入口は、灰色の岩の丘の、南の斜面にあった。
巨大な石のアーチだった。人の背の五倍はある。アーチの石には、見たことのない文字と、絡み合う蔓のような模様が、びっしりと彫られていた。何百年も風に削られて、角が丸くなっていた。
アーチの奥は、まっすぐ下へ降りる石段になっていて、その先は闇だった。
入口の前に、小さな野営地があった。
冒険者の天幕が、五つ、六つ。焚き火。ギルドの紋章の入った見張り小屋。それに、荷車に松明と油と縄を山積みにした、商売上手そうな男。
「松明はいかが! 迷宮の一層なら、十本あれば足りる!」
朔たちが野営地に入ったとき、石段の下から、叫び声が上がってきた。
四人の冒険者が、石段を駆け上がってきた。
先頭の男は、盾が半分に割れていた。二番目の女は、肩から血を流していた。三番目と四番目が、ぐったりした仲間の腕を両側から抱えていた。
四人とも、首から、鈍い銀の札を下げていた。Bだった。
四人は、アーチの外へ転がり出ると、地面に座りこんだ。
「……骨の兵だ」
割れた盾の男が、息を切らしながら言った。
「入口の広間に、三十はいる。前は、せいぜい五、六体だったのに。斬っても斬っても、起き上がってくる」
澪がもう、肩を怪我した女のそばにしゃがんでいた。
「動かないで。すぐ治すから」
光。女が、目を丸くした。
割れた盾の男が、朔たちの首の札を見た。銅の、C。
「……あんたら、今から入るのか。やめとけ。Bの俺たちで、これだ」
朔は石段の下の闇を見た。
それから、六人を振り返った。
誰も、迷っていなかった。
「並び順、いつもので」
恒一が先頭に立った。すぐ後ろに伊織と朔。真ん中に、澪と莉子と、ロバを引いたエーベル。その後ろに玲奈と琴音。最後尾に、セリナ。
セリナは誰に言われるでもなく、一番後ろに立っていた。
「……後ろは、見とく」
恒一が振り返らずに頷いた。
莉子が、腰の袋から小さなガラスの瓶を出した。中に、昨日の野営で集めた苔が入っている。莉子が瓶を軽く振ると、苔が、ぼうっと淡い緑に光りはじめた。
「松明だと、手がふさがるでしょ」
松明売りの男が、口をあんぐり開けていた。
【骨の広間 神崎伊織】
石段を下りきると、広い円形の広間に出た。
天井が高い。壁ぎわに、崩れかけた石の柱が並んでいる。床には、割れた盾や、折れた剣が散らばっていた。さっきの四人のものだろう。
広間の奥の暗がりで、からからと、乾いた音がした。
骨の音だった。
暗がりから、骨の兵が歩み出てきた。
人の骨格だけの体。ぽっかり開いた眼窩の奥で、青白い火がちらちらと揺れている。手に、錆びた剣や斧や槍。一体、五体、十体。広間の奥から、横の通路から、次々に。
三十。もっといるかもしれない。
「心臓、ない」と琴音がつぶやいた。「でも、関節が鳴ってる。全部」
「頭蓋の中の火を消せば止まる」と恒一。
朔はそれだけ聞いて、言った。
「伊織、真ん中。剣は抜くな」
伊織はもう剣の柄から手を離していた。
「分かってる。骨には、拳のほうが早いし」
伊織は両の拳に熱を集めた。陽炎が、緑の苔の光の中で、橙色に揺れた。
骨の兵が一斉に動き出した。
伊織が真ん中に飛びこんだ。
最初の一体が、錆びた斧を振り下ろしてくる。
伊織は受けなかった。
半身になって、かわした。斧が、伊織の肩のすぐ横の空気を裂く。かわしたまま、熱をこめた拳を、骨の兵の頭蓋に叩きこむ。
頭蓋が、からんと割れた。眼窩の奥の青白い火が、ふっと消える。骨が、ばらばらと床に崩れた。
二体目。三体目。
伊織はどの一撃も受けなかった。かわして、殴る。かわして、殴る。
その左右で、朔は剣の柄頭で、恒一は山刀の背で、同じように骨を砕いていた。骨に、刃は要らない。
骨の兵が伊織を囲もうと、横の通路から回りこんでくる。
莉子が床に両手をついた。
石の床の隙間から、根が伸びる。根は骨の兵の足の骨のあいだに入りこんで、絡みつく。足を取られた骨の兵が、からからと音を立てて転ぶ。
転んだ骨の兵の頭蓋を、玲奈の雷が、一体ずつ正確に撃ち抜いていく。
「頭の中の火、雷だと一発で消える」と玲奈。「骨のほうは、割れないけど」
「割るのは、こっちでやる」と伊織が叫び返した。
広間の一番奥で、ひときわ大きな骨の兵が、大剣を構えていた。骨格が、ほかより一回り大きい。
それが、伊織に向かって、大剣を横なぎに振るってきた。
重い一撃だった。受ければ、剣は折れる。
伊織は受けなかった。
大剣の下に滑りこんで、床すれすれをくぐり抜ける。くぐり抜けながら、大きな骨の兵の膝の骨を、拳で打ち砕いた。
大きな骨の兵が、膝から崩れ落ちる。
その頭蓋に、上から、朔の剣の柄頭が落ちた。
青白い火が、消えた。
広間に、静けさが戻った。
床一面に、骨が散らばっていた。
石段の上から、さっきのBの組の四人が、こわごわと覗きこんでいた。
割れた盾の男が、ぽつりと言った。
「……三十を。剣も抜かずに」
伊織は拳を振って熱を逃がしながら、肩越しに振り返った。
「剣、大事にしてるの。今」
【光る苔 白川玲奈】
広間の先の通路は、ゆるやかに下っていた。
壁と天井に、苔が生えていた。莉子の瓶の中の苔と同じ、淡い緑に光る苔。通路の奥へ行くほど、苔は厚くなって、明かりがなくても、足もとが見えるくらいになった。
「光る苔は、三百年前の記録にもある」とエーベルが言った。本を開いたまま、ロバの手綱を引いている。「一層の、地底湖のまわりに多い」
通路が、ふいに開けた。
地底湖だった。
天井の高い、大きな洞の底に、黒く静かな水が広がっていた。まわりの岩壁一面に光る苔が生えていて、その緑の光が、水面に映りこんでいる。上にも下にも、緑の星空が広がっているようだった。
莉子が息を呑んだ。
「……きれい」
琴音が目を閉じた。
「水の音が、すごく、遠くまで続いてる。この湖、どこかとつながってる」
玲奈は手帳に書いた。地底湖。三百年前の地図と同じ場所。光る苔、記録どおり。
それから、ふと、手を止めた。
湖のほとりの岩に、白い糸が、何本も張られていた。
太い糸だった。人の指ほどの太さ。それが、岩と岩のあいだに、扇のように広がっている。
「……蜘蛛の巣」
エーベルが本をめくる手を止めた。
「おかしい。この太さの巣を張る大蜘蛛は、三百年前の記録では、四層より下にしかいない」
岩壁の上で、何かが動いた。
光る苔の中から、八本の脚が、ぬっと伸びた。
大蜘蛛だった。胴体だけで、牛ほどもある。黒い毛に覆われた脚。頭の前に並んだ、八つの赤い目。
大蜘蛛が岩壁を逆さまに這いながら、こちらへ下りてくる。
恒一が短く言った。
「糸に触るな。張りついたら取れねえ」
伊織が熱を帯びた拳を構える。
「巣、焼く?」
「先に焼け。逃げ道をふさがれる」と朔。
伊織が、熱をまとった手で、近くの糸に触れた。糸が、じゅっと音を立てて縮れ、炎もなく灰になる。伊織は、糸を焼きながら、巣と巣のあいだに道を開けていく。
大蜘蛛が岩壁から跳んだ。
まっすぐ、伊織へ。
その跳んだ大蜘蛛の脚の付け根を、二本の矢が同時に射抜いた。恒一とセリナ。
大蜘蛛が空中で体勢を崩す。
着地した瞬間、伊織が、この日初めて、剣を抜いた。
一閃。
大蜘蛛の前脚が二本、根もとから落ちた。
大蜘蛛は残りの脚で、よろよろと後ずさった。
それから、くるりと向きを変えて、岩壁を這い上がり、天井の割れ目の奥へ逃げこんでいった。
追わなかった。
伊織は剣を鞘に戻す前に、刃の根もとを、親指の腹でそっとなぞった。
ひびは、広がっていなかった。
伊織は小さく息を吐いて、剣を収めた。
玲奈はその仕草に気づいていたが、口には出さなかった。手帳に、一行だけ書いた。伊織、剣を確かめる。
それから、玲奈は、大蜘蛛が逃げていった天井の割れ目を見上げた。
「……逃げ方が、変だった」
「変?」とエーベル。
「脚を二本落とされたら、ふつうは、巣のほうへ逃げる。自分の巣に。……でも、あの蜘蛛は、巣を捨てて、上へ逃げた」
玲奈は地底湖の奥の、さらに下へ続く暗い通路を見た。
「下には、戻りたくないみたいに」
【爪痕 佐伯恒一】
地底湖の先に、二層へ下りる石段があった。
恒一は石段の手前でしゃがみこんだ。
石段の一段一段に、跡が残っていた。
爪の跡。足の跡。何かを引きずった跡。蜘蛛の脚の、細い点々。獣の、四本指の深い爪痕。ほかにも、恒一の知らない形の跡が、いくつも。
恒一は指で、跡をひとつずつなぞっていった。
それから、立ち上がって、石段の壁を見た。
壁にも、爪痕があった。石が、深く削れている。
恒一は、しばらく石段を見下ろしていた。
「恒一?」と朔が呼んだ。
「……全部、上り向きだ」
恒一は低く言った。
「足跡も、爪痕も、引きずった跡も。全部、下から上へ向かってる。下へ向かう跡が、ひとつもねえ」
六人が、恒一の後ろから石段を覗きこんだ。
「三年前から、奥の魔物が上へ上がってくる」とエーベルが言った。「僕の記録と、合う」
「合うだけじゃねえ」
恒一は壁の爪痕のひとつを指さした。
「この爪痕、壁に爪を立てて、無理やり這い上がってる。石段を、普通に上ってきたんじゃねえ。急いで、這い上がってきてる」
琴音が壁に耳を当てた。
「……さっきの骨の兵も、蜘蛛も。心臓の音が、ずっと速かった。骨の兵は心臓がないけど、関節の鳴り方が、落ち着かなかった」
澪が静かに言った。
「さっきの蜘蛛、脚の付け根の毛が抜けてた。痩せてた。……何日も、ちゃんと食べてない体だった」
朔は恒一の指さす爪痕を、しばらく見つめていた。
それから、言った。
「オークと、同じだ」
全員が、朔を見た。
「北の山から、何かに追われて、南へ逃げてきたオーク。……この迷宮の魔物も、奥から、上へ逃げてきてる」
誰も、すぐには何も言わなかった。
エーベルが本を閉じた。
「何から、逃げているんだ」
「分からねえ」と恒一は言った。
「分からない」と玲奈が、手帳に書きながら言った。「まだ」
【二層の野営 小鳥遊莉子】
二層に下りてすぐの小部屋で、野営することになった。
部屋の入口は一つだけ。壁に光る苔。天井の割れ目から、かすかに風が通っている。
莉子は、壁ぎわに小さな鉄の鍋を置いて、手のひらに火を灯した。生活の魔法の、小さな火。燃やすものがなくても、しばらくは鍋を温められる。
干し肉と、乾かした茸と、北の街道で摘んだ野草。塩をひとつまみ。最後に、リーヴェルのパン屋で買ってきた固いパンをちぎって、鍋に落とす。
湯気が、苔の光の中に立ちのぼった。
「迷宮の中で、まともな温かいものが出てくるとは思わなかった」
エーベルが木の器を両手で包んで、しみじみと言った。
「いつも、何を食べてたの」と莉子。
「干し肉をかじって、水を飲んでいた。……研究者の調査というのは、そういうものだ」
莉子はエーベルの器に、もうひとすくい足した。
「じゃあ、今回は、おかわりしていいよ」
玲奈が器の縁から、ちらりとエーベルを見ていた。エーベルは、それに気づかずに、ひたすら煮込みを口に運んでいた。
部屋の入口のそばで、恒一とセリナが、並んで見張りをしていた。セリナは、自分の器の煮込みを半分、黙って恒一の器に移していた。恒一は、何も言わずに、自分の器の干し肉を半分、セリナの器に移した。
莉子はそれを見なかったことにして、鍋をかき混ぜた。
琴音が自分の器を持って、朔の隣に座った。
何も言わなかった。
ただ、朔の肩に、自分の肩を軽くくっつけて、煮込みを食べていた。
祭りの夜の歌のあと、琴音は、少しだけ変わった、と莉子は思う。前は、朔の近くに行くとき、いつも少しためらっていた。今は、ためらわない。言葉にもしない。ただ、隣にいる。
伊織が朔の反対側に、どさっと座った。
「せまい」と琴音が言った。
「せまくない」と伊織が言った。
朔は二人に挟まれて、黙って煮込みを食べていた。
澪が鍋の向こうで、くすくす笑っていた。
【下からの音 黒瀬琴音】
夜中、琴音は、目を覚ました。
小部屋の中は、寝息で満ちていた。伊織の、少し大きい寝息。莉子の、規則正しい寝息。エーベルの、時々止まる寝息。
入口のそばで、恒一とセリナが、まだ起きていた。小さな声で、何か話していた。
琴音は床に、耳を当てた。
石の床の、ずっと奥。
音がした。
どん。
重い音だった。
どん。
規則正しい。歩く音に似ている。でも、人の足音にしては、重すぎた。
どん。どん。
ひとつではなかった。二つ。少しずれた拍で、二つの重い足音が、どこか下の層を歩いていた。
そして、そのさらに奥。
琴音は息を止めた。
ずっと、ずっと下のほうで、もうひとつ、音がしていた。
足音ではなかった。
息のような。地の底で、何か大きなものが、ゆっくりと、息を吸って、吐いているような。
琴音はそっと体を起こした。
隣で眠っていたはずの朔が、目を開けていた。琴音の気配で、起きたのだろう。
「……何か、聞こえたか」
琴音は床に手を当てたまま、小さく頷いた。
「下に、何かいる」
朔は何も訊かずに、琴音の言葉を待っていた。
「重い足音が、二つ。……それと、もっと下に」
琴音は言葉を探した。
「すごく大きくて、すごく、静かなもの」




