第45話「オークの将」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第45話「オークの将」
【申し込み 朝倉朔】
将からの使いが来たのは、昼の少し前だった。
黒い鎧のオークが一体、ひとりで森から出てきた。草地の真ん中まで歩いてくると、背負っていた旗竿を地面に突き立てた。二本の牙を染め抜いた、大きな黒い旗だった。
そのオークは、村の柵に向かって、ゆっくりと人の言葉で言った。
「七人の、頭。日が、真上。ここ。……ひとりで、来い」
それだけ言って、森へ戻っていった。
柵の上で、ガロが鼻を鳴らした。
「一騎打ちか。オークの将がよくやる手だ。……で、本当に一騎打ちで終わったためしはねえ」
「罠だね」と伊織。
「罠だ」と恒一。
集会所の前に、七人とガロが集まった。
玲奈が、手帳を開いていた。
「昨日、将は森の端の岩の手前から、最後まで見てた。太鼓が崩れた理由も、たぶん分かってる。誰が何をしたかも」
琴音が、こくりと頷いた。
「あの人、ずっと、こっちを見てた。……朔が叫ぶと、みんなが動く。それを、見てた音がした」
「俺を村から引き離して」と朔は言った。「俺の指示が届かないところで、ほかを崩す」
「なら、行かなきゃいい」とガロ。
朔は首を横に振った。
「行かなかったら、将はもう一度、残りの軍勢を集める。今度は太鼓なしでも退かない十体を先頭にして。……村の柵は、もう一回はもたない」
誰も、反対しなかった。
朔は、六人の顔を見た。それから、ガロに向き直った。
「ガロさん。少しだけ、七人で話させてください」
ガロは片眉を上げてから、肩をすくめて、集会所の外へ出ていった。
扉が閉まると、朔は声を落とした。
「将は、俺が叫ぶと全員が動く、と思ってる。だから、叫ぶ」
六人が、朔を見た。
「俺が向こうで大声で出す指示は、全部、逆だ。将に聞かせるための指示だから」
「本当のは?」と莉子。
「小さい声で言う。琴音には届く」
琴音が目を見開いて、それから、頷いた。
「届く。草地から見張り台までなら、ささやきでも」
「琴音が聞いたら、見張り台の上で、玲奈に伝える。ほかの全員には、鐘で」
「将が見張り台を狙ってきたら?」と澪。
「たぶん、狙ってくる」と朔は言った。「耳と雷を潰せば、俺たちの連携は止まる。将なら、そこを狙う」
恒一が、口の端を上げた。
「なら、見張り台の下で待ってりゃいい」
「伊織」
伊織が、顔を上げた。
「ひとりで来いって言われたけど、一騎打ちには立会人がつくものだろ。……来てくれるか」
伊織は、にっと笑った。
「最初から、そのつもり」
【草地 神崎伊織】
日が真上に来たとき、草地には、まぶしいほどの日差しが降っていた。
森の端に、将が立っていた。
昨日よりも、近くで見ると、さらに大きかった。伊織の倍は背が高い。黒い鉄の鎧の上からでも、腕と肩の厚みが分かる。牡牛のように反り返った二本の角飾りの兜。片手に下げた大剣は、刃の幅が伊織の胴ほどもあった。
将の後ろに、黒い鎧の親衛が十体、横一列に並んでいた。
朔と伊織は、二人で草地の真ん中まで歩いていった。
将が、伊織を見た。
「ひとり、と言った」
人の言葉だった。捕虜の隊長よりも、ずっと滑らかだった。
「立会人」と朔が言った。「一騎打ちには、つけるものだろ」
将は、喉の奥で低く笑った。
「人の決まり。……知っている」
将は、大剣を肩に担いだ。
「昨日、見た。お前、叫ぶ。仲間、動く。耳の女、太鼓、崩した。雷の女、堀、焼いた。弓の二人、太鼓、射た」
将は、一つずつ指を折った。
「お前たち、強い。強いのは、つながっているから」
将の黄色い目が、朔をまっすぐ見た。
「つながりを、切れば、弱い」
将が、片手を上げた。
後ろの親衛のうち四体が、一列から離れた。草地の端を回りこんで、村のほうへ走り出す。まっすぐ、見張り台のほうへ。
同時に、村の北側から、細い煙が立ちのぼった。
伊織は、思わず振り返りそうになった。昨日、北の柵が破られたときの光景が、頭をよぎった。
朔が、大声で叫んだ。
「北だ! 恒一、莉子、北へ回れ! 琴音と玲奈は見張り台を下りて、集会所へ逃げろ!」
将が、満足そうに目を細めた。
走っていく親衛の四体が、見張り台へ向かう足を、少しゆるめた。見張り台から下りてくる琴音と玲奈を、集会所の手前で捕まえるつもりだ。
伊織には、朔の唇が、ほとんど動かずに何かをつぶやいたのが見えた。
――北は囮。全員、そのまま。見張り台の下で待て。
聞こえなかった。でも、伊織には分かった。
伊織は、剣を抜いた。
「で、一騎打ちは、どっちから?」
将は、答えずに大剣を振りかぶった。
残りの六体の親衛が、一斉に左右に広がった。朔と伊織を、ぐるりと囲む。
一騎打ちでは、最初からなかった。
【見張り台の下 佐伯恒一】
恒一は、見張り台の下の、積んだ薪の山の陰にしゃがんでいた。
隣に、セリナ。少し離れた樽の陰に、ガロと、弓の女と、獣族の斥候。盾持ちの大男は、折れた腕を吊ったまま、集会所の戸口で槍を構えていた。
北の煙のほうには、誰も行っていなかった。
見張り台の上から、琴音の小さな声が降ってきた。
「……『北は囮。全員そのまま』。朔の声」
ガロが、恒一の横で目をむいた。
「おい、あいつ、さっき北へ回れって叫んでたぞ」
「叫んだのは、将に聞かせるほうだ」と恒一は言った。「本当のは、琴音にしか聞こえねえほう」
ガロは、口を開けて、閉じた。
草地のほうから、黒い鎧の四体が走ってきた。集会所の手前で足をゆるめて、見張り台の梯子のほうを見上げる。琴音と玲奈が下りてくるのを、待っている。
下りてこなかった。
四体が、顔を見合わせた。
一体が、梯子に手をかけた。
その手首に、セリナの矢が突き立った。
「今だ」
恒一が薪の山から飛び出した。山刀が、梯子の前の一体の膝の裏を払う。ガロの大剣が、二体目の盾を横から叩き割る。弓の女の矢が三体目の肩に、獣族の斥候の短剣が四体目の足首に。
太鼓なしでも怖くない連中は、さすがに強かった。膝を払われた一体は、すぐに起き上がって、恒一に斧を振り下ろしてきた。恒一は転がってかわす。斧が、さっきまで恒一のいた地面に深く食いこむ。
セリナが、その斧の柄を踏みつけた。
斧を抜こうとしたオークの顎を、恒一の山刀の柄頭が下から打ち上げた。
オークが、仰向けに倒れた。
四体が、ひとつずつ、地面に縫いとめられていった。
ガロが、肩で息をしながら、見張り台を見上げた。
「……逆の指示、か」
「五年も一緒にいりゃあ、叫び声の嘘くらい分かる」と恒一は言った。
ガロは、何か言いかけて、笑った。
「お前ら、本当に、何者なんだよ」
【背中 朝倉朔】
将の大剣が、横なぎに来た。
朔は、首の後ろのちりちりする感覚に従って、身を沈めた。大剣が、頭の上の空気を裂いていく。風圧だけで、髪が持っていかれそうだった。
同時に、背後の親衛が槍を突き出してくる。
その槍を、伊織が払った。
二人の背中が、ぶつかった。
「背中、預けるね」と伊織が言った。
「ずっと預けてる」
伊織が、ふっと笑ったのが、背中越しに伝わってきた。
六体の親衛が、二人を囲んで回っていた。将が、正面から大剣を振るう。親衛が、その合間を縫って左右から槍を突き出す。将の一撃をかわせば親衛の槍が来る。親衛を払えば、将の大剣が来る。
息の合った攻めだった。
おとといの盾の壁よりも、ずっと。
朔は、将の目を見た。将も、朔の目を見ていた。
将は、朔の視線の先を読んでいた。朔が左を見れば、左の親衛が下がる。右を見れば、右の親衛が槍を引く。朔が伊織に何かを言おうと口を開くと、その瞬間に将の大剣が飛んでくる。
指揮そのものを、読まれていた。
将が、大剣を真上から振り下ろした。
伊織が、剣で受けた。
受けた瞬間、硬い音がした。
伊織の剣の刃に、根もとから斜めに、細いひびが走っていた。
「……っ」
伊織の腕が、衝撃でしびれていた。それでも、剣を手放さずに、将の大剣を横へ流した。
将の目が、伊織の剣のひびを見た。
「次で、折れる」
伊織は、ひびの入った剣を見下ろした。
濡れた手で選んだ柄。ヒュドラの首を焼いた刃。
伊織は、剣を鞘に収めた。
「折らせない」
伊織の両の拳に、熱が集まっていった。陽炎が、拳のまわりで橙色に揺れる。
「これ、まだ、あたしの剣だから」
将が、低く唸った。
伊織が、素手で将の懐に飛びこんだ。大剣の内側。振るうには近すぎる距離。将が大剣の柄で伊織を打とうとする。伊織はそれを肘で受け、熱をこめた拳を将の脇腹の鎧の継ぎ目に叩きこんだ。
将の巨体が、半歩だけ揺れた。
その半歩のあいだに、朔は空を見上げた。
太陽が、ちょうど真上にあった。
将の角飾りの兜が、日差しを受けて黒く光っていた。重そうな兜だった。牡牛の角のように反り返った二本の飾りの重さを、顎の下の太い革紐と、鉄の留め金ひとつで支えている。
朔は、唇をほとんど動かさずに言った。
「琴音。玲奈に。……将の顎の留め金。次に将が大剣を振り上げたとき」
【留め金 白川玲奈】
見張り台の上で、琴音が玲奈の袖を引いた。
「将の顎の留め金。次に将が大剣を振り上げたとき」
玲奈は、手すりから身を乗り出した。
草地は、遠かった。
昨日、北の堀に雷を二回落とした。そのあと、膝が笑って立てなかった。今朝、澪に治してもらって、ようやく歩けるようになったところだった。
大きな雷は、もう落とせない。
でも、細いのなら。
玲奈は、右手の人差し指を、草地の将に向けた。
将の兜。顎の下。鉄の留め金。親指の先ほどの大きさ。
遠すぎる、と玲奈は思った。
それから、思い直した。
遠いなら、ちゃんと見ればいい。
玲奈は、息を整えた。風の向き。将の動き。朔と伊織の位置。将が大剣を振り上げる、その瞬間の、顎の高さ。
草地で、伊織が将の懐から飛びすさった。
将が、大剣を、真上に振り上げた。
「――今」
琴音の声と同時に、玲奈の指先から、針のように細い雷が走った。
空を、一本の青白い線が渡っていった。
将の顎の下で、ぱちん、と小さな音がした。
鉄の留め金が、弾け飛んだ。
【角の重さ】
留め金を失った兜が、ずるりと前へずれた。
牡牛の角のように反り返った二本の飾りの重さで、兜は将の額から目の上へ、一気に滑り落ちた。
将の視界が、黒い鉄でふさがれた。
大剣を振り上げたまま、将の動きが、一瞬だけ止まった。
その一瞬を、朔は待っていた。
朔が、将の右の膝へ飛びこんだ。刃は立てない。熱をこめた腕で、剣の腹を膝の外側に叩きつける。将の巨体が、がくりと傾いた。
伊織が、反対側から跳んだ。
傾いた将の、兜の上から。
熱をまとった両の拳を、兜の角と角のあいだに叩きこむ。
鉄の兜が、将の頭ごと、地面に向かって押しつけられた。
将が、膝をついた。
大剣が、将の手から離れて、草の上に倒れた。
まわりを囲んでいた六体の親衛が、動きを止めた。
伊織は、将の兜の上に片膝をついたまま、拳を将の顔の前で止めていた。陽炎が、まだ拳のまわりで揺れていた。
将は、兜を自分の手で押し上げた。黄色い目が、伊織を見た。それから、伊織の後ろに立つ朔を見た。
長いあいだ、将は何も言わなかった。
それから、ゆっくりと、大剣の柄から手を離した。
「……読んだ、つもりだった」
将の声は、低かった。
「お前の叫び。全部、嘘か」
「全部じゃない」と朔は言った。「一騎打ちのつもりで来たのは、本当だ」
将は、喉の奥で、ぐる、と笑った。
それから、短く吼えた。
囲んでいた六体の親衛が、槍を地面に置いた。
【翼】
将は、草の上にあぐらをかいて座った。
兜は、膝の横に置いてあった。兜を脱いだ将の顔は、思っていたより年を取っていた。牙の先が、少し欠けていた。
村の柵の前に、六人とガロの組が集まっていた。見張り台の下で縛り上げた親衛の四体も、恒一とセリナに引かれてきていた。
朔は、将の前に座った。
「なぜ、森を出た」
将は、しばらく黙っていた。
それから、北の空を見上げた。
晴れた空だった。北の地平線に、雪を頂いた山並みが、薄青く連なっている。
「北の山で、翼が、目を覚ました」
将は言った。
「我らの谷は、北の山の、ふもとにあった。三年前から、少しずつ。空から、影が来る。羊が消える。子どもが消える。……今年の夏、谷が、焼けた」
誰も、何も言わなかった。
「我らは、逃げてきただけだ」
将は、自分の膝の上の、大きな手を見下ろした。
「冬が来る。逃げてきた三百に、食うものがない。だから、村を奪うつもりだった。ゴブリンに鉄を渡して、先に土地を荒らさせた。……お前たちが来るまでは、うまくいっていた」
将は、朔を見た。
「殺さないのか」
朔は、首を横に振った。
「村の人に、死んだ人はいない。そっちも、昨日の戦いで逃げた二百は、ほとんど生きてる」
朔は、東のほうを指さした。森の向こうに、低い山がいくつも重なっている。
「東の山なら、人の村はない。冬を越せるかは、分からない。でも、ここを奪うよりは、ましだ」
将は、東の山を見た。
それから、もう一度、北の山を見た。
「翼は、南へ下りてくる。我らを追い出したように。……次は、お前たちの番だ」
将は、ゆっくりと立ち上がった。
朔の前で、片膝をついた。オークの礼のしかたなのだろう。それから、兜を拾い上げて、留め金のない兜を小脇に抱えた。
親衛たちの縄が解かれた。納屋から連れてこられた捕虜の隊長が、将の後ろに並んだ。隊長は、朔とすれ違うときに、一度だけ、朔の目を見た。
黒い旗を担いで、将と親衛と隊長は、森の中へ消えていった。東へ。
ガロが、長い息を吐いた。
「……オークの将を、殺さずに帰したやつなんて、初めて見たぜ」
【ひび】
夕方、伊織は集会所の裏の井戸のそばで、剣を膝に載せていた。
刃の根もとから斜めに、細いひびが走っていた。光にかざすと、ひびの奥がきらりと光る。
朔が、隣に座った。
「直るか」
「分かんない。リーヴェルの鍛冶屋に見せる」
伊織は、ひびを指でなぞった。
「あの将、次で折れるって言った。……たぶん、本当に折れてた」
「だから、収めたんだろ」
「うん」
伊織は、剣を鞘に戻して、膝の上で抱えた。
「濡れた手で選んだんだよね、これ。売れ残りの、重すぎる剣。……まだ、一週間も使ってないのに」
伊織の声が、小さくなった。
朔は、何も言わずに、伊織の肩に自分の肩をくっつけた。
伊織は、しばらく、そのまま井戸の水面に目を落としていた。
それから、朔の肩に、頭を乗せた。
「……背中、預けるって言ったら、ずっと預けてるって言ったよね」
「言った」
「あれ、ずるい」
「何が」
「かっこよすぎる。あの場面で」
伊織は、朔の肩に頭を乗せたまま、くすくす笑った。
朔は、北の空を見上げた。夕焼けの中で、雪を頂いた山並みが、赤く染まっていた。
翼が、目を覚ました。
南へ、下りてくる。
伊織の頭の重さを肩に感じながら、朔は、その山並みから、しばらく目が離せなかった。




