第44話「防衛戦」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第44話「防衛戦」
【二つの道 佐伯恒一】
夜明けの森から、太鼓が近づいてきていた。
どん。どど。どん。
腹の底に響く音だった。音が近づくたびに、柵の内側の空気が重くなる。村の男たちが、槍を握る手を何度も握り直していた。
恒一は見張り台の上から、森の端の獣道に目を凝らしていた。隣で、セリナが弓に弦を張っていた。
木々のあいだから、最初のオークが現れた。
一体。十体。五十体。
三百のオークが、黒い川のように森からあふれ出してくる。鉄の兜。丸い盾。槍と斧。その中ほどに、丸太に鉄の頭をはめた破城槌を、十体がかりで担いでいた。
軍勢の後ろ、森の端の高い岩の上に、三つの影が立っていた。顔に白い土を塗り、首から獣の骨を幾重にも下げている。それぞれの前に、太鼓。真ん中のひとつは、人の背丈ほどもある大太鼓だった。
呪い師だ、と恒一は思った。
黒い川が、獣道の分かれ目にさしかかった。
先頭が、右の道の倒木の前で止まった。
それから、左の道を見た。オークの背丈の高さで折れた枝。柔らかい土に残る、大きな足跡。
隊列の中ほどで、誰かが吼えた。
軍勢が、二つに割れた。
およそ百が、左の道へ。北の湿地のほうへ。残りの二百が、倒木を乗り越えて、正面の門へ。
「……割れた」
セリナが、横目で恒一を見た。
「お前の道、効いたな」
「お前の足跡もな」
恒一は、見張り台の下へ叫んだ。
「北に百! 正面に二百!」
琴音が、鐘の綱を引いた。
短く二回。長く二回。
――北にも来る。北の持ち場、そのまま。
【火矢 小鳥遊莉子】
最初に飛んできたのは、火矢だった。
空が、一瞬、赤い点で埋まった。
何十本もの火矢が弧を描いて、柵に、柵の向こうの屋根に、降ってくる。
柵に当たった火矢が、じゅっと音を立てた。
莉子が昨日、柵の隙間に編みこんだ生きた蔓と、その上に貼りつけた濡れた苔が、火をはじいていた。白い湯気が、柵のあちこちから立ちのぼる。
「……よし」
でも、全部ではなかった。
苔が薄かった北東の角で、蔓がぱちぱちと燃えはじめた。屋根に落ちた火矢が、藁に火をつけた。
「水!」
莉子が叫ぶより早く、子どもたちが動いていた。昨日、莉子が並ばせておいた桶の列。井戸から屋根まで、子どもたちが手から手へと桶を渡していく。トビーと同じくらいの男の子が、顔を真っ赤にして桶を差し上げていた。
莉子は、燃えている柵の角へ走った。
両手を、燃える蔓に押し当てる。熱い。でも、手を離さなかった。
燃えた蔓の根もとから、新しい蔓が伸びてくる。焦げた蔓を押しのけるように、青々とした蔓が隙間を編み直していく。
二本目の火矢が、莉子の頭の上をかすめた。
莉子は、伏せなかった。
「ごめんね。何回でも、借りるね」
柵に向かって、もう一度言った。
【門 神崎伊織】
二百のオークが、門の前の坂を駆け上がってきた。
叫び声はなかった。
それが、一番気味が悪かった。普通の軍勢なら、突撃のときには叫ぶ。自分を奮い立たせるために。でも、このオークたちは、口を閉じたまま、太鼓の拍に合わせて、黙々と走ってくる。
どん。どど。どん。
足音が、太鼓とぴったり重なっていた。
「来るぞ」
門の上の足場で、ガロが大剣を構えた。隣に、盾持ちの大男。弓の女と若い魔法使いは、門の脇の櫓から。獣族の斥候は、柵の内側を走り回って、穴の開きそうな場所を探している。
伊織は、門の真上に立っていた。
最初のオークが、柵に取りついた。
弓の女の矢が、そのオークの肩に突き立った。
オークは、止まらなかった。
肩に矢を立てたまま、柵をよじ登ってくる。顔色ひとつ変えない。痛そうな素振りすら、なかった。
二本目の矢が、太腿に刺さった。
それでも、止まらなかった。
伊織の剣が、柵の上に手をかけたそのオークを、斧ごと叩き落とした。
落ちたオークは、地面に転がって、すぐに起き上がった。斧を失い、肩と太腿から血を流しながら、もう一度、柵に手をかけた。
「……嘘でしょ」
伊織の背中が、冷たくなった。
痛くない。怖くない。退かない。
隊長の言葉が、そのまま目の前にあった。
オークが、次々に柵に取りつく。倒れたオークの背中を踏み台にして、その上を次のオークが登ってくる。一体を落としても、すぐ次が来る。
ガロの大剣が唸った。盾持ちの大男が、柵の上に乗りかかってきたオークを盾ごと押し返す。若い魔法使いの杖から、小さな炎の玉が飛ぶ。
それでも、押されていた。
坂の下から、重い音がした。
破城槌だった。
十体のオークが担いだ丸太が、門に叩きつけられる。門が、みしりと鳴った。
もう一度。門の閂が、ぎしりと曲がった。
「伊織! 門の下!」
朔の声だった。見張り台の下から、戦場の全体に目を配っていた。
伊織は、門の内側へ飛び降りた。
三度目の破城槌が来た。門の板が、内側へたわむ。伊織は、たわんだ門に、背中から体当たりした。熱が、背中から脚へ集まる。
門が、押し返された。
四度目。伊織の足が、地面を削りながら後ろへ滑った。
隣に、ガロが飛び降りてきた。大剣を地面に突き立てて、肩で門を押さえる。
「……重えな、こいつら」
ガロの声が、さすがに軋んでいた。
「痛くないから」と伊織は言った。「腕が折れても、押してくる」
五度目。
門の板の隙間から、槍が突き出された。熱は、門を押さえる背中と脚に集めていた。肩まで、回す余裕がなかった。伊織は、身をよじった。間に合わなかった。槍の穂先が、伊織の左肩を斬り裂いた。
「っ……!」
熱い。痛い。
伊織は、歯を食いしばって、門から背中を離さなかった。
門の上の足場から、盾持ちの大男が叫んだ。オークの斧を盾で受けた拍子に、腕がおかしな方向に曲がっていた。
【北の柵 佐伯恒一】
北の湿地は、百のオークで黒く埋まっていた。
玲奈が昨日、小川から水を引かせた堀が、柵の前を横切っている。オークたちは、ためらいもせずに、腰まで水に浸かって堀を渡りはじめた。
痛みを感じないなら、冷たさも感じないのだろう。
「玲奈」
恒一が呼んだときには、玲奈はもう、柵の足場の上で両手を堀に向けていた。
「全員、水から離れて。柵に触らないで」
村の男たちが、柵から飛びのいた。
玲奈の両手から、雷が落ちた。
一本の糸ではなかった。滝のような、太い光の束だった。
雷は、堀の水面を走った。水の中にいた五十体近いオークが、一斉に身をこわばらせた。痛みは感じなくても、体は動かない。雷が筋を縛っていた。
オークたちが、ばたばたと水の中に倒れていく。
湿地の上に、焦げた水の匂いが広がった。
玲奈は、肩で息をしていた。
「……一回目」
水に入る前だったオークたちが、倒れた仲間の上を渡って、また堀に踏みこんできた。
恒一は、矢をつがえた。
隣で、セリナも矢をつがえていた。
二人の矢が、堀を渡りきったオークの足を、一本ずつ射抜いていく。痛みは感じなくても、足の筋を射抜かれれば、立てない。オークたちが、柵の手前で、ひとり、またひとりと崩れていく。
それでも、数が多かった。
北の柵の真ん中で、腐りかけていた丸太の残りが、オークの体当たりでめりめりと傾いた。
柵の一枚が、倒れた。
開いた隙間から、オークが三体、四体と、村の中へ飛びこんでくる。
村の男たちが、悲鳴を上げて槍を突き出した。槍の一本が、オークの腹に刺さった。オークは、腹に槍を刺したまま、槍ごと男を突き飛ばした。
恒一は、弓を背中に放り投げた。腰の山刀を抜いて、柵の上から飛び降りる。
着地した瞬間、背中に気配がした。
オークの斧が、恒一の背中めがけて振り下ろされる――その斧が、空中で止まった。
セリナの矢が、斧の柄を握る手首を、柵の上から射抜いていた。
恒一は振り返らずに、正面のオークの足を山刀で払った。
セリナが、柵の上から飛び降りてきた。恒一の背中に、自分の背中を押しつける。
二人のまわりを、オークが四体、囲んでいた。
「三年ぶりだな」と恒一は言った。
「何がだ」
「これ」
セリナが、鼻を鳴らした。背中越しに、セリナの体温が伝わってくる。
「……三年ぶりなのに、ずれてねえ」
「ずれるかよ」
二人は、同時に動いた。
恒一の山刀が右の二体の足を払い、セリナの短剣が左の二体の手首を裂く。倒れたオークの上で、二人の背中は、一度も離れなかった。
倒れた柵の隙間に、莉子が駆けつけてきた。両手を地面につく。隙間から蔓が噴き出して、倒れた丸太の代わりに、緑の壁が立ち上がった。
「北、閉じた!」
【手当て所 水城澪】
集会所の床は、もう怪我人で埋まっていた。
村の男が三人。腹を槍で突かれた男。斧で腕を割られた男。頭から血を流して、意識のない男。ガロの組の盾持ちの大男は、折れた腕を自分で押さえて、壁にもたれていた。
澪は、ひとりずつ、手を当てていった。
腹の傷。深い。光を流しこむ。血が止まる。傷が閉じる。次。
腕の傷。骨まで達している。光。次。
足りなかった。
澪の手は二本しかない。怪我人は、次々に運びこまれてくる。
澪が一人目を治しているあいだに、二人目の血が床に広がっていく。
「澪さん!」
昨日、包帯の作り方を教えた村の女のひとりが、二人目の男の腕の付け根を、布できつく縛っていた。昨日、澪が教えたとおりの結び方だった。
「血、止まってます! 縛ったら、止まりました!」
三人目の男の頭を、別の女が布で押さえていた。強く、まっすぐに。
澪は、一瞬、目の奥が熱くなった。
自分ひとりで全部を治す必要は、なかった。
「ありがとう。そのまま押さえてて。すぐ行く」
澪は、腹の傷の男を治し終えると、立ち上がった。
集会所の扉が開いた。
伊織が、左肩を押さえて立っていた。肩から腕まで、血で真っ赤だった。
「澪。……三秒、ちょうだい」
澪は、伊織の肩に手を当てた。光。
伊織は、治りきるのを待たずに、もう扉のほうを向いていた。
「伊織、まだ」
「門が、もたない」
伊織の声が、かすれていた。
「あいつら、痛くないの。倒しても倒しても、起き上がってくる。……あたしたちが疲れるほうが、先」
澪は、伊織の背中を見た。
それから、集会所の窓の外の、見張り台を見上げた。
見張り台の上で、琴音が、目を閉じて、じっと森のほうを向いていた。
【拍の隙間 黒瀬琴音】
琴音は、ずっと、太鼓を聞いていた。
どん。どど。どん。
盾の壁の前で聞いた、隊長の吼え声を思い出した。あの声にも、拍があった。
最初は、ひとつの太鼓に聞こえた。でも、違った。
三つあった。
真ん中の大太鼓が、どん、と打つ。その半拍あとに、左右の小さな太鼓が、どど、と続く。大太鼓が拍を決めて、小さな二つがそれを追いかけている。三つの音が重なって、ひとつの大きな拍になる。
その拍に、オークたちの足音が、ぴったり重なっていた。
琴音は、門の前のオークの足音を聞いた。柵を登るオークの息を聞いた。
太鼓と足並みがそろっているオークの心臓は、まったく乱れていなかった。肩に矢が刺さっても、腹を槍で突かれても。
でも、ひとりだけ、違うオークがいた。
門の前で、伊織に叩き落とされて、仲間の足の下に転がったオーク。倒れていたあいだ、太鼓の拍からはずれていた。
そのオークの心臓が、一瞬だけ、乱れていた。
どくどくどく、と。怖がっている音だった。痛がっている音だった。
起き上がって、また太鼓の拍に足並みを合わせた瞬間、心臓の乱れは消えた。
琴音は、目を開けた。
「……拍に乗ってるあいだだけ、なんだ」
太鼓の拍に、自分の体の拍を合わせているあいだだけ、恐れと痛みが消える。拍からはずれたら、戻る。
なら、拍を乱せばいい。
でも、三つの太鼓を、声だけで打ち消すのは無理だった。大太鼓は、人の背丈ほどもある。琴音の声がどれだけ大きくても、あの音には勝てない。
打ち消すんじゃない、と琴音は思った。
ずらす。
小さな二つの太鼓は、大太鼓を聞いて、半拍あとに打っている。小さな太鼓を叩く呪い師は、大太鼓の音を聞いているのだ。
なら、小さな太鼓の呪い師に、偽の大太鼓を聞かせればいい。本物より、ほんの少しだけ早い、偽の「どん」を。
小さな太鼓が、偽の拍を追いかける。大太鼓と、ずれる。三つの太鼓の拍が、ばらばらになる。
琴音は、見張り台の手すりから身を乗り出した。
「朔!」
見張り台の下で、朔が顔を上げた。
「太鼓の拍、崩せる。でも、私の声、長くはもたない。……たぶん、百数えるくらい」
朔は、一瞬だけ琴音の顔を見た。それ以上は、何も訊かなかった。
「百で足りる。全員に、合わせさせる」
朔は、振り返って叫んだ。
「澪! 琴音の喉、頼む! 恒一! 太鼓の位置!」
「森の端の岩の上だ。三つ。真ん中がでかい」と恒一の声が、北の柵から返ってきた。
「射抜けるか」
一拍の間があった。
「……セリナとなら」
朔は、門のほうを向いた。
「伊織、ガロさん! 太鼓が乱れたら、門の前のやつらが止まる。その一瞬で、破城槌を潰す! 莉子は門! 玲奈、北の堀、もう一回いけるか!」
「……いける。一回なら」と玲奈の声。
澪が、集会所から走ってきて、見張り台の梯子を駆け上がってきた。琴音の隣に立って、琴音の喉に、そっと手を当てる。
「いつでも。……声、潰させないから」
琴音は、目を閉じた。
太鼓を聞く。
どん。どど。どん。
大太鼓が、次に「どん」と打つ、ほんの少し前。
琴音は、歌った。
低い、短い、一音。
大太鼓の「どん」と、同じ高さ、同じ響き。でも、本物より、半拍の半分だけ早い。
森の端で、小さな太鼓の片方が、琴音の偽の「どん」を追いかけて、早く打った。
どど。どん。
ずれた。
琴音は、もう一度、偽の一音を置いた。今度は、もう片方の小さな太鼓に向けて。
どど。どど。どん。
二つの小さな太鼓が、ばらばらの拍を打ちはじめた。大太鼓だけが、ひとり取り残される。
三つの太鼓が重なってできていたひとつの拍が、ほどけていく。
どん。どど。どどん。どど。
門の前で、オークたちの足並みが、乱れた。
太鼓の拍に合わせて走っていた足が、どの拍に合わせればいいか分からなくなって、もつれる。
柵をよじ登っていたオークが、一瞬、手を止めた。
肩に矢を立てたまま登っていたオークが、自分の肩を見た。
そして、吼えた。
叫び声だった。痛みの声だった。
門の前のオークたちの心臓が、琴音の耳の中で、一斉に乱れはじめた。
どくどくどくどく。
怖がっている音。痛がっている音。
琴音は、歌い続けた。喉が焼けるように熱い。その熱を、澪の手が、すぐ横から冷ましてくれていた。
【反撃 朝倉朔】
太鼓の拍がほどけた瞬間、門の前の空気が変わった。
朔には、それが見えた。
恐れを忘れていた二百が、一斉に、自分の傷の痛みと、目の前の柵の高さと、仲間の倒れた体を、思い出していた。
止まった。
ほんの一瞬だけ。
「今だ!」
朔の声と、伊織が門を開けたのが、同時だった。
門の前で、破城槌を担いでいた十体のオークが、目の前の門が内側から開いたことに、ぽかんとしていた。
伊織が、開いた門から飛び出した。
熱をまとった剣が、破城槌の丸太の真ん中に振り下ろされる。鉄の頭のついた丸太が、二つに割れた。
ガロが、伊織の隣に並んで、大剣を横なぎに払った。破城槌を担いでいたオークたちが、割れた丸太ごと坂を転がり落ちていく。
伊織とガロの後ろで、莉子が門の両脇の地面に手をついた。蔓が噴き出して、開いた門の左右に、緑の袖のような壁を作る。門から外へ出られるのは、伊織とガロの二人の幅だけ。門の前で、オークが横から回りこめない。
北の柵で、玲奈が、膝をつきかけながら、もう一度両手を堀に向けた。
二度目の雷が、堀の水を走った。
太鼓の拍を失って、堀の中で立ちすくんでいたオークたちが、まとめて倒れた。
玲奈は、そのまま足場の上に座りこんだ。
「……おしまい。もう、出ない」
それでも、玲奈は手帳を開いて、震える手で一行だけ書いた。
――太鼓の拍に乗っているあいだだけ。
見張り台の上では、恒一とセリナが、並んで弓を引いていた。
狙うのは、森の端の岩の上。人の背丈ほどもある大太鼓。
遠かった。普通の矢なら、届かない距離だった。
「風、右から。弱い」とセリナ。
「ああ」
琴音の歌は、まだ続いていた。でも、声がかすれはじめていた。百まで、もう少し。
二人の弦が、同時に鳴った。
二本の矢が、朝の空に、ゆるい弧を描いた。
一本は、大太鼓の皮の真ん中に。もう一本は、そのすぐ横に。
大太鼓の皮が、ぱん、と裂けた。
どん、という音が、途中で、ばすん、と潰れた。
森の端の岩の上で、呪い師たちが、裂けた大太鼓を見下ろして、凍りついていた。
小さな太鼓の音が、ひとつ、またひとつと止まった。
戦場から、太鼓の音が消えた。
琴音の歌も、そこで止まった。
琴音は、見張り台の手すりにもたれて、ずるずると座りこんだ。澪が、その肩を抱きとめた。
「……百、数えた?」と琴音がかすれた声で訊いた。
「九十七」と澪が言った。「十分」
太鼓の消えた戦場で、オークたちは、自分たちが何をしているのかを、初めて思い出したようだった。
傷の痛み。目の前の柵。倒れた仲間。開いた門の前に立つ、赤い血を肩につけた細い女と、大剣の大男。
一体のオークが、槍を取り落として、森のほうへ後ずさった。
それが、合図になった。
二百のオークが、崩れた。
坂を転がるように、森へ向かって逃げていく。北の湿地からも、生き残ったオークたちが、仲間の体を担いで森へ戻っていく。
柵の上で、村の男たちが、槍を突き上げた。
声にならない声が、村じゅうから上がった。
集会所の窓から、子どもたちが顔を出していた。トビーと同じくらいの男の子が、桶を抱えたまま、泣きながら笑っていた。
門の前で、伊織が剣を下ろした。
左肩の血は、もう止まっていた。でも、腕が上がらないくらい、疲れていた。
伊織は、見張り台の下の朔のほうを振り返った。
朔も、伊織を見ていた。
二人とも、何も言わなかった。
伊織が、血のついた手で、小さく親指を立てた。
朔は、ほんの少しだけ、笑った。
【角の兜】
軍勢が森に消えたあと、ひとつだけ、消えない影があった。
森の端の、太鼓の岩の手前。
一体のオークが、立っていた。
ほかのオークより、さらに頭ひとつ大きい。黒い鉄の鎧。兜には、牡牛のように反り返った二本の角飾り。片手に、刃の幅が人の胴ほどもある大剣を下げていた。
まわりに、同じような黒い鎧のオークが十体ほど。どれも、逃げていなかった。太鼓が止まっても、震えてもいなかった。
角の兜のオークは、村を見ていた。
柵を。開いた門を。門の前に立つ伊織とガロを。
それから、見張り台の下の、朔を。
距離は、矢の届くほど離れていた。それでも、朔には分かった。
あれは、朔を見ている。
角の兜のオークは、ゆっくりと大剣を持ち上げた。
切っ先を、まっすぐ、朔に向けた。
それから、何も言わずに背を向けて、黒い鎧の十体を連れて、森の中へ消えていった。
恒一が、見張り台から下りてきて、朔の隣に立った。
「……将だな」
朔は、森の暗がりを見たまま、頷いた。
「三百のうち、逃げたのは二百ちょっと。あいつのまわりの十体は、太鼓がなくても退かない」
恒一は、低く言った。
「あいつらは、太鼓なしで、怖くない連中だ」




