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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
43/57

第43話「砦の村」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第43話「砦の村」


【丸太の柵 朝倉朔】


砦の村は、森のすぐ手前の、ゆるやかな丘の上にあった。


人の背の二倍ほどもある丸太を、隙間なく地面に打ちこんだ柵が、村をぐるりと囲んでいる。柵の内側には、木造の家が四十軒ほど。真ん中に井戸と、石造りの小さな集会所と、丸太を組んだ見張り台がひとつ。見張り台のてっぺんには、青銅の鐘が吊るしてあった。


森は、柵から矢の届くほどの距離で、黒々と口を開けていた。


七人が門の前に着いたのは、昼過ぎだった。後ろには、縄で縛ったオークの隊長が、恒一の引く馬の背に揺られていた。


門番の若者が、隊長を見て悲鳴を上げかけた。


柵の上から、白い髭の老人が身を乗り出した。古びた革の胸当てに、刃こぼれした長剣。この村の見張り番だった。


「エルムからの早馬で、話は聞いとる。……三百だと?」


「三百です」と朔は言った。「早ければ、明日の朝」


老人は、長いこと黙っていた。それから、柵の内側を振り返った。


井戸のまわりで、女たちが水を汲む手を止めて、こちらを見ていた。集会所の前で、子どもたちが固まっていた。


「この村には、剣を振れる男が十五人しかおらん」


老人は、門を開けさせた。


「それでも、ここを捨てて逃げれば、森の獣にやられる。……何をすればいい」


朔は、すぐには答えなかった。


門をくぐって、村の中を歩いた。柵の内側をひと回りして、丸太を一本ずつ手で叩いていく。井戸をのぞく。見張り台に登って、森を見る。村の裏手の、小川の流れを見る。


六人は、言われる前に、それぞれ別の方向へ散っていた。


朔が見張り台から下りてくると、六人がもう戻ってきていた。


「柵の北側、丸太の根元が三か所腐ってる」と恒一。「押されたら倒れる」


「隙間も多い。指が三本入るのが、全部で四十二か所」と莉子。「火矢、入っちゃうよ」


「裏の小川、堀まで水を引ける」と玲奈。「高さが足りる。掘るのは三十歩だけ」


「手当てできる場所がない。集会所を使わせてもらえるか、訊いてくる」と澪。


「鐘、音がいい。遠くまで届く」と琴音。「鳴らし方を決めておけば、合図に使える」


伊織は、柵の門を両手で押して、首をかしげていた。


「門、思ったより軽い。オーク三体で押したら、開く」


見張り番の老人が、目を丸くして七人を見比べた。


「……あんたら、村をひと回りしただけで」


朔は、老人に向き直った。


「柵の北側の腐った丸太、替える木はありますか。それと、村の人に手伝ってほしいことが、たくさんあります」


【ガロ 神崎伊織】


ガロの組が着いたのは、日が傾きはじめた頃だった。


五頭の馬が、土煙を上げて門の前に止まる。先頭のガロが、大剣を背負ったまま馬から飛び降りた。後ろに、盾を担いだ大男、長弓を背負った女、杖を持った若い男、それに、狐のような三角の耳をした獣族の斥候。


ガロは村を見回して、口笛を吹いた。


柵の北側では、村の男たちが新しい丸太を打ちこんでいた。柵の隙間という隙間に、莉子が生きた蔓を編みこんでいて、柵は丸太の茶色と蔓の緑の縞模様になっていた。村の裏手からは、小川の水が、玲奈の掘らせた溝を通って堀へ流れこみはじめている。集会所の前では、澪が村の女たちを集めて、布を裂いて包帯を作らせていた。


「……半日で、これか」


ガロは、伊織を見つけて、にやりと笑った。


「よう。ヒュドラの剣の嬢ちゃん」


「伊織」


「伊織。で、ここの指揮は誰が執ってる」


伊織は、見張り台の下で村の男たちと話している朔を、顎でしゃくった。


ガロの笑いが、すっと引っこんだ。


「Fの組の頭か」


「文句ある?」


「ある」


ガロは、正直だった。


「俺の組はAだ。五年、この辺りの森で、オークとも何度もやりあってる。三百の軍勢を相手にするのに、Fの組の指示で動けって言われて、はいそうですかとは言えねえ」


後ろで、盾持ちの大男が頷いた。弓の女は、肩をすくめていた。


伊織は、少し考えた。


それから、村の真ん中の井戸のそばに置いてあった、樽を指さした。


「じゃあ、腕比べしよう。あたしが勝ったら、朔の指示で動いて。ガロが勝ったら、ガロが指揮」


ガロが、目をむいた。


「腕比べ?」


「腕相撲。剣でやったら、どっちか怪我するでしょ。明日、二人とも要るし」


ガロは、伊織の細い腕を見て、それから自分の丸太のような腕を見た。


それから、腹の底から笑い出した。


「いいぜ。乗った」


井戸のまわりに、あっという間に人が集まった。村の男たち、女たち、子どもたち。ガロの組の四人。七人も、手を止めて集まってきた。


樽の上で、伊織とガロが右手を組んだ。


ガロの手は、伊織の手がすっぽり隠れるほど大きかった。


「始め」と、見張り番の老人が言った。


ガロが、一気に力を込めた。


樽が、みしりと鳴った。


伊織の腕が、ぐっと傾いた。指三本分。指五本分。村の男たちから、ああ、と声が漏れる。


伊織は、歯を食いしばっていた。それでも、熱は使っていなかった。


「……ずるは、しない」


伊織は、ガロの目を見たまま言った。


「熱、使ったら、あたしの勝ちだけど。それ、腕相撲じゃないから」


ガロの眉が、ぴくりと動いた。


伊織の腕が、止まった。


傾いたまま、それ以上は倒れなかった。ガロの腕の筋が浮き上がる。伊織の額に汗が浮かぶ。樽が、また、みしりと鳴った。


十数える。二十数える。


伊織の腕が、じりじりと戻りはじめた。


指一本分。二本分。真ん中まで。


村の子どもたちが、樽のまわりで跳ねながら叫んでいた。


真ん中で、二人の腕が、ぴたりと止まった。


どちらも、動かなかった。


ガロの顔が、真っ赤になっていた。伊織の腕は、細かく震えていた。


ばきん、と音がした。


樽の蓋が、二人の肘の下で、真っ二つに割れた。


二人とも、肘を支えるものを失って、前につんのめった。


一瞬、静かになった。


それから、ガロが笑い出した。割れた樽の上に手をついたまま、肩を揺らして、腹を抱えて。


「引き分けだ、引き分け!」


伊織も、つられて笑った。腕が、まだじんじんしていた。


ガロは、笑いをおさめると、立ち上がった。それから、見張り台の下の朔のほうへ、大股で歩いていった。


朔の前で、止まる。


「熱を使えば勝てたのに、使わなかった。……あんたの組の嬢ちゃんは、そういうやつだ」


ガロは、親指で自分の胸を叩いた。


「村をひと回りしただけで、腐った丸太の数まで当てる組の頭なら、文句はねえ。明日は、俺の組ごと、あんたの指示で動く」


朔は目を見開いてから、頷いた。


「頼みます。ガロさんの組には、門をお願いしたい。一番重いところです」


ガロは、にやりと笑った。


「分かってるじゃねえか」


【偽の道 佐伯恒一】


日が沈む前に、恒一は森に入った。


セリナが、当たり前のようについてきていた。


森の中は、静かだった。静かすぎた。鳥の声が、ひとつもしない。


二人は、足音を立てずに、木の根から木の根へと渡っていった。セリナが先、恒一が後。三年ぶりなのに、どちらも、どこに足を置けばいいか分かっていた。


しばらく歩いたところで、セリナが手を上げた。


木々の向こうに、煙が見えた。


いくつもの焚き火。そのまわりに、オークの影。数えきれないほど。森の中の開けた場所に、天幕がいくつも張られていた。


「……三百は、いるな」とセリナが囁いた。


「ここから砦まで、半日」


恒一は、地面に膝をついて、オークの野営地から村へ続く獣道を見た。踏み固められた道が一本。それを使って、明日の朝、三百が来る。


「一本道だ。全部まとめて、正面から来る」


「全部まとめて来られたら、柵がもたねえ」


「だから、分ける」


恒一は、獣道の途中の分かれ目まで戻った。


右へ行けば村の正面。左へ行けば、村の北側の湿地へ抜ける。北側の柵は、さっき村の男たちが新しい丸太に替えたばかりだ。そして、湿地の手前には、玲奈が小川から水を引いた堀がある。


恒一は、右の道の入口に、倒木を一本、自然に倒れたように転がした。それから、左の道の枝を何本か、オークの背丈の高さで、ちょうど誰かが通ったように折った。


セリナは黙ってそれを眺めていた。


それから、自分も手を貸した。左の道の地面に、昨日の雨で柔らかくなった土の上に、大きな足跡を、いくつか、つけていく。オークの足の形に似せて。


恒一が、手を止めた。


「……上手いな」


「お前が教えた」


セリナは、顔も上げずに言った。


「三年前。鹿を、罠のほうへ追いこむやり方。忘れたのか」


恒一は、忘れていなかった。


ただ、セリナがそれを覚えていてくれたことが、思っていたより、ずっと嬉しかった。


帰り道、森の端で、セリナが足を止めた。


村の柵の上に、明かりがともりはじめていた。見張り台の上の小さなランプ。井戸のそばの焚き火。集会所の窓。


「……明日、あそこを守るのか」


「ああ」


セリナは、しばらく村の明かりに目を向けていた。


それから、恒一の手を、黙って握った。


狩人の、硬くて温かい手だった。


握ったまま、二人で森を出た。村の門の明かりが見えるところまで、どちらも手を離さなかった。


【捕虜 朝倉朔】


夜、朔は、村の納屋に縛られているオークの隊長の前に座っていた。


隣に琴音がいた。玲奈は戸口に立って、手帳を開いていた。


隊長は、縄で柱に縛られたまま、黄色い目を朔に据えていた。


「明日、三百が来る」と朔は言った。


隊長は、答えなかった。


朔は、隊長の前に、水の入った木の椀を置いた。それから、縄をほんの少し緩めて、隊長の手が椀に届くようにした。


隊長は、長いこと椀から目を離さなかった。


それから、椀を取って、一息に飲み干した。


「……お前、強い」


低い、ざらついた声だった。人の言葉だった。


琴音が、小さく息を呑んだ。


「人の言葉、分かるのか」


「少し。……隊長、覚える。人と、取引、する」


隊長は、空の椀を床に置いた。


「お前の雌、盾の壁、崩した。強い。お前、継ぎ目、見た。強い」


「雌じゃない。伊織だ」


隊長は、喉の奥で、ぐる、と笑うような音を立てた。


朔は、まっすぐ隊長を見た。


「明日、三百はどう来る」


隊長は、黙った。


琴音が、朔の袖を、ほんのわずかに引いた。隊長の心臓の音を聞いていたのだ。迷っている音だった。


やがて、隊長が言った。


「……言わない。仲間だ」


それから、少し間を置いて、付け足した。


「でも、ひとつ、言う。お前、俺の部下、殺さなかった」


隊長の黄色い目が、朔を見た。


「太鼓。……明日、太鼓、鳴る。呪い師の太鼓。太鼓鳴ると、我ら、怖くない。痛くない。退かない」


隊長は、ゆっくり言った。


「太鼓鳴ったら、我ら、止まらない。お前たち、全部、死ぬまで。……だから、逃げろ。今夜」


戸口で、玲奈のペンが止まった。


朔は、しばらく隊長の顔を見返した。


それから、立ち上がった。


「教えてくれて、ありがとう。でも、逃げない」


隊長は、目を細めた。


「……なぜ」


「この村には、百人いる。子どもも」


隊長は、何も言わなかった。


納屋を出ると、琴音が、朔の袖をつかんだまま言った。


「……あの人、嘘ついてなかった。太鼓のこと、本当に怖がってた。自分のことなのに」


玲奈が、手帳に一行書いた。


――太鼓が鳴ると、恐怖と痛みが消える。退かなくなる。


「恐れを知らない三百」


玲奈が、ぽつりと言った。


琴音は、自分の喉に手を当てていた。


「太鼓の音なら、私、聞ける」


琴音の目が、暗がりの中で光っていた。


「聞けるなら、崩せる。……かもしれない」


【子守唄 黒瀬琴音】


夜が更けると、村の子どもたちが眠れなくなった。


集会所に集められた子どもたちが、毛布にくるまって、窓の外の黒い森を見ている。誰も泣いていなかった。泣くのも忘れるくらい、怖がっていた。


琴音は、集会所の真ん中に座った。


最初は、声を出さなかった。子どもたちの息の音を、ひとつずつ聞いていた。速い息。浅い息。止まりそうな息。


それから、小さく、歌いはじめた。


言葉のない歌だった。日本で、ライブハウスの小さな楽屋で、ひとりで口ずさんでいた旋律。誰にも聴かせたことのない歌。


集会所の空気が、少しずつ、やわらかくなっていった。


速かった息が、ひとつ、ゆっくりになる。浅かった息が、ひとつ、深くなる。


琴音は、魔法を使っていなかった。ただ、歌っていた。


一番小さな女の子が、琴音の膝に頭を乗せて、眠った。


それを見た隣の男の子が、毛布を頭までかぶって、目を閉じた。


戸口に、莉子が立っていた。大鍋の煮込みを配り終えて、エプロンの代わりに腰に巻いた布で手を拭いていた。


莉子は戸口の柱にもたれて、琴音の歌を聴いていた。


歌が終わると、集会所の中は、寝息の音だけになっていた。


莉子が、小さな声で言った。


「……琴音ちゃん、それ、魔法?」


琴音は、首を横に振った。


「ただの、歌」


莉子は、少し笑った。


「明日、ちゃんと、届くといいね」


琴音は、膝の上で眠る女の子の髪を、そっと撫でた。


最初にこっちで歌う一曲は、朔のための曲。屋根の上で、そう言った。


これは、その曲ではなかった。


でも、届けたい相手がいる歌は、こっちでも、ちゃんと届く。それが分かったのは、少しだけ、嬉しかった。


【続き 神崎伊織】


見張り台の上は、風が冷たかった。


真夜中の見張りは、伊織と朔の番だった。


森は、月の光の下で、黒い海のように広がっている。その向こうの、オークの野営地のあたりだけが、焚き火の明かりでぼんやり赤い。


伊織は手すりにもたれて、森を眺めていた。


朔は、その隣にいた。


二人とも、しばらく何も言わなかった。


「……ねえ」


伊織が言った。


「ん」


「ガロに、言われた。あんたの組の嬢ちゃんは、そういうやつだって」


伊織は、手すりの上で指を組んだ。


「あたし、熱を使えば勝てた。でも、使わなかった。……なんでか、分かる?」


「腕相撲じゃないから、だろ」


「それもある」


伊織は、朔のほうを向いた。


「朔が見てたから」


朔が、伊織を見た。


「朔の前で、ずるして勝つの、嫌だった。……五年間、ずっとそうだった。日本でも、そうだった。朔の前でだけは、かっこ悪いあたしでいたくない」


伊織は、ふっと笑った。


「腕相撲、引き分けだったけどね」


朔の目が、柔らかくなった。


それから、手を伸ばして、伊織の頬にかかった髪を、耳にかけた。


伊織の体が、びくっと固まった。


「……引き分けでも、かっこよかった」


朔の声は、低かった。


伊織の顔が、月明かりの中でも分かるくらい、赤くなった。


「……ずるい。そういうの」


伊織は、朔の外套の胸をつかんだ。


「最初の夜。見張り中だから、って止めたよね」


「止めた」


「今も、見張り中なんだけど」


伊織の声が、かすかに震えていた。


「明日、三百が来る。……分かってる。分かってるけど」


伊織は、朔の胸に額を押しつけた。


「続き。絶対って、言ったよね、あたし」


朔の手が、伊織の背中に回った。


見張り台の下で、梯子がきしむ音がした。


二人とも、ぱっと離れた。


梯子の上に、恒一の頭がのぞいた。毛布を二枚、肩にかけていた。


恒一は、二人の顔を交互に見た。


それから、何も見なかったような顔で言った。


「交代。……の、つもりだったけどな」


恒一は、毛布を二枚とも見張り台の上に放り投げた。


「朝まで、俺とセリナで見とく。森の音は、あいつのほうが分かる。お前らは、下の物見小屋で、寝てこい」


伊織が、何か言おうとして、口をぱくぱくさせた。


恒一は、もう梯子を下りはじめていた。途中で、ぼそっと言った。


「明日は、全員で生きて帰る。……だから、今日のうちに、言っとけることは言っとけ」


梯子の下に、恒一の姿が消えた。


伊織は、恒一の消えた梯子の口を、ぽかんと眺めた。


それから、朔を見た。


朔も、伊織を見ていた。


伊織は、毛布を一枚拾って、朔の肩にかけた。もう一枚を、自分の肩に。


それから、朔の手を取った。


見張り台の下には、物見のための小さな小屋がある。藁の寝床がひとつと、小さな窓がひとつだけの。


伊織は、朔の手を引いて、梯子を下りた。


小屋の扉が、閉まった。


月が、西へ傾いていった。


【太鼓】


夜明け前。


恒一とセリナが、見張り台の上で、同時に森のほうへ顔を向けた。


集会所の床で、子どもたちのあいだに座ったまま眠っていた琴音が、ぱっと目を開けた。


どん。


遠く、森の奥から。


どん。


腹の底に響く、低い音。


どん、どん。どん。


村じゅうの犬が、一斉に吠えはじめた。


物見小屋の扉が開いて、朔が出てきた。外套の前を留めながら、もう森を見ていた。後ろから伊織が出てきて、髪をひとつに結びながら、剣を背負った。


二人とも、目を合わせなかった。でも、伊織の口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。


見張り台の上で、恒一が鐘の綱を握った。


琴音が決めた鳴らし方で、鐘が鳴った。


短く三回。長く一回。


――来る。全員、持ち場へ。


村じゅうの家の扉が開いた。


森の奥から、太鼓の音が、だんだん近づいてきていた。

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