↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
46/57

第46話「宴」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第46話「宴」


【窯 小鳥遊莉子】


砦の村の真ん中に、大きな共同の窯があった。


石を積んで、土で塗り固めた、丸い屋根の窯。ふだんは村の女たちが、週に一度、交代でパンを焼く。


その窯に、朝から火が入っていた。


莉子は、袖をまくって、粉だらけの手で生地をこねていた。隣に、村の女たちが十人ほど。昨日、集会所で包帯を巻いていた手が、今日は生地をこねている。


「百五十人分って、言ったっけ」と、ひとりの女が笑った。


「村の人が百人。ガロさんの組と、私たちと。それから、たぶん、おかわりする人」


莉子は伊織の顔を思い浮かべた。


「おかわりする人、多いから」


生地を丸めて、布をかけて、窯の前の棚に並べる。膨らむのを待つあいだに、次の生地をこねる。窯の火加減は、莉子が手のひらをかざして決めた。


「熱すぎる。薪、一本抜いて」


女たちが目を丸くした。


「手をかざしただけで、分かるのかい」


「五年……」


莉子は言いかけて、ちょっと笑ってごまかした。


「パンを焼く仕事、してたから。向こうで」


窯の戸口から、子どもたちがのぞいていた。昨日、桶の列に並んで、屋根の火を消した子たちだった。


莉子は手招きした。


「おいで。小さいの、一緒に作ろう」


子どもたちがわっと駆けこんできた。


莉子は生地を小さくちぎって、子どもたちの手のひらに一つずつ載せた。


「こうやって、手のひらで、くるくる。表面がつるんとしたら、できあがり」


一番小さな女の子が、真剣な顔で生地を転がしていた。うまく丸くならない。何度もやり直す。


莉子はその手に自分の手を重ねた。


「ゆっくりでいいよ。生地は、急がせると怒るから」


女の子が、くすっと笑った。


窯から、最初のパンが焼き上がった。


扉を開けた瞬間、香ばしい匂いが、村じゅうに広がった。昨日まで焦げた匂いと血の匂いがしていた村に、焼きたてのパンの匂いが流れていく。


井戸のそばで、見張り番の老人が、鼻をひくつかせて振り返った。


莉子は焼きたてのパンをひとつ割って、湯気の立つ中身を見た。


ちゃんと膨らんでいた。


【膝 水城澪】


昼過ぎ、集会所には、昨日の怪我人がまだ何人か寝ていた。


みんな、傷はもう閉じていた。でも、体は、傷が閉じたからといってすぐ元には戻らない。


澪は昨日一緒に手当て所で働いた村の女たちを集めていた。


「傷が治ったあとの、手当て。これも大事なの」


澪は腹を槍で突かれた男の枕もとに座った。


「血がたくさん出た人は、しばらくふらふらする。だから、起きるときは、いきなり立たせない。まず座らせて、十数えて、それから」


女たちが真剣な顔で頷いた。


「水を、少しずつ、たくさん。塩を、ひとつまみ。食べられるなら、莉子ちゃんのパンを、スープに浸して」


ひとりの女が、手を挙げた。


「澪さんの光で、全部治せないんですか」


澪は少し考えた。


「傷は、治せる。でも、失くした血とか、疲れとか、怖かった気持ちとかは、私の光より、ちゃんと食べて、ちゃんと寝るほうが、よく治る」


それから、女たちの顔を、ひとりずつ見た。


「昨日、みんなが止血してくれたから、私、間に合った。……ありがとう」


女たちが顔を見合わせて、照れくさそうに笑った。


集会所の戸口に、見張り番の老人が立っていた。


刃こぼれした長剣は、今日は腰に下げていなかった。代わりに、右膝をかばうように、杖をついていた。


「……あんたに、頼みがある」


老人はばつが悪そうに言った。


「この膝だ。三十年前、まだ若かった頃に、森の獣にやられた。それ以来、走れん。昨日も、柵の上で、走れなかった」


老人は杖の先で床をとんと突いた。


「年寄りの膝を治してくれとは、昨日みたいな日に言えることじゃない。だが、もし、手が空いたら」


澪は立ち上がって、老人の前にしゃがんだ。


ズボンの裾をめくると、膝の外側に、古い、白く盛り上がった傷跡があった。


澪は両手を膝に当てた。


光。


新しい傷を治すときよりも、ずっと時間がかかった。三十年分、固まってしまったものを、ゆっくり、ゆっくりほどいていく。


澪の額に、汗が浮いた。


やがて、澪は手を離した。


「……立ってみて」


老人は杖を床に置いて、立ち上がった。


膝を曲げる。伸ばす。もう一度、曲げる。


それから、集会所の中を、一歩、二歩、歩いた。


三歩目で、老人は、小さく駆けた。


止まって、自分の膝を見下ろした。


「……三十年ぶりに、走れる」


老人の声が、震えていた。


澪は汗を拭いながら笑った。


「祭りで、踊れますね」


老人は何か言おうとして、言葉にならずに、澪の手を両手で握った。


【祭り 神崎伊織】


日が傾くと、村の真ん中の広場に、大きな焚き火が組まれた。


秋の収穫祭を、一緒にやってしまおう、と言い出したのは村の女たちだった。毎年、畑の取り入れが終わると開く祭り。今年は、オークのせいで開けないと思っていた祭り。


焚き火のまわりに、長いテーブルが並んだ。莉子と村の女たちが焼いたパンが山のように積まれ、焼いた林檎と、皮ごと焼いたかぼちゃと、豚の腸詰めと、大鍋の煮込みが並ぶ。村の地下の蔵から、今年の新しい林檎酒の樽が転がされてきた。


色づいた森の上に、大きな月が昇っていた。


村の男がひとり、古いフィドルを持ち出してきた。別の男が、太鼓を叩きはじめる。


太鼓の音に、伊織は一瞬、肩をこわばらせた。


でも、それは、オークの太鼓とはまるで違った。軽くて、跳ねていて、笑っているような拍だった。


村の人たちが焚き火のまわりに輪を作った。手をつないで、回りはじめる。輪舞だった。


伊織は腸詰めをかじりながら、それを眺めていた。


それから、腸詰めを口にくわえたまま、隣の朔の手をつかんだ。


「行こ」


「は?」


「踊る。輪の中」


朔が何か言う前に、伊織は朔を引っぱって、輪の中へ飛びこんでいた。


村の人たちが歓声を上げて、二人のために手をつなぎ直した。


伊織は踊り方を知らなかった。朔も知らなかった。


二人とも、隣の村人の足を見て、見よう見まねで足を踏み鳴らした。右へ三歩、左へ三歩、くるりと回って、手を叩く。伊織が一拍遅れる。朔が逆に回る。二人がぶつかる。村の子どもたちが、腹を抱えて笑った。


伊織も笑っていた。腸詰めを口から落としそうになりながら、笑っていた。


輪の向こうで、見張り番の老人が、杖を持たずに踊っていた。三十年ぶりの膝で、誰よりも高く跳ねていた。


ガロが林檎酒のジョッキを掲げて、怒鳴った。


「おい伊織! 腕相撲の続き、踊りでやるか!」


「受けて立つ!」


伊織は朔の手を離さないまま、叫び返した。


【一曲 水城澪】


輪舞が三曲続いたあと、フィドルの男が、ゆっくりした曲を弾きはじめた。


輪がほどけて、二人ずつの組になっていく。


澪はテーブルの端で、林檎酒の杯を両手で包んでいた。


朔は、伊織から解放されて、焚き火のそばで息を整えていた。伊織は、ガロに引っぱられて、踊りの勝負の続きに連れていかれていた。


澪は杯をテーブルに置いた。


立ち上がって、朔の前まで歩いていった。


朔が顔を上げた。


澪はほんの少しだけ、ためらった。


日本の三年なら、ここで「疲れたでしょ、座ってたら?」と言っていた。誰かの気持ちを先に考えて、自分の言いたいことを、その後ろに隠していた。


澪は手を差し出した。


「一曲、踊ってください」


それから、付け足した。


「……私と」


朔は差し出された手を見た。


それから、澪の顔を見た。


澪は目をそらさなかった。手も、引っこめなかった。


朔が澪の手を取った。


ゆっくりした曲だった。二人とも、やっぱり踊り方は知らなかった。でも、ゆっくりなら、合わせられた。澪が一歩出れば、朔が一歩下がる。朔が回れば、澪がついていく。


焚き火の明かりが、澪の頬を橙色に染めていた。


「……ちゃんと、言えた」と澪は、朔の胸のあたりで、小さく言った。


「言えてた」


「前の私なら、『座ってたら?』って言ってた」


朔は少し笑った。


「知ってる」


澪は朔の肩に、そっと額を寄せた。


曲が終わるまで、二人とも、それ以上何も言わなかった。


【最初の一曲 黒瀬琴音】


祭りの最後に、村の人たちが、焚き火の前に樽を二つ並べて、即席の舞台を作った。


フィドルの男が、琴音を手招きした。


「戦の前の晩に、子どもたちに歌ってくれた姉ちゃんだろう。一曲、頼めないか」


琴音は首を横に振りかけた。


それから、止まった。


焚き火の向こうに、朔がいた。澪と踊り終えて、テーブルに戻ろうとしていた。


琴音は樽の上に立った。


村の人たちが静かになった。百人と少しの顔が、焚き火の明かりの中で、琴音を見上げていた。


琴音は朔を見た。


朔が足を止めた。


琴音が何も言わないうちに、朔は、焚き火の前の、樽のすぐ下まで歩いてきた。一番前に。


琴音の胸の中で、何かが、きゅっと鳴った。


――私がこっちで最初に歌うとき。一番前で聞いて。


屋根の上で、そう言った。最初の一曲は、朔のための曲だから、と。


子どもたちに歌った子守唄は、その曲ではなかった。昨日の太鼓を崩した歌も、その曲ではなかった。


これが、その曲だった。


琴音は目を閉じた。


最初の音は、小さかった。焚き火のはぜる音に、溶けてしまいそうなくらい。


それから、少しずつ、広がっていった。


言葉のある歌だった。日本の言葉の歌だった。村の人たちには、意味は分からない。でも、誰も、ざわつかなかった。


日本で、三年かけて書いた歌だった。ライブハウスの小さな舞台で、何度も歌おうとして、歌えなかった歌。客席の一番前に、聴いてほしい人がいなかったから。


今は、いた。


琴音は目を開けた。


一番前で、朔が、琴音を見上げていた。


琴音は魔法を使わなかった。音の輪も、銀色のきらめきも、出さなかった。ただ、歌った。自分の声だけで。


自分の音を、聞いてほしい人に。


歌が終わったとき、広場は、しんとしていた。


それから、誰かが手を叩いた。


見張り番の老人だった。続いて、村の女たち。子どもたち。ガロの組。莉子が、両手を振り回して叩いていた。伊織は、口笛を吹いていた。澪は、目もとを指で押さえながら、手を叩いていた。


琴音は拍手の中で、朔だけを見ていた。


朔は拍手をしていなかった。


ただ、琴音を見上げて、ひとこと言った。


「……届いた」


琴音は樽の上で、ふっと膝の力が抜けそうになった。


それを、ぐっとこらえて笑った。


【柵の上 佐伯恒一】


祭りの輪から少し離れて、恒一は、柵の内側の足場に腰かけていた。


セリナが踊らないのは知っていた。だから、誘わなかった。


足場が、きしんだ。


セリナが隣に来ていた。両手に、林檎酒の杯を二つ持っていた。


「くすねてきた」


「お前、それ、毎回言うな」


「毎回くすねてるからな」


セリナは杯をひとつ恒一に押しつけた。


二人で、柵の上から、祭りの明かりを見下ろした。焚き火のまわりで、伊織とガロが、踊りとは呼べない勝負を続けていた。


「……踊らねえのか」と恒一は言った。


「踊らない」


セリナは杯を傾けた。


それから、しばらくして、ぼそっと言った。


「お前が、教えるなら、考える」


恒一は林檎酒にむせた。


セリナはそっぽを向いていた。尻尾の先だけが、恒一の背中を、ぱたん、ぱたんと叩いていた。


「……俺も、知らねえよ。踊り」


「なら、二人とも下手だな」


セリナは足場から立ち上がった。恒一の手を取って、引っぱり上げる。


それから、柵の上の狭い足場で、祭りの音楽に合わせて、二人でぎこちなく一回だけ回った。


足場から落ちそうになって、恒一がセリナの腰をつかんだ。


セリナは恒一の胸に額をぶつけて、喉の奥で笑った。


【札 朝倉朔】


二日後、七人はリーヴェルに戻った。


ギルドの扉を開けると、昼間の広間は、いつものように冒険者たちで混み合っていた。


話し声が、ぴたりと止まった。


初めてここに来た日とは、違う止まり方だった。


先に戻っていたガロが、広間の真ん中の長テーブルに、足を投げ出して座っていた。七人を見ると、ジョッキを掲げた。


「よう。オークの将殺し……じゃなかった。将を帰したやつら」


広間の冒険者たちが、七人を見ていた。値踏みする目ではなかった。


受付の台の向こうで、栗色の髪の娘が、待ちきれないという顔で手招きしていた。


台の上に、羊皮紙が二枚置いてあった。


一枚は、ガロの字で書かれた報告書だった。娘が、それを声に出して読んだ。


「『砦の村の防衛において、Aランク、ガロの組は、自らの判断により、組ごと、Fランク「通りすがり」の指揮下に入った。オーク三百を退け、オークの将を降伏させた。村人に死者なし。以上の功により、「通りすがり」のランクの見直しを求める』」


広間が、ざわっとした。


Aの組が、Fの組の指揮下に入った。冒険者にとって、それがどういう意味なのか、ここにいる全員が分かっていた。


もう一枚は、砦の村からの書状だった。見張り番の老人の、震える字の署名と、村の人たちの名前がずらりと並んでいた。


娘は台の下から、銅の札を七枚取り出した。表に、Cと刻んである。


「規則では、Fから一度に上げられるのは、Cまでなんです」


娘は申し訳なさそうに、でも、嬉しそうに言った。


「……本当は、もっと上なのは、私が一番知ってますけど」


七人は、首の鉄のFの札を外して、銅のCの札を下げた。


広間の奥のテーブルから、誰かが立ち上がった。


七人が初めてここに来た日に、「髭はどうした、髭は」と笑った男だった。


男は少しばつが悪そうに頭をかいた。


それから、ジョッキを掲げた。


「……悪かったな。髭のこと」


伊織が吹き出した。


広間の冒険者たちが、次々にジョッキを掲げた。


【ひび 神崎伊織】


その日の夕方、伊織は、鍛冶工房の金床の前に立っていた。


白い髭を編んだ鍛冶師が、伊織の剣を、窓の光にかざしていた。刃の根もとから斜めに走るひびを、指の腹で、何度もなぞっていた。


「……オークの将の大剣を、まともに受けたか」


「一回だけ」


「一回で、これか」


鍛冶師は剣を金床の上に置いた。


「持つ。普通の魔物相手なら、まだ十分に持つ。だが」


鍛冶師は伊織の目を見た。


「前と同じじゃない。もう一度、あれと同じくらい重いのを正面から受けたら、ここから折れる」


伊織は黙って剣を見下ろした。


「打ち直すか。溶かして、同じ鋼で、新しく打つこともできる。重さも長さも、同じにしてやれる」


伊織は首を横に振った。


「これがいい」


「なぜだ」


伊織は剣の柄を握った。


濡れた手で選んだ柄。ヒュドラの首を焼いた刃。オークの将の大剣を一度だけ受けて、それでも折れなかった剣。


「ひびも、こいつのだから」


鍛冶師は長いこと伊織を見ていた。


それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「なら、せめて研いでやる。ひびのまわりに、無理がかからないように。……それと、受けるな。かわせ。あんたなら、できるだろう」


「うん」


鍛冶師が研いだ剣を、伊織は、工房の外で軽く振ってみた。


いつもと同じ重さだった。


でも、振り下ろして止めた瞬間、刃の根もとの奥で、ほんのかすかに、細い音がした。


伊織にしか聞こえないくらいの。いや、たぶん、琴音なら聞こえる。


伊織は剣を鞘に収めた。


「……受けない。かわす」


自分に言い聞かせるように、つぶやいた。


【古文書館 白川玲奈】


玲奈はギルドの隣の、石造りの古い建物の中にいた。


リーヴェルの古文書館。天井まで届く書棚に、羊皮紙の巻物と、革の表紙の本がぎっしり詰まっている。窓から差しこむ夕日に、埃がきらきら舞っていた。


ギルドの受付の娘に、魔物の記録を見られる場所を訊いたら、ここを教えられたのだった。


奥の大きな机の上に、地図が広げてあった。


この地方の地図だった。リーヴェル、エルム村、砦の村、東の沼地。その上に、赤いインクで、小さな印がびっしりと書きこまれていた。


玲奈は思わず、地図をのぞきこんだ。


印には、小さな字で日付が添えてあった。三年前、二年前、去年、今年。


古い印は、地図の北のほうに固まっていた。新しい印ほど、南へ下りてきている。


「……魔物の目撃の記録」


「触らないでくれるか。インクがまだ乾いていない」


机の向こうの書棚の陰から、男が顔を出した。


三十前後。くしゃくしゃの栗色の髪に、インクのしみのついた指。袖をまくった白いシャツの上に、くたびれた革のベストを着ていた。手に、丸めた羊皮紙を何本も抱えていた。


「冒険者か。……ああ、銅の札。新しいCの組か。ここは君たちの来るところじゃないよ。依頼の紙ならギルドの掲示板だ」


玲奈は地図から目を離さなかった。


「この印の場所、三年前のと今年のと、線でつなぐと、まっすぐ北から南へ動いてるように見える」


男の眉が、ぴくりと動いた。


「見えるだけじゃない。動いているんだ。三年分の目撃記録を全部集めて、場所を……」


「でも、目撃の記録は、人が多いところほど増える」


玲奈は地図の上のリーヴェルの印を指さした。


「南のほうが、町も村も多い。人が多いところで目撃が増えるのは、当たり前。魔物が南に動いたのか、南のほうが見る人が多いだけなのか、この地図だけじゃ分からない」


男が口を開けて、閉じた。


それから、抱えていた羊皮紙を机の上にどさりと置いた。


「……人口で割った」


「え」


「村ごとの人の数で、目撃の数を割った表が、ここにある。北の村は、人が減っているのに、目撃が増えている。南の村は、人の数は変わらないのに、目撃が増えている。……人の多さのせいじゃない」


玲奈は男が広げた表を見た。


細かい数字が、几帳面に並んでいた。


玲奈はしばらく黙ってそれを読んだ。


「……ちゃんとしてる」


「当たり前だ。三年かけた」


男は少しだけ得意げに鼻を鳴らした。それから、玲奈の顔を、初めてまともに見た。


「君、名前は」


「玲奈」


「エーベル。ここで、魔物の記録を集めている」


エーベルは地図のいちばん北の端を指さした。


山並みの手前に、小さな四角い印があった。


「北の古い迷宮だ。リーヴェルから北へ三日。何百年も前からある、地下へ何層も続く迷宮。……三年前から、その奥の魔物が、上の階へ上がってくるようになった。去年には、入口から出てきた」


「理由は」


「分からない」


エーベルはきっぱりと言った。


「分からないから、見に行きたい。でも、古文書館の研究者に護衛をつけてくれる組は、なかなかいない。迷宮の深いところまで行ける組は、なおさらだ」


エーベルは玲奈の首の、銅の札を見た。


「……Cの組では、浅い階までだな」


玲奈は手帳を開いた。北の古い迷宮、と書いた。三年前から。理由は、分からない。


それから、エーベルを見た。


「分からないって、ちゃんと言う人、好き」


エーベルが目を瞬いた。


玲奈は自分が何を言ったのか、言ってから気づいた。耳が、少し熱くなった。


「……研究者として、って意味」


「……ああ。もちろん」


エーベルもなぜか、咳払いをした。


古文書館の窓の外で、ギルドの鐘が、夕方を告げていた。


玲奈は手帳を閉じた。


「明日、仲間を連れてくる。迷宮の話、もっと聞かせて」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。