第43話「砦の村」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第43話「砦の村」
【丸太の柵 朝倉朔】
砦の村は、森のすぐ手前の、ゆるやかな丘の上にあった。
人の背の二倍ほどもある丸太を、隙間なく地面に打ちこんだ柵が、村をぐるりと囲んでいる。柵の内側には、木造の家が四十軒ほど。真ん中に井戸と、石造りの小さな集会所と、丸太を組んだ見張り台がひとつ。見張り台のてっぺんには、青銅の鐘が吊るしてあった。
森は、柵から矢の届くほどの距離で、黒々と口を開けていた。
七人が門の前に着いたのは、昼過ぎだった。後ろには、縄で縛ったオークの隊長が、恒一の引く馬の背に揺られていた。
門番の若者が、隊長を見て悲鳴を上げかけた。
柵の上から、白い髭の老人が身を乗り出した。古びた革の胸当てに、刃こぼれした長剣。この村の見張り番だった。
「エルムからの早馬で、話は聞いとる。……三百だと?」
「三百です」と朔は言った。「早ければ、明日の朝」
老人は、長いこと黙っていた。それから、柵の内側を振り返った。
井戸のまわりで、女たちが水を汲む手を止めて、こちらを見ていた。集会所の前で、子どもたちが固まっていた。
「この村には、剣を振れる男が十五人しかおらん」
老人は、門を開けさせた。
「それでも、ここを捨てて逃げれば、森の獣にやられる。……何をすればいい」
朔は、すぐには答えなかった。
門をくぐって、村の中を歩いた。柵の内側をひと回りして、丸太を一本ずつ手で叩いていく。井戸をのぞく。見張り台に登って、森を見る。村の裏手の、小川の流れを見る。
六人は、言われる前に、それぞれ別の方向へ散っていた。
朔が見張り台から下りてくると、六人がもう戻ってきていた。
「柵の北側、丸太の根元が三か所腐ってる」と恒一。「押されたら倒れる」
「隙間も多い。指が三本入るのが、全部で四十二か所」と莉子。「火矢、入っちゃうよ」
「裏の小川、堀まで水を引ける」と玲奈。「高さが足りる。掘るのは三十歩だけ」
「手当てできる場所がない。集会所を使わせてもらえるか、訊いてくる」と澪。
「鐘、音がいい。遠くまで届く」と琴音。「鳴らし方を決めておけば、合図に使える」
伊織は、柵の門を両手で押して、首をかしげていた。
「門、思ったより軽い。オーク三体で押したら、開く」
見張り番の老人が、目を丸くして七人を見比べた。
「……あんたら、村をひと回りしただけで」
朔は、老人に向き直った。
「柵の北側の腐った丸太、替える木はありますか。それと、村の人に手伝ってほしいことが、たくさんあります」
【ガロ 神崎伊織】
ガロの組が着いたのは、日が傾きはじめた頃だった。
五頭の馬が、土煙を上げて門の前に止まる。先頭のガロが、大剣を背負ったまま馬から飛び降りた。後ろに、盾を担いだ大男、長弓を背負った女、杖を持った若い男、それに、狐のような三角の耳をした獣族の斥候。
ガロは村を見回して、口笛を吹いた。
柵の北側では、村の男たちが新しい丸太を打ちこんでいた。柵の隙間という隙間に、莉子が生きた蔓を編みこんでいて、柵は丸太の茶色と蔓の緑の縞模様になっていた。村の裏手からは、小川の水が、玲奈の掘らせた溝を通って堀へ流れこみはじめている。集会所の前では、澪が村の女たちを集めて、布を裂いて包帯を作らせていた。
「……半日で、これか」
ガロは、伊織を見つけて、にやりと笑った。
「よう。ヒュドラの剣の嬢ちゃん」
「伊織」
「伊織。で、ここの指揮は誰が執ってる」
伊織は、見張り台の下で村の男たちと話している朔を、顎でしゃくった。
ガロの笑いが、すっと引っこんだ。
「Fの組の頭か」
「文句ある?」
「ある」
ガロは、正直だった。
「俺の組はAだ。五年、この辺りの森で、オークとも何度もやりあってる。三百の軍勢を相手にするのに、Fの組の指示で動けって言われて、はいそうですかとは言えねえ」
後ろで、盾持ちの大男が頷いた。弓の女は、肩をすくめていた。
伊織は、少し考えた。
それから、村の真ん中の井戸のそばに置いてあった、樽を指さした。
「じゃあ、腕比べしよう。あたしが勝ったら、朔の指示で動いて。ガロが勝ったら、ガロが指揮」
ガロが、目をむいた。
「腕比べ?」
「腕相撲。剣でやったら、どっちか怪我するでしょ。明日、二人とも要るし」
ガロは、伊織の細い腕を見て、それから自分の丸太のような腕を見た。
それから、腹の底から笑い出した。
「いいぜ。乗った」
井戸のまわりに、あっという間に人が集まった。村の男たち、女たち、子どもたち。ガロの組の四人。七人も、手を止めて集まってきた。
樽の上で、伊織とガロが右手を組んだ。
ガロの手は、伊織の手がすっぽり隠れるほど大きかった。
「始め」と、見張り番の老人が言った。
ガロが、一気に力を込めた。
樽が、みしりと鳴った。
伊織の腕が、ぐっと傾いた。指三本分。指五本分。村の男たちから、ああ、と声が漏れる。
伊織は、歯を食いしばっていた。それでも、熱は使っていなかった。
「……ずるは、しない」
伊織は、ガロの目を見たまま言った。
「熱、使ったら、あたしの勝ちだけど。それ、腕相撲じゃないから」
ガロの眉が、ぴくりと動いた。
伊織の腕が、止まった。
傾いたまま、それ以上は倒れなかった。ガロの腕の筋が浮き上がる。伊織の額に汗が浮かぶ。樽が、また、みしりと鳴った。
十数える。二十数える。
伊織の腕が、じりじりと戻りはじめた。
指一本分。二本分。真ん中まで。
村の子どもたちが、樽のまわりで跳ねながら叫んでいた。
真ん中で、二人の腕が、ぴたりと止まった。
どちらも、動かなかった。
ガロの顔が、真っ赤になっていた。伊織の腕は、細かく震えていた。
ばきん、と音がした。
樽の蓋が、二人の肘の下で、真っ二つに割れた。
二人とも、肘を支えるものを失って、前につんのめった。
一瞬、静かになった。
それから、ガロが笑い出した。割れた樽の上に手をついたまま、肩を揺らして、腹を抱えて。
「引き分けだ、引き分け!」
伊織も、つられて笑った。腕が、まだじんじんしていた。
ガロは、笑いをおさめると、立ち上がった。それから、見張り台の下の朔のほうへ、大股で歩いていった。
朔の前で、止まる。
「熱を使えば勝てたのに、使わなかった。……あんたの組の嬢ちゃんは、そういうやつだ」
ガロは、親指で自分の胸を叩いた。
「村をひと回りしただけで、腐った丸太の数まで当てる組の頭なら、文句はねえ。明日は、俺の組ごと、あんたの指示で動く」
朔は目を見開いてから、頷いた。
「頼みます。ガロさんの組には、門をお願いしたい。一番重いところです」
ガロは、にやりと笑った。
「分かってるじゃねえか」
【偽の道 佐伯恒一】
日が沈む前に、恒一は森に入った。
セリナが、当たり前のようについてきていた。
森の中は、静かだった。静かすぎた。鳥の声が、ひとつもしない。
二人は、足音を立てずに、木の根から木の根へと渡っていった。セリナが先、恒一が後。三年ぶりなのに、どちらも、どこに足を置けばいいか分かっていた。
しばらく歩いたところで、セリナが手を上げた。
木々の向こうに、煙が見えた。
いくつもの焚き火。そのまわりに、オークの影。数えきれないほど。森の中の開けた場所に、天幕がいくつも張られていた。
「……三百は、いるな」とセリナが囁いた。
「ここから砦まで、半日」
恒一は、地面に膝をついて、オークの野営地から村へ続く獣道を見た。踏み固められた道が一本。それを使って、明日の朝、三百が来る。
「一本道だ。全部まとめて、正面から来る」
「全部まとめて来られたら、柵がもたねえ」
「だから、分ける」
恒一は、獣道の途中の分かれ目まで戻った。
右へ行けば村の正面。左へ行けば、村の北側の湿地へ抜ける。北側の柵は、さっき村の男たちが新しい丸太に替えたばかりだ。そして、湿地の手前には、玲奈が小川から水を引いた堀がある。
恒一は、右の道の入口に、倒木を一本、自然に倒れたように転がした。それから、左の道の枝を何本か、オークの背丈の高さで、ちょうど誰かが通ったように折った。
セリナは黙ってそれを眺めていた。
それから、自分も手を貸した。左の道の地面に、昨日の雨で柔らかくなった土の上に、大きな足跡を、いくつか、つけていく。オークの足の形に似せて。
恒一が、手を止めた。
「……上手いな」
「お前が教えた」
セリナは、顔も上げずに言った。
「三年前。鹿を、罠のほうへ追いこむやり方。忘れたのか」
恒一は、忘れていなかった。
ただ、セリナがそれを覚えていてくれたことが、思っていたより、ずっと嬉しかった。
帰り道、森の端で、セリナが足を止めた。
村の柵の上に、明かりがともりはじめていた。見張り台の上の小さなランプ。井戸のそばの焚き火。集会所の窓。
「……明日、あそこを守るのか」
「ああ」
セリナは、しばらく村の明かりに目を向けていた。
それから、恒一の手を、黙って握った。
狩人の、硬くて温かい手だった。
握ったまま、二人で森を出た。村の門の明かりが見えるところまで、どちらも手を離さなかった。
【捕虜 朝倉朔】
夜、朔は、村の納屋に縛られているオークの隊長の前に座っていた。
隣に琴音がいた。玲奈は戸口に立って、手帳を開いていた。
隊長は、縄で柱に縛られたまま、黄色い目を朔に据えていた。
「明日、三百が来る」と朔は言った。
隊長は、答えなかった。
朔は、隊長の前に、水の入った木の椀を置いた。それから、縄をほんの少し緩めて、隊長の手が椀に届くようにした。
隊長は、長いこと椀から目を離さなかった。
それから、椀を取って、一息に飲み干した。
「……お前、強い」
低い、ざらついた声だった。人の言葉だった。
琴音が、小さく息を呑んだ。
「人の言葉、分かるのか」
「少し。……隊長、覚える。人と、取引、する」
隊長は、空の椀を床に置いた。
「お前の雌、盾の壁、崩した。強い。お前、継ぎ目、見た。強い」
「雌じゃない。伊織だ」
隊長は、喉の奥で、ぐる、と笑うような音を立てた。
朔は、まっすぐ隊長を見た。
「明日、三百はどう来る」
隊長は、黙った。
琴音が、朔の袖を、ほんのわずかに引いた。隊長の心臓の音を聞いていたのだ。迷っている音だった。
やがて、隊長が言った。
「……言わない。仲間だ」
それから、少し間を置いて、付け足した。
「でも、ひとつ、言う。お前、俺の部下、殺さなかった」
隊長の黄色い目が、朔を見た。
「太鼓。……明日、太鼓、鳴る。呪い師の太鼓。太鼓鳴ると、我ら、怖くない。痛くない。退かない」
隊長は、ゆっくり言った。
「太鼓鳴ったら、我ら、止まらない。お前たち、全部、死ぬまで。……だから、逃げろ。今夜」
戸口で、玲奈のペンが止まった。
朔は、しばらく隊長の顔を見返した。
それから、立ち上がった。
「教えてくれて、ありがとう。でも、逃げない」
隊長は、目を細めた。
「……なぜ」
「この村には、百人いる。子どもも」
隊長は、何も言わなかった。
納屋を出ると、琴音が、朔の袖をつかんだまま言った。
「……あの人、嘘ついてなかった。太鼓のこと、本当に怖がってた。自分のことなのに」
玲奈が、手帳に一行書いた。
――太鼓が鳴ると、恐怖と痛みが消える。退かなくなる。
「恐れを知らない三百」
玲奈が、ぽつりと言った。
琴音は、自分の喉に手を当てていた。
「太鼓の音なら、私、聞ける」
琴音の目が、暗がりの中で光っていた。
「聞けるなら、崩せる。……かもしれない」
【子守唄 黒瀬琴音】
夜が更けると、村の子どもたちが眠れなくなった。
集会所に集められた子どもたちが、毛布にくるまって、窓の外の黒い森を見ている。誰も泣いていなかった。泣くのも忘れるくらい、怖がっていた。
琴音は、集会所の真ん中に座った。
最初は、声を出さなかった。子どもたちの息の音を、ひとつずつ聞いていた。速い息。浅い息。止まりそうな息。
それから、小さく、歌いはじめた。
言葉のない歌だった。日本で、ライブハウスの小さな楽屋で、ひとりで口ずさんでいた旋律。誰にも聴かせたことのない歌。
集会所の空気が、少しずつ、やわらかくなっていった。
速かった息が、ひとつ、ゆっくりになる。浅かった息が、ひとつ、深くなる。
琴音は、魔法を使っていなかった。ただ、歌っていた。
一番小さな女の子が、琴音の膝に頭を乗せて、眠った。
それを見た隣の男の子が、毛布を頭までかぶって、目を閉じた。
戸口に、莉子が立っていた。大鍋の煮込みを配り終えて、エプロンの代わりに腰に巻いた布で手を拭いていた。
莉子は戸口の柱にもたれて、琴音の歌を聴いていた。
歌が終わると、集会所の中は、寝息の音だけになっていた。
莉子が、小さな声で言った。
「……琴音ちゃん、それ、魔法?」
琴音は、首を横に振った。
「ただの、歌」
莉子は、少し笑った。
「明日、ちゃんと、届くといいね」
琴音は、膝の上で眠る女の子の髪を、そっと撫でた。
最初にこっちで歌う一曲は、朔のための曲。屋根の上で、そう言った。
これは、その曲ではなかった。
でも、届けたい相手がいる歌は、こっちでも、ちゃんと届く。それが分かったのは、少しだけ、嬉しかった。
【続き 神崎伊織】
見張り台の上は、風が冷たかった。
真夜中の見張りは、伊織と朔の番だった。
森は、月の光の下で、黒い海のように広がっている。その向こうの、オークの野営地のあたりだけが、焚き火の明かりでぼんやり赤い。
伊織は手すりにもたれて、森を眺めていた。
朔は、その隣にいた。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……ねえ」
伊織が言った。
「ん」
「ガロに、言われた。あんたの組の嬢ちゃんは、そういうやつだって」
伊織は、手すりの上で指を組んだ。
「あたし、熱を使えば勝てた。でも、使わなかった。……なんでか、分かる?」
「腕相撲じゃないから、だろ」
「それもある」
伊織は、朔のほうを向いた。
「朔が見てたから」
朔が、伊織を見た。
「朔の前で、ずるして勝つの、嫌だった。……五年間、ずっとそうだった。日本でも、そうだった。朔の前でだけは、かっこ悪いあたしでいたくない」
伊織は、ふっと笑った。
「腕相撲、引き分けだったけどね」
朔の目が、柔らかくなった。
それから、手を伸ばして、伊織の頬にかかった髪を、耳にかけた。
伊織の体が、びくっと固まった。
「……引き分けでも、かっこよかった」
朔の声は、低かった。
伊織の顔が、月明かりの中でも分かるくらい、赤くなった。
「……ずるい。そういうの」
伊織は、朔の外套の胸をつかんだ。
「最初の夜。見張り中だから、って止めたよね」
「止めた」
「今も、見張り中なんだけど」
伊織の声が、かすかに震えていた。
「明日、三百が来る。……分かってる。分かってるけど」
伊織は、朔の胸に額を押しつけた。
「続き。絶対って、言ったよね、あたし」
朔の手が、伊織の背中に回った。
見張り台の下で、梯子がきしむ音がした。
二人とも、ぱっと離れた。
梯子の上に、恒一の頭がのぞいた。毛布を二枚、肩にかけていた。
恒一は、二人の顔を交互に見た。
それから、何も見なかったような顔で言った。
「交代。……の、つもりだったけどな」
恒一は、毛布を二枚とも見張り台の上に放り投げた。
「朝まで、俺とセリナで見とく。森の音は、あいつのほうが分かる。お前らは、下の物見小屋で、寝てこい」
伊織が、何か言おうとして、口をぱくぱくさせた。
恒一は、もう梯子を下りはじめていた。途中で、ぼそっと言った。
「明日は、全員で生きて帰る。……だから、今日のうちに、言っとけることは言っとけ」
梯子の下に、恒一の姿が消えた。
伊織は、恒一の消えた梯子の口を、ぽかんと眺めた。
それから、朔を見た。
朔も、伊織を見ていた。
伊織は、毛布を一枚拾って、朔の肩にかけた。もう一枚を、自分の肩に。
それから、朔の手を取った。
見張り台の下には、物見のための小さな小屋がある。藁の寝床がひとつと、小さな窓がひとつだけの。
伊織は、朔の手を引いて、梯子を下りた。
小屋の扉が、閉まった。
月が、西へ傾いていった。
【太鼓】
夜明け前。
恒一とセリナが、見張り台の上で、同時に森のほうへ顔を向けた。
集会所の床で、子どもたちのあいだに座ったまま眠っていた琴音が、ぱっと目を開けた。
どん。
遠く、森の奥から。
どん。
腹の底に響く、低い音。
どん、どん。どん。
村じゅうの犬が、一斉に吠えはじめた。
物見小屋の扉が開いて、朔が出てきた。外套の前を留めながら、もう森を見ていた。後ろから伊織が出てきて、髪をひとつに結びながら、剣を背負った。
二人とも、目を合わせなかった。でも、伊織の口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
見張り台の上で、恒一が鐘の綱を握った。
琴音が決めた鳴らし方で、鐘が鳴った。
短く三回。長く一回。
――来る。全員、持ち場へ。
村じゅうの家の扉が開いた。
森の奥から、太鼓の音が、だんだん近づいてきていた。




