第46話「宴」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第46話「宴」
【窯 小鳥遊莉子】
砦の村の真ん中に、大きな共同の窯があった。
石を積んで、土で塗り固めた、丸い屋根の窯。ふだんは村の女たちが、週に一度、交代でパンを焼く。
その窯に、朝から火が入っていた。
莉子は、袖をまくって、粉だらけの手で生地をこねていた。隣に、村の女たちが十人ほど。昨日、集会所で包帯を巻いていた手が、今日は生地をこねている。
「百五十人分って、言ったっけ」と、ひとりの女が笑った。
「村の人が百人。ガロさんの組と、私たちと。それから、たぶん、おかわりする人」
莉子は伊織の顔を思い浮かべた。
「おかわりする人、多いから」
生地を丸めて、布をかけて、窯の前の棚に並べる。膨らむのを待つあいだに、次の生地をこねる。窯の火加減は、莉子が手のひらをかざして決めた。
「熱すぎる。薪、一本抜いて」
女たちが目を丸くした。
「手をかざしただけで、分かるのかい」
「五年……」
莉子は言いかけて、ちょっと笑ってごまかした。
「パンを焼く仕事、してたから。向こうで」
窯の戸口から、子どもたちがのぞいていた。昨日、桶の列に並んで、屋根の火を消した子たちだった。
莉子は手招きした。
「おいで。小さいの、一緒に作ろう」
子どもたちがわっと駆けこんできた。
莉子は生地を小さくちぎって、子どもたちの手のひらに一つずつ載せた。
「こうやって、手のひらで、くるくる。表面がつるんとしたら、できあがり」
一番小さな女の子が、真剣な顔で生地を転がしていた。うまく丸くならない。何度もやり直す。
莉子はその手に自分の手を重ねた。
「ゆっくりでいいよ。生地は、急がせると怒るから」
女の子が、くすっと笑った。
窯から、最初のパンが焼き上がった。
扉を開けた瞬間、香ばしい匂いが、村じゅうに広がった。昨日まで焦げた匂いと血の匂いがしていた村に、焼きたてのパンの匂いが流れていく。
井戸のそばで、見張り番の老人が、鼻をひくつかせて振り返った。
莉子は焼きたてのパンをひとつ割って、湯気の立つ中身を見た。
ちゃんと膨らんでいた。
【膝 水城澪】
昼過ぎ、集会所には、昨日の怪我人がまだ何人か寝ていた。
みんな、傷はもう閉じていた。でも、体は、傷が閉じたからといってすぐ元には戻らない。
澪は昨日一緒に手当て所で働いた村の女たちを集めていた。
「傷が治ったあとの、手当て。これも大事なの」
澪は腹を槍で突かれた男の枕もとに座った。
「血がたくさん出た人は、しばらくふらふらする。だから、起きるときは、いきなり立たせない。まず座らせて、十数えて、それから」
女たちが真剣な顔で頷いた。
「水を、少しずつ、たくさん。塩を、ひとつまみ。食べられるなら、莉子ちゃんのパンを、スープに浸して」
ひとりの女が、手を挙げた。
「澪さんの光で、全部治せないんですか」
澪は少し考えた。
「傷は、治せる。でも、失くした血とか、疲れとか、怖かった気持ちとかは、私の光より、ちゃんと食べて、ちゃんと寝るほうが、よく治る」
それから、女たちの顔を、ひとりずつ見た。
「昨日、みんなが止血してくれたから、私、間に合った。……ありがとう」
女たちが顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。
集会所の戸口に、見張り番の老人が立っていた。
刃こぼれした長剣は、今日は腰に下げていなかった。代わりに、右膝をかばうように、杖をついていた。
「……あんたに、頼みがある」
老人はばつが悪そうに言った。
「この膝だ。三十年前、まだ若かった頃に、森の獣にやられた。それ以来、走れん。昨日も、柵の上で、走れなかった」
老人は杖の先で床をとんと突いた。
「年寄りの膝を治してくれとは、昨日みたいな日に言えることじゃない。だが、もし、手が空いたら」
澪は立ち上がって、老人の前にしゃがんだ。
ズボンの裾をめくると、膝の外側に、古い、白く盛り上がった傷跡があった。
澪は両手を膝に当てた。
光。
新しい傷を治すときよりも、ずっと時間がかかった。三十年分、固まってしまったものを、ゆっくり、ゆっくりほどいていく。
澪の額に、汗が浮いた。
やがて、澪は手を離した。
「……立ってみて」
老人は杖を床に置いて、立ち上がった。
膝を曲げる。伸ばす。もう一度、曲げる。
それから、集会所の中を、一歩、二歩、歩いた。
三歩目で、老人は、小さく駆けた。
止まって、自分の膝を見下ろした。
「……三十年ぶりに、走れる」
老人の声が、震えていた。
澪は汗を拭いながら笑った。
「祭りで、踊れますね」
老人は何か言おうとして、言葉にならずに、澪の手を両手で握った。
【祭り 神崎伊織】
日が傾くと、村の真ん中の広場に、大きな焚き火が組まれた。
秋の収穫祭を、一緒にやってしまおう、と言い出したのは村の女たちだった。毎年、畑の取り入れが終わると開く祭り。今年は、オークのせいで開けないと思っていた祭り。
焚き火のまわりに、長いテーブルが並んだ。莉子と村の女たちが焼いたパンが山のように積まれ、焼いた林檎と、皮ごと焼いたかぼちゃと、豚の腸詰めと、大鍋の煮込みが並ぶ。村の地下の蔵から、今年の新しい林檎酒の樽が転がされてきた。
色づいた森の上に、大きな月が昇っていた。
村の男がひとり、古いフィドルを持ち出してきた。別の男が、太鼓を叩きはじめる。
太鼓の音に、伊織は一瞬、肩をこわばらせた。
でも、それは、オークの太鼓とはまるで違った。軽くて、跳ねていて、笑っているような拍だった。
村の人たちが焚き火のまわりに輪を作った。手をつないで、回りはじめる。輪舞だった。
伊織は腸詰めをかじりながら、それを眺めていた。
それから、腸詰めを口にくわえたまま、隣の朔の手をつかんだ。
「行こ」
「は?」
「踊る。輪の中」
朔が何か言う前に、伊織は朔を引っぱって、輪の中へ飛びこんでいた。
村の人たちが歓声を上げて、二人のために手をつなぎ直した。
伊織は踊り方を知らなかった。朔も知らなかった。
二人とも、隣の村人の足を見て、見よう見まねで足を踏み鳴らした。右へ三歩、左へ三歩、くるりと回って、手を叩く。伊織が一拍遅れる。朔が逆に回る。二人がぶつかる。村の子どもたちが、腹を抱えて笑った。
伊織も笑っていた。腸詰めを口から落としそうになりながら、笑っていた。
輪の向こうで、見張り番の老人が、杖を持たずに踊っていた。三十年ぶりの膝で、誰よりも高く跳ねていた。
ガロが林檎酒のジョッキを掲げて、怒鳴った。
「おい伊織! 腕相撲の続き、踊りでやるか!」
「受けて立つ!」
伊織は朔の手を離さないまま、叫び返した。
【一曲 水城澪】
輪舞が三曲続いたあと、フィドルの男が、ゆっくりした曲を弾きはじめた。
輪がほどけて、二人ずつの組になっていく。
澪はテーブルの端で、林檎酒の杯を両手で包んでいた。
朔は、伊織から解放されて、焚き火のそばで息を整えていた。伊織は、ガロに引っぱられて、踊りの勝負の続きに連れていかれていた。
澪は杯をテーブルに置いた。
立ち上がって、朔の前まで歩いていった。
朔が顔を上げた。
澪はほんの少しだけ、ためらった。
日本の三年なら、ここで「疲れたでしょ、座ってたら?」と言っていた。誰かの気持ちを先に考えて、自分の言いたいことを、その後ろに隠していた。
澪は手を差し出した。
「一曲、踊ってください」
それから、付け足した。
「……私と」
朔は差し出された手を見た。
それから、澪の顔を見た。
澪は目をそらさなかった。手も、引っこめなかった。
朔が澪の手を取った。
ゆっくりした曲だった。二人とも、やっぱり踊り方は知らなかった。でも、ゆっくりなら、合わせられた。澪が一歩出れば、朔が一歩下がる。朔が回れば、澪がついていく。
焚き火の明かりが、澪の頬を橙色に染めていた。
「……ちゃんと、言えた」と澪は、朔の胸のあたりで、小さく言った。
「言えてた」
「前の私なら、『座ってたら?』って言ってた」
朔は少し笑った。
「知ってる」
澪は朔の肩に、そっと額を寄せた。
曲が終わるまで、二人とも、それ以上何も言わなかった。
【最初の一曲 黒瀬琴音】
祭りの最後に、村の人たちが、焚き火の前に樽を二つ並べて、即席の舞台を作った。
フィドルの男が、琴音を手招きした。
「戦の前の晩に、子どもたちに歌ってくれた姉ちゃんだろう。一曲、頼めないか」
琴音は首を横に振りかけた。
それから、止まった。
焚き火の向こうに、朔がいた。澪と踊り終えて、テーブルに戻ろうとしていた。
琴音は樽の上に立った。
村の人たちが静かになった。百人と少しの顔が、焚き火の明かりの中で、琴音を見上げていた。
琴音は朔を見た。
朔が足を止めた。
琴音が何も言わないうちに、朔は、焚き火の前の、樽のすぐ下まで歩いてきた。一番前に。
琴音の胸の中で、何かが、きゅっと鳴った。
――私がこっちで最初に歌うとき。一番前で聞いて。
屋根の上で、そう言った。最初の一曲は、朔のための曲だから、と。
子どもたちに歌った子守唄は、その曲ではなかった。昨日の太鼓を崩した歌も、その曲ではなかった。
これが、その曲だった。
琴音は目を閉じた。
最初の音は、小さかった。焚き火のはぜる音に、溶けてしまいそうなくらい。
それから、少しずつ、広がっていった。
言葉のある歌だった。日本の言葉の歌だった。村の人たちには、意味は分からない。でも、誰も、ざわつかなかった。
日本で、三年かけて書いた歌だった。ライブハウスの小さな舞台で、何度も歌おうとして、歌えなかった歌。客席の一番前に、聴いてほしい人がいなかったから。
今は、いた。
琴音は目を開けた。
一番前で、朔が、琴音を見上げていた。
琴音は魔法を使わなかった。音の輪も、銀色のきらめきも、出さなかった。ただ、歌った。自分の声だけで。
自分の音を、聞いてほしい人に。
歌が終わったとき、広場は、しんとしていた。
それから、誰かが手を叩いた。
見張り番の老人だった。続いて、村の女たち。子どもたち。ガロの組。莉子が、両手を振り回して叩いていた。伊織は、口笛を吹いていた。澪は、目もとを指で押さえながら、手を叩いていた。
琴音は拍手の中で、朔だけを見ていた。
朔は拍手をしていなかった。
ただ、琴音を見上げて、ひとこと言った。
「……届いた」
琴音は樽の上で、ふっと膝の力が抜けそうになった。
それを、ぐっとこらえて笑った。
【柵の上 佐伯恒一】
祭りの輪から少し離れて、恒一は、柵の内側の足場に腰かけていた。
セリナが踊らないのは知っていた。だから、誘わなかった。
足場が、きしんだ。
セリナが隣に来ていた。両手に、林檎酒の杯を二つ持っていた。
「くすねてきた」
「お前、それ、毎回言うな」
「毎回くすねてるからな」
セリナは杯をひとつ恒一に押しつけた。
二人で、柵の上から、祭りの明かりを見下ろした。焚き火のまわりで、伊織とガロが、踊りとは呼べない勝負を続けていた。
「……踊らねえのか」と恒一は言った。
「踊らない」
セリナは杯を傾けた。
それから、しばらくして、ぼそっと言った。
「お前が、教えるなら、考える」
恒一は林檎酒にむせた。
セリナはそっぽを向いていた。尻尾の先だけが、恒一の背中を、ぱたん、ぱたんと叩いていた。
「……俺も、知らねえよ。踊り」
「なら、二人とも下手だな」
セリナは足場から立ち上がった。恒一の手を取って、引っぱり上げる。
それから、柵の上の狭い足場で、祭りの音楽に合わせて、二人でぎこちなく一回だけ回った。
足場から落ちそうになって、恒一がセリナの腰をつかんだ。
セリナは恒一の胸に額をぶつけて、喉の奥で笑った。
【札 朝倉朔】
二日後、七人はリーヴェルに戻った。
ギルドの扉を開けると、昼間の広間は、いつものように冒険者たちで混み合っていた。
話し声が、ぴたりと止まった。
初めてここに来た日とは、違う止まり方だった。
先に戻っていたガロが、広間の真ん中の長テーブルに、足を投げ出して座っていた。七人を見ると、ジョッキを掲げた。
「よう。オークの将殺し……じゃなかった。将を帰したやつら」
広間の冒険者たちが、七人を見ていた。値踏みする目ではなかった。
受付の台の向こうで、栗色の髪の娘が、待ちきれないという顔で手招きしていた。
台の上に、羊皮紙が二枚置いてあった。
一枚は、ガロの字で書かれた報告書だった。娘が、それを声に出して読んだ。
「『砦の村の防衛において、Aランク、ガロの組は、自らの判断により、組ごと、Fランク「通りすがり」の指揮下に入った。オーク三百を退け、オークの将を降伏させた。村人に死者なし。以上の功により、「通りすがり」のランクの見直しを求める』」
広間が、ざわっとした。
Aの組が、Fの組の指揮下に入った。冒険者にとって、それがどういう意味なのか、ここにいる全員が分かっていた。
もう一枚は、砦の村からの書状だった。見張り番の老人の、震える字の署名と、村の人たちの名前がずらりと並んでいた。
娘は台の下から、銅の札を七枚取り出した。表に、Cと刻んである。
「規則では、Fから一度に上げられるのは、Cまでなんです」
娘は申し訳なさそうに、でも、嬉しそうに言った。
「……本当は、もっと上なのは、私が一番知ってますけど」
七人は、首の鉄のFの札を外して、銅のCの札を下げた。
広間の奥のテーブルから、誰かが立ち上がった。
七人が初めてここに来た日に、「髭はどうした、髭は」と笑った男だった。
男は少しばつが悪そうに頭をかいた。
それから、ジョッキを掲げた。
「……悪かったな。髭のこと」
伊織が吹き出した。
広間の冒険者たちが、次々にジョッキを掲げた。
【ひび 神崎伊織】
その日の夕方、伊織は、鍛冶工房の金床の前に立っていた。
白い髭を編んだ鍛冶師が、伊織の剣を、窓の光にかざしていた。刃の根もとから斜めに走るひびを、指の腹で、何度もなぞっていた。
「……オークの将の大剣を、まともに受けたか」
「一回だけ」
「一回で、これか」
鍛冶師は剣を金床の上に置いた。
「持つ。普通の魔物相手なら、まだ十分に持つ。だが」
鍛冶師は伊織の目を見た。
「前と同じじゃない。もう一度、あれと同じくらい重いのを正面から受けたら、ここから折れる」
伊織は黙って剣を見下ろした。
「打ち直すか。溶かして、同じ鋼で、新しく打つこともできる。重さも長さも、同じにしてやれる」
伊織は首を横に振った。
「これがいい」
「なぜだ」
伊織は剣の柄を握った。
濡れた手で選んだ柄。ヒュドラの首を焼いた刃。オークの将の大剣を一度だけ受けて、それでも折れなかった剣。
「ひびも、こいつのだから」
鍛冶師は長いこと伊織を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「なら、せめて研いでやる。ひびのまわりに、無理がかからないように。……それと、受けるな。かわせ。あんたなら、できるだろう」
「うん」
鍛冶師が研いだ剣を、伊織は、工房の外で軽く振ってみた。
いつもと同じ重さだった。
でも、振り下ろして止めた瞬間、刃の根もとの奥で、ほんのかすかに、細い音がした。
伊織にしか聞こえないくらいの。いや、たぶん、琴音なら聞こえる。
伊織は剣を鞘に収めた。
「……受けない。かわす」
自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
【古文書館 白川玲奈】
玲奈はギルドの隣の、石造りの古い建物の中にいた。
リーヴェルの古文書館。天井まで届く書棚に、羊皮紙の巻物と、革の表紙の本がぎっしり詰まっている。窓から差しこむ夕日に、埃がきらきら舞っていた。
ギルドの受付の娘に、魔物の記録を見られる場所を訊いたら、ここを教えられたのだった。
奥の大きな机の上に、地図が広げてあった。
この地方の地図だった。リーヴェル、エルム村、砦の村、東の沼地。その上に、赤いインクで、小さな印がびっしりと書きこまれていた。
玲奈は思わず、地図をのぞきこんだ。
印には、小さな字で日付が添えてあった。三年前、二年前、去年、今年。
古い印は、地図の北のほうに固まっていた。新しい印ほど、南へ下りてきている。
「……魔物の目撃の記録」
「触らないでくれるか。インクがまだ乾いていない」
机の向こうの書棚の陰から、男が顔を出した。
三十前後。くしゃくしゃの栗色の髪に、インクのしみのついた指。袖をまくった白いシャツの上に、くたびれた革のベストを着ていた。手に、丸めた羊皮紙を何本も抱えていた。
「冒険者か。……ああ、銅の札。新しいCの組か。ここは君たちの来るところじゃないよ。依頼の紙ならギルドの掲示板だ」
玲奈は地図から目を離さなかった。
「この印の場所、三年前のと今年のと、線でつなぐと、まっすぐ北から南へ動いてるように見える」
男の眉が、ぴくりと動いた。
「見えるだけじゃない。動いているんだ。三年分の目撃記録を全部集めて、場所を……」
「でも、目撃の記録は、人が多いところほど増える」
玲奈は地図の上のリーヴェルの印を指さした。
「南のほうが、町も村も多い。人が多いところで目撃が増えるのは、当たり前。魔物が南に動いたのか、南のほうが見る人が多いだけなのか、この地図だけじゃ分からない」
男が口を開けて、閉じた。
それから、抱えていた羊皮紙を机の上にどさりと置いた。
「……人口で割った」
「え」
「村ごとの人の数で、目撃の数を割った表が、ここにある。北の村は、人が減っているのに、目撃が増えている。南の村は、人の数は変わらないのに、目撃が増えている。……人の多さのせいじゃない」
玲奈は男が広げた表を見た。
細かい数字が、几帳面に並んでいた。
玲奈はしばらく黙ってそれを読んだ。
「……ちゃんとしてる」
「当たり前だ。三年かけた」
男は少しだけ得意げに鼻を鳴らした。それから、玲奈の顔を、初めてまともに見た。
「君、名前は」
「玲奈」
「エーベル。ここで、魔物の記録を集めている」
エーベルは地図のいちばん北の端を指さした。
山並みの手前に、小さな四角い印があった。
「北の古い迷宮だ。リーヴェルから北へ三日。何百年も前からある、地下へ何層も続く迷宮。……三年前から、その奥の魔物が、上の階へ上がってくるようになった。去年には、入口から出てきた」
「理由は」
「分からない」
エーベルはきっぱりと言った。
「分からないから、見に行きたい。でも、古文書館の研究者に護衛をつけてくれる組は、なかなかいない。迷宮の深いところまで行ける組は、なおさらだ」
エーベルは玲奈の首の、銅の札を見た。
「……Cの組では、浅い階までだな」
玲奈は手帳を開いた。北の古い迷宮、と書いた。三年前から。理由は、分からない。
それから、エーベルを見た。
「分からないって、ちゃんと言う人、好き」
エーベルが目を瞬いた。
玲奈は自分が何を言ったのか、言ってから気づいた。耳が、少し熱くなった。
「……研究者として、って意味」
「……ああ。もちろん」
エーベルもなぜか、咳払いをした。
古文書館の窓の外で、ギルドの鐘が、夕方を告げていた。
玲奈は手帳を閉じた。
「明日、仲間を連れてくる。迷宮の話、もっと聞かせて」




