第42話「盾の壁」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第42話「盾の壁」
【鉄の匂い 佐伯恒一】
翌朝のエルム村は、牛乳の匂いと、焼きたてのパンの匂いで目を覚ました。
村長の家の前で、トビーとミアが七人を待っていた。トビーは昨日の笛を首から紐で下げていて、莉子の顔を見るなり、ぴいっと一回鳴らした。莉子が笑って、手を振り返す。
出発の支度をしているあいだ、恒一は丘の上に立って、風の匂いを嗅いでいた。
羊の匂い。刈った草の匂い。遠くの森の湿った土の匂い。
それに混じって、ひとつだけ、この丘には似合わない匂いがあった。
鉄だった。油を引いた鉄と、なめした革と、獣の脂。
「……来てるな」
いつの間にか、隣にセリナが立っていた。同じ方角を見ている。尻尾の先が、ぴんと張りつめていた。
「十人ちょっと。でけえ足だ」とセリナが言った。
「十二」と恒一。「足並みがそろってる。……洞のほうへ向かってる」
「王の様子を見に来たんだろ。自分たちの鉄を着せてやった王の」
恒一は、セリナを見た。セリナは鼻を鳴らした。
「昨日の胸当ての話、村長の家で聞こえてた。お前ら、声がでかいんだよ」
恒一は苦笑して、丘を駆け下りた。
村長の家の前で、朔が莉子の荷を馬に積んでいた。
「朔。オークだ。十二。洞のほうから、こっちに来る」
朔の手が止まった。六人が、一斉に恒一を見る。
「洞が空っぽなのを見たら、次に来るのはここだ」
朔は、丘の下の村を振り返った。石垣の囲い。赤い屋根。笛を吹いているトビー。
「村に入れる前に、丘で止める」
【盾の壁 朝倉朔】
オークは、丘の向こうから、隊列を組んで現れた。
大きかった。一体一体が、大柄な男よりさらに頭ひとつ高い。灰色がかった緑の肌。下顎から、二本の牙が上向きに突き出ている。鉄の兜。縁を鉄で巻いた、大きな丸い盾。盾の真ん中には、ゴブリンキングの胸当てと同じ、二本の牙の印が描かれていた。
前に八体。盾を並べて、隙間なく一列に。その隙間から、槍の穂先がのぞいている。後ろに三体の弓。そして、列の真ん中のすぐ後ろに、兜に赤い馬毛の飾りをつけた一体。片手に、二本の牙を染め抜いた小さな旗を持っていた。
「隊長が一。盾が八。弓が三」
恒一の声に、朔は頷いた。
「いつものやり方で」
最初に動いたのは伊織だった。
熱をまとった体が、丘の斜面を一直線に駆け下りる。四日前の草原でゴブリンの狼を吹き飛ばしたのと同じ速さで、盾の列の真ん中へ。
剣が、盾に当たった。
重い音がした。
盾は、割れなかった。
当たった盾の両隣の盾が、内側に寄って、伊織の剣の勢いを三枚で受け止めていた。同時に、盾の隙間から槍が二本、伊織の脇腹めがけて突き出される。
伊織は、身をひねった。一本が外套を裂いた。もう一本の穂先が、脇腹に当たって、滑った。熱を集めた体の上を、刃が通らなかった。
伊織が跳びすさる。裂けた外套の下で、脇腹に赤い筋が一本、浮いていた。血は出ていない。
「伊織!」
澪が、もう駆け寄っていた。
「下がって、伊織。見せて」
澪の指が、赤い筋をなぞって、押す。
「切れてない。大丈夫」
伊織は、盾の列を睨んでいた。
「……あいつら、盾で受けるとき、三枚で受けてる」
丘の上から、青白い閃光が走った。
玲奈の雷が、盾の列の真ん中に当たった。当たった、はずだった。
雷は、盾の表面を這うように流れて、そのまま地面に吸いこまれて消えた。
盾の列のオークたちは、全員、槍の石突を足もとの地面に深く突き立てていた。
玲奈が、目を見開いた。
「……逃がされた」
隊長が、短く、太い声で吼えた。
盾の列が、一歩、前に出た。
また吼える。また一歩。
一歩ごとに、槍が地面から抜かれ、前に突き出され、また地面に突き立てられる。盾の壁が、ゆっくりと、でも止まらずに、丘を登ってくる。
後ろの弓が、七人の頭上に矢を降らせた。
「下がれ。石垣まで」
朔の声で、七人は後ろへ下がった。
一歩。また一歩。
背中に、村の囲いの石垣が迫ってくる。その向こうに、赤い屋根と、こっちを見ている村の人たちの顔。トビーが、笛を握りしめているのが見えた。
押されている。
五年間、こういう押され方を、朔はあまり知らなかった。
「思ったより、訓練されてる」
朔は、自分の声が落ち着いていることを確かめた。それから、言った。
「全員、見ろ。あの壁にも、継ぎ目はある」
【拍 黒瀬琴音】
琴音は、目を閉じていた。
隊長の吼え声を、聞いていた。
最初は、ただの吼え声に聞こえた。でも、何度も聞くうちに、形が分かってきた。
短く、二回。それから長く、一回。
短く二回のあいだに、盾の列は槍を地面から抜く。長い一回で、一歩前に出て、また地面に突き立てる。
「……拍がある」
琴音は、目を開けた。
「隊長の声。短い、短い、長い。短い二つで槍を抜いて、長いので一歩出て、刺す。……ずっと同じ。一回も、ずれてない」
玲奈が、はっと顔を上げた。
「槍を抜いてるあいだは、地面とつながってない」
玲奈は、自分の指先を見た。
「その一瞬なら、雷は逃げない」
「琴音。次の『短い、短い』で合図できるか」と朔。
「できる」
朔は、盾の列を見つめていた。八枚の盾。三枚で受け止める動き。一歩ごとの前進。
そのとき、朔は気づいた。
左から三番目のオーク。一歩踏み出すたびに、ほんのわずか、右足をかばっている。昨日のゴブリンの巣から逃げたゴブリンにでもやられたのか。それとも、古い傷か。理由は分からない。
でも、そのオークは、一歩ごとに、隣の四番目より半拍遅れていた。
半拍のあいだだけ、三番目と四番目の盾のあいだに、拳ひとつ分の隙間が開く。
「見えた」
朔は言った。
「三番目と四番目のあいだ。一歩ごとに、半拍だけ開く」
伊織が、剣の柄を握り直した。
「そこ、あたしが行く」
「莉子」
「うん」
「次の一歩の足もとを、ぬかるみにできるか。踏んだ足が、少しだけ沈むくらい」
莉子は、地面に両手を当てた。
「乾かすのの、逆だね。できるよ」
恒一が、短弓を背中から外していた。セリナが、その隣で、もう矢をつがえている。
「弓の三体は、俺たちだ」
「全員、琴音の合図で」
【継ぎ目】
隊長が、吼えた。
短く。
琴音が、息を吸った。
短く。
「――今」
盾の列が、槍を地面から抜いた。
その瞬間、丘の上から玲奈の雷が走った。
今度は、逃げなかった。
地面から離れた槍を伝って、雷が盾の列の真ん中に流れこむ。三体のオークが、雷に打たれて身をこわばらせた。
隊長が、長く吼えた。
盾の列が、一歩、前に出る。
踏み出した足が、ずぶりと沈んだ。
莉子のぬかるみだった。踏んだ足が、くるぶしまで泥にはまる。盾の列の一歩が、全体でわずかに乱れた。
左から三番目のオークが、右足をかばって、さらに遅れる。
三番目と四番目のあいだが、拳ひとつ分ではなく、人ひとり分、開いた。
伊織は、もうそこにいた。
隙間に、肩から体ごと飛びこむ。熱をまとった肩が、三番目の盾の縁にぶつかり、盾ごとオークを横に吹き飛ばした。盾の列の真ん中に、穴が開いた。
穴の向こうに、隊長がいた。
伊織は止まらずに、隊長へ向かって駆けた。
同じ瞬間、後ろの弓の三体が、伊織に狙いを定めて弦を引いた。
その三体が、ほとんど同時に、弓を取り落とした。
一体目の手首に、恒一の矢。二体目と三体目の肩に、セリナの矢が一本ずつ。
恒一とセリナは、顔を見合わせもしなかった。ただ、次の矢をつがえる手の動きが、ぴったりそろっていた。
盾の列が、崩れた。
真ん中に穴が開いた盾の壁は、もう壁ではなかった。オークたちが、ばらばらに向きを変えて、伊織を追おうとする。その背中に、朔が飛びこんだ。斬らずに、崩す。剣の腹で盾を持つ腕の肘を打ち、柄で槍を払い、膝の裏を蹴る。崩れたオークの上を、玲奈の二発目の雷がまとめて走った。
伊織が、隊長の前に立った。
隊長は、旗を投げ捨てて、腰の大振りの剣を抜いた。振りかぶる。重い一撃だった。
伊織は、受けなかった。
剣の下をくぐって、隊長の懐に入る。剣を逆手に握った右手で、隊長の剣の鍔元を下から跳ね上げた。隊長の剣が、くるくると宙を舞って、斜面に突き刺さった。
伊織の剣の切っ先が、隊長の喉もとで止まった。
隊長は、伊織を見下ろしていた。黄色い目が、伊織の目を見ていた。
その目が、一度だけ、伊織の肩の向こうへ動いた。
穴の開いた盾の列。雷に打たれて膝をついた三体。弓を取り落として肩を押さえる三体。まだ槍を握っている残りの数体の前には、朔と玲奈が立っている。
隊長の顎に、ぐっと力が入った。牙が、きしむ音がした。
隊長は、長く、ひとつ息を吐いた。
それから、短く、何かを吼えた。
さっきまでの号令とは、違う声だった。
残っていたオークたちが、槍を地面に落とした。
「……降参、だと思う」と琴音が言った。「声の形が、さっきと全然違う」
伊織は切っ先を下ろさないまま、肩越しに朔を見た。
朔は、頷いた。
「武器を全部置かせて、縛る。殺さない」
丘の上に、静けさが戻った。
石垣の向こうで、村の人たちが、身を乗り出していた。
誰かが、ぽつりと言った。
「オークの盾の壁を……崩した」
別の誰かが言った。
「たった七人で。盾も持たずに」
トビーが、石垣の上によじ登って、笛を思いきり吹いた。ぴいいっ、と高い音が、丘の上に響いた。それを合図にしたみたいに、村じゅうから歓声が上がった。
【皮の地図 白川玲奈】
隊長の腰の革袋から、なめした皮が一枚出てきた。
玲奈は、それを石垣の上に広げた。
地図だった。焼いた木の先で描いたような、太い線。玲奈が読める字は、ひとつもない。でも、絵なら読めた。
波打つ線は、森。三角の印は、山。その山から森の端へ向かって、太い矢印が一本。矢印の先に、四角い囲いの絵。囲いの中に、小さな家の形がいくつか。
「森の端の、砦の村だ」
地図をのぞきこんだ村長が、息を呑んだ。
「ここから、東へ一日。森から来る獣を防ぐために、昔、丸太の柵で囲った村だよ。百人くらい住んでる」
矢印の横に、短い縦線が、びっしりと刻まれていた。
玲奈は、指でそれを数えた。十ずつ、まとめて斜めの線で束ねてある。束が、三十。
「……三百」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「この十二体は、斥候だった」と恒一が言った。「本隊の、前を歩いて道を見る役だ」
「本隊が三百。砦の村へ」と玲奈。「矢印の太さからすると、たぶん、もう森を出てる」
玲奈は手帳を開いて、分かっていることと、分かっていないことを分けて書いた。
分かっていること。三百。砦の村。斥候は十二。ゴブリンの王が、オークの鉄を着ていた。
分かっていないこと。いつ着くか。なぜ、森を出たのか。
玲奈は、ペンを止めて、おとといのガロの言葉を思い出していた。
――北にいたはずのやつが、南へ下りてくる。何かに追い出されてるみてえにな。
朔が、全員の顔を見回した。
いつものように、自分から先に決めなかった。
「どうする」
最初に答えたのは、莉子だった。
「行く。百人の村でしょ。トビーくんみたいな子、きっといる」
「行く」と伊織。脇腹の破れた外套を指でつまんで、にっと笑う。「あの盾の壁、もう一回やりたい。今度は最初から崩す」
「行く」と澪。「怪我する人、たくさん出る。私がいたほうがいい」
「行くなら、先に知らせを出す」と恒一。「リーヴェルのギルドに。ガロの組にも。三百は、七人だけじゃ守りきれねえ。柵が要る。人が要る」
玲奈は、手帳を閉じた。
「行く。三百の隊列が、どういう順番で、どう動くのか。……見たい」
琴音は、少し遅れて言った。
「……行く」
朔は、琴音を見た。琴音は、朔の目を見なかった。
「決まりだな」
村長が、すぐに一番足の速い若者を呼んだ。リーヴェルのギルドへ、ガロの組へ、早馬が走ることになった。
【胸の音 黒瀬琴音】
出発の前に、琴音は朔の袖を引いた。
風車の陰だった。帆布の羽根が、ぎい、ぎい、とゆっくり回っている。その音のおかげで、ほかの誰にも声が届かない。
琴音は、朔の袖をつかんだまま、しばらく何も言わなかった。
「琴音」
「……聞こえてた」
琴音は、朔の顔を見ないまま言った。
「昨日の夜。裏口の石段。……私、耳、いいから。聞きたくなくても、聞こえる。ラムの声も。朔の、息も」
朔は、何も言えなかった。
風車の羽根が、ひと回りした。
「怒ってない」
琴音は、ようやく顔を上げた。目のふちが、赤かった。
「澪は、ずっと待ってた。知ってる。日本で、ずっと。私より、ずっと上手に、待ってた。……だから、怒ってない」
それから、唇をきゅっと結んだ。
「でも。……ラム、ずるい」
その声は、怒っていなかった。拗ねていた。
朔は、思わず笑ってしまった。
琴音が、むっとした顔をした。
「笑った」
「悪い」
「悪いと思ってない顔」
琴音は、朔の右手をつかんだ。
その手を、自分の胸に当てた。
外套の上からでも、分かった。
どくん、どくん、どくん。
速かった。朔の手が触れた瞬間に、もっと速くなった。
「……聞こえる?」
琴音の声が、震えていた。
「この前は、私が朔の音を聞いた。今度は、朔の番。……私の音、ちゃんと聞いて」
朔は、手のひらの下の、小さくて速い音を聞いていた。
琴音は、ずっと、他人の音ばかり聞いてきた。日本でも、こっちでも。誰かの足音、誰かの息、誰かの心臓。自分の音を誰かに聞かせたことは、たぶん、一度もなかった。
「私は、急がないって言った」
琴音は言った。
「撤回は、しない。……でも、待ってるだけじゃ、ないから。ちゃんと、覚えといて」
朔は、琴音の胸に当てた手を、そっと離した。
それから、琴音の手を取って、両手で包んだ。
「覚えとく」
琴音は、しばらく朔の顔を見ていた。
それから、ふっと力を抜いて、笑った。
「……テンポ、少し速い。朔のほうが」
「誰のせいだ」
「私のせい」
琴音は、朔の手を離して、くるりと背を向けた。
風車の陰から出ていく背中が、さっきより、少しだけまっすぐだった。
丘の下で、恒一が馬の手綱を引いて、全員を呼んでいた。東の森の端へ。三百のオークが向かう、砦の村へ。




