第41話「緑の洞」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第41話「緑の洞」
【羊の丘 小鳥遊莉子】
エルム村は、なだらかな緑の丘のあいだにあった。
ギルドが貸してくれた馬で半日。丘を越えるたびに、空が広くなる。斜面には白い羊が点々と散らばり、石を積んだ低い垣が、丘の形に沿ってどこまでも続いていた。村の真ん中には、赤い瓦屋根の家が二十軒ほどと、帆布の羽根をゆっくり回す風車がひとつ。
のどかな景色だった。羊の数が、半分に減っていなければ。
「羊、三十頭はいなくなってる」と恒一が丘を見渡して言った。「囲いの柵が、内側から倒されてない。外から引きずり出されてる」
村の入口で、恰幅のいい女の人が待っていた。村長だった。前掛けに、チーズを切るナイフを差したままだ。
「来てくれたんだね。……東の沼地のヒュドラを倒した組って、あんたたち?」
村長は七人を見回して、少し不安そうな顔をした。首から下げた鉄の札に、Fと刻んであるのが見えたのだろう。
「若いのね。思ってたより、ずっと」
「よく言われます」と朔が言った。
莉子は、村長の後ろに隠れるように立っている女の子に気づいた。十歳くらい。麦わら色の髪を二つに編んで、手に小さな木の笛を握りしめている。目が、泣きはらしたように赤かった。
莉子はしゃがんで、目の高さを合わせた。
「こんにちは。お名前は?」
「……ミア」
「ミアちゃん。その笛、きれいだね」
「トビーのなの」
ミアは、笛をぎゅっと握った。
「弟。七つ。羊の番、してたの。おとといの夕方。……あたしが、代わってあげればよかった」
莉子は、何も言わずにミアの手を両手で包んだ。小さな手が、冷たかった。
「トビーくんの笛、預かっててね。返してあげる人が、いなくなっちゃうから」
ミアが顔を上げた。
「……返せる?」
「うん。今夜、返す」
莉子は笑った。笑いながら、胸の奥がきゅっと痛んだ。日本に置いてきた焼き窯の匂いと、「あの子」の小さな手の温度を、ふっと思い出していた。
【洞の口 佐伯恒一】
足跡は、丘の裏の森へ続いていた。
狼の足跡が、十ほど。その横に、裸足の小さな足跡がたくさん。羊を引きずった跡。
恒一は、狼の足跡のひとつにしゃがみこんだ。
「三日前の草原で逃げたやつらだ。前脚の爪が一本欠けてるのが、いる」
「南へ逃げたって、ここに来てたんだ」と伊織。
「巣に帰っただけだな」
森の奥、苔むした岩の崖に、洞穴が口を開けていた。入口の周りの岩に、緑の苔がびっしり生えている。村の人たちが「緑の洞」と呼んでいる場所だった。
中から、羊の鳴き声が、かすかに聞こえた。
それと、生臭い風。
恒一は入口の十歩手前で、全員を手で止めた。
「入口に三つ」
誰も、何がとは訊かなかった。
恒一は、落ち葉の上に細い枝を一本、そっと伸ばした。枝の先が、見えないほど細い糸に触れる。頭の上で、ばさりと音がして、太い蔓で編んだ網が落ちてきた。
「一つ」
入口の手前、わずかに色の違う土を、恒一は足でとんと踏んだ。土が抜けて、底に尖った杭を並べた穴が口を開けた。
「二つ」
最後に、恒一は入口の右の岩陰を見た。
「三つ目は、罠じゃねえ。見張りだ」
岩陰から、小さな影が飛び出して、洞の奥へ駆けこもうとした。
その足もとに、どこからか飛んできた矢が一本、突き刺さった。
ゴブリンの見張りが、ひっくり返った。
崖の上の木の枝に、セリナがしゃがんでいた。弓をくるりと回して、背中に戻す。
「外は、見とく」
それだけ言った。恒一が見上げると、セリナは顎で森の奥をしゃくった。
「逃げた狼が、戻ってくるかもしれねえからな。……さっさと行ってこい」
「おう」
恒一は、見張りのゴブリンを縄でぐるぐる巻きにしながら、口の端が上がるのを止められなかった。
朔が、洞の暗がりを覗きこんだ。
「中の造りは、たぶん、いつものだ。入ってすぐに広間、そこから三本に分かれて、横穴が何本も。一番奥に、王の部屋」
「王がいるって決まったわけじゃないでしょ」と澪。
「狼騎兵に旗を持たせてた。旗を作らせるのは、王だ」
朔は、全員の顔を見た。
「子どもが先。王は、そのあと」
【暗がり 黒瀬琴音】
洞の中は、真っ暗だった。
伊織が、右の拳に熱をともした。拳のまわりに、橙色の光がぼうっと灯る。それでも、照らせるのは三歩先までだった。
琴音は、目を閉じた。
見えないなら、聞けばいい。
琴音は、小さく、短く、舌を鳴らした。
ちっ。
その音が、洞の壁に当たって、跳ね返ってくる。近い壁からは早く、遠い壁からは遅く。高い天井からは、少しぼやけて。
琴音の頭の中に、洞の形が描かれていく。
「広間。左に横穴が二つ、右に一つ。正面の奥に、通路が三本」
もう一度、舌を鳴らす。
「右の横穴に、八匹。息をひそめてる。左の二つに、六匹ずつ」
「挟み撃ち用だな」と恒一。
「広間の真ん中まで来たところで、三方から出てくるつもりだ」
朔は、ひと呼吸だけ考えた。
「なら、真ん中まで行こう」
伊織が、にっと笑った。
七人は、何も知らないふりをして、広間の真ん中まで歩いた。わざと足音を立てて。伊織は鼻歌まで歌っていた。
右の横穴から、甲高い叫び声が上がった。
左の二つの横穴からも、同時に。
二十匹のゴブリンが、錆びた短剣と棍棒を振りかざして、三方から一斉に飛び出してきた。
その瞬間、莉子が地面に両手をついた。
「左、閉じるね」
左の二つの横穴の入口から、根が噴き出した。太い木の根が格子のように絡み合って、横穴の口をふさぐ。飛び出しかけていた十二匹が、根の格子にまとめて鼻をぶつけて、穴の中に押し戻された。
「右、来るよ」
右の横穴から出てきた八匹の前に、伊織と朔が立っていた。
狭い洞の中で、伊織は剣を短く持っていた。大きく振れば天井に当たる。だから、突く。払う。柄で殴る。八匹のうち三匹が、あっという間に転がった。
朔も剣を抜いていた。ただ、大きくは振らない。この幅では、伊織の剣と並べて振れない。突き出された短剣を刃の根もとで払い、棍棒を柄で受け、よろけたゴブリンを、次のゴブリンのほうへ蹴り出す。
残りの三匹が、くるりと背を向けて逃げようとした。
その先に、玲奈が立っていた。人差し指を、横穴の天井へ向けて。
ぱちっ。
小さな雷が天井の岩を叩き、落ちてきた石の粉に、三匹がそろって咳きこんでひっくり返った。
「……逃げ道は、いつも、同じ方」
玲奈は、そう言ってから、自分で少し首をかしげた。
「たぶん」
根の格子の向こうで、閉じこめられた十二匹が、きいきいと騒いでいる。
恒一が、入口で外してきた蔓の網を、格子の前にふわりと掛けた。
「出てきたら、網。そのまま待っとけ」
琴音は、目を閉じたまま、くすっと笑った。
洞の中の音が、さっきより、ずっと静かになっていた。
【檻】
正面の三本の通路のうち、琴音は真ん中を指さした。
「真ん中の奥。……羊の声。それと」
琴音の声が、ふっと柔らかくなった。
「子どもの、息。泣き疲れて、眠ってる息」
通路の先に、粗末な木の檻がいくつも並んでいた。
羊が、ぎゅうぎゅうに押しこめられている。その一番奥の小さな檻に、男の子がひとり、膝を抱えて眠っていた。麦わら色の髪。頬に、乾いた涙の跡。
莉子が、真っ先に檻に飛びついた。
縄で結んだだけの粗末な戸を、指先でほどく。
「トビーくん。……トビーくん」
男の子が、目を開けた。莉子を見て、びくっと身を引く。
「大丈夫。ミアちゃんに頼まれて、迎えに来たの」
ミア、という名前に、トビーの顔がくしゃっと崩れた。
澪が、隣にしゃがんだ。トビーの腕と足を、そっと確かめていく。
「足首、ちょっとひねってるね。あと、手のひらに擦り傷。……痛かったね。すぐ治るよ」
澪の手のひらが、木漏れ日のような光を帯びた。トビーは泣くのを忘れて、自分の足首を見つめていた。
「……あったかい」
「でしょ」
莉子は、外套のポケットから、焼き菓子を一枚出した。リーヴェルのパン屋で買っておいた、蜂蜜を塗った薄い焼き菓子だった。
「お腹、すいてるでしょ。半分こしよう」
トビーは、莉子の手から焼き菓子を受け取って、小さくかじった。
それから、ぽつりと言った。
「……王さま、いるよ」
全員が、トビーを見た。
「奥の、一番大きい部屋。すごく大きいの。頭に、鉄の冠かぶってて。ほかのゴブリン、みんな、王さまのこと怖がってる」
トビーは、焼き菓子を握りしめた。
「ぼくのこと、明日、食べるって言ってた」
莉子は、トビーを抱きしめた。
それから、顔を上げて、朔を見た。
いつもの、柔らかい目ではなかった。
「朔くん。王さま、私も行く」
「莉子は、トビーを外へ」
「澪ちゃんが連れてってくれる。……ね?」
澪は目を丸くしてから、頷いた。
「うん。任せて」
莉子は立ち上がって、外套の袖をきゅっとまくった。
「七つの子を食べるって言った王さまは、ちょっと許せない」
【王】
一番奥の部屋は、思っていたより広かった。
天井の割れ目から、細い光が一本だけ差しこんでいる。床には、羊の骨と、盗んだ鍋や鋤や荷車の車輪が積み上げられて、小さな山になっていた。
その山の上に、それは座っていた。
大きかった。普通のゴブリンの三倍はある。大人の男より、頭ひとつ大きい。緑の肌は岩のように硬そうで、腕は丸太のように太い。頭には、錆びた鉄くずを叩き曲げて作った、いびつな冠。手には、肉切り包丁をそのまま大きくしたような、分厚い大鉈。
胸には、鉄の胸当てを着けていた。ほかのゴブリンのつぎはぎの革とは違う。分厚く、きちんと打たれた鉄だ。
ゴブリンキングが、立ち上がった。
吼えた。
洞じゅうに響く声だった。通路の奥の、根の格子の向こうで、閉じこめられたゴブリンたちが一斉に静まり返る。
王の後ろの暗がりから、さらに十匹ほどのゴブリンが現れた。ほかのゴブリンより大きく、粗末な槍と盾を持っている。王の親衛隊だった。
「十。大きいのが十。王が一」と琴音。
「王の足もとを見て」
恒一の声が、低かった。
「山の手前。床の色が、そこだけ違う。王の椅子の前に、自分の落とし穴を掘ってる」
「王が、自分の前に?」と伊織。
「近づいてきたやつを落とすためにな。……王は、あの穴の上だけは絶対に踏まない」
朔が、短く息を吐いた。
「なら、踏ませよう」
王が、大鉈を振り上げた。親衛隊が、槍を構えて押し寄せてくる。
伊織が、正面から迎え撃った。剣を短く握って、突き出される槍を三本まとめて払う。払った勢いのまま、盾の上から柄頭で殴りつける。親衛隊のひとりが、盾ごと後ろへ吹き飛んだ。
莉子が、床に両手をついた。
石の床の隙間から、細い根が何十本も伸びて、親衛隊の足首に絡みつく。足を取られて、二匹、三匹と転がる。
玲奈の雷が、転がった親衛隊の槍の穂先を、一本ずつ正確に叩いた。熱くなった槍を、ゴブリンたちが悲鳴を上げて放り出す。
親衛隊が崩れていく。
王が、もう一度吼えた。
大鉈が、伊織の頭上から振り下ろされた。
伊織は、受けなかった。横に跳んで避ける。大鉈が石の床を叩いて、火花と石のかけらが飛び散った。床に、深い傷が刻まれる。
「……重っ」
まともに受けたら、剣ごと腕を持っていかれる。
王が、伊織を追って一歩踏み出す。
大鉈が、横なぎに来た。
その大鉈と伊織のあいだに、朔が割りこんでいた。首の後ろがちりちりする。――横なぎのあと、王は必ず左足で踏みこむ。
朔は、大鉈の下をくぐった。くぐりながら、王の右膝の裏を、剣で薙ぐ。
王の右膝が、がくんと折れた。
体勢を立て直そうと、王は左足を大きく後ろへ引いた。
自分の椅子の前へ。
自分が掘った、落とし穴の上へ。
「――そこ」
恒一の声と同時に、恒一の投げた石が、穴の縁の留め木を正確に弾き飛ばした。
床が抜けた。
王の巨体が、自分の落とし穴の中へ、腰まで落ちた。底の杭に、鉄の胸当てががちんと当たる。杭は胸当てを貫けなかった。でも、王は穴にはまりこんで、もう抜け出せなかった。
王が、穴の中でもがいて吼えた。
伊織が、穴の縁に立った。
剣を、まっすぐに構える。
「七つの子、食べるって言ったんだって」
伊織は、静かに言った。
「……莉子、怒らせたね」
剣が、振り下ろされた。
いびつな鉄くずの冠が、からんと音を立てて、羊の骨の山の上を転がっていった。
王の吼え声が止まると、通路の奥のゴブリンたちが、一斉に騒ぎはじめた。根の格子を押し、網をかきむしり、きいきいと鳴きながら――やがて、ひとつ残らず、洞の裏の小さな抜け穴から逃げ出していった。もう、この巣に戻ってくることはないだろう。
部屋に、天井の割れ目からの光だけが残った。
玲奈が、穴の中に倒れた王に近づいて、鉄の胸当てを見下ろしていた。
「これ、ゴブリンが作ったものじゃない」
胸当ての真ん中に、刻印が打ってあった。上向きに反った、二本の牙。
「打ち方がちゃんとしてる。鉄も、いい。……こういうのを作れて、牙を自分の印にする種族」
恒一が、穴の縁にしゃがんだ。刻印を、指でなぞる。
「オークだな」
誰も、すぐには何も言わなかった。
朔は、天井の割れ目から差す光を見上げた。
北から、何かが下りてくる。ガロはそう言っていた。ゴブリンが狼騎兵を出すほど増えて、そのゴブリンの王が、オークの鉄を着ていた。
「……帰ろう。トビーを、ミアに返す」
【笛】
夕暮れのエルム村に、七人が戻ってきた。
丘の上で待っていた村の人たちが、最初に見たのは、莉子に手を引かれて歩いてくるトビーだった。
ミアが、丘を駆け下りてきた。
二つに編んだ麦わら色の髪が、夕日の中で跳ねる。
「トビー!」
トビーが莉子の手を離して、走り出した。澪に治してもらった足首で、転びもせずに。
二人が、丘の真ん中でぶつかるように抱き合った。
村の人たちから、歓声が上がった。誰かが泣き出し、誰かが笑い出し、村長が前掛けで顔を覆っていた。助け出された羊たちが、何も知らない顔でのんびりと丘を登っていく。
ミアが、トビーから体を離して、手に握っていた木の笛を差し出した。
「……預かってた」
トビーは笛を受け取って、口に当てて、ぴいっと一回鳴らした。
ミアが、莉子のほうを振り返った。
「返せた」
「うん。返せたね」
莉子は笑った。今度は、胸の奥は痛まなかった。
その夜、村の広場で、ささやかな宴が開かれた。
羊のチーズを炙って、黒パンに乗せる。とろけたチーズが、パンの端からこぼれそうになる。村の女たちが、林檎の焼き菓子を山のように焼いてくれた。トビーが笛を吹き、ミアがそれに合わせて歌った。琴音が、そっと二人の歌に下のハーモニーを足すと、村の人たちが目を丸くして聴き入った。
村長が、朔の手を両手で握った。
「ヒュドラを倒した組って聞いたときは、正直、半分くらいしか信じてなかったんだよ。Fの札、下げてるし」
村長は、朔の首の鉄の札を指でつついた。
「でも、あんたたち、洞から出てきたとき、誰も怪我してなかった。笑ってた。……そういう人たちを、昔、一度だけ見たことがある気がするよ」
朔は思わず頭を下げかけて、途中でやめた。こっちの人に、お辞儀は通じない。代わりに、村長の手を握り返した。
【手 水城澪】
宴が終わって、村長の家の客間に戻ったのは、夜も更けてからだった。
伊織は、ベッドに倒れこんだ瞬間に寝息を立てていた。莉子は、トビーにもらった木の笛の吹き方を練習しながら、いつの間にか眠っていた。
澪は、眠らなかった。
裏口の扉を開けると、石段の上に、朔が座っていた。丘の上に、月が出ていた。羊たちの白い背中が、月の光でぼんやり光っている。
澪は、朔の隣に座った。
「手」
「ん」
「見せて」
朔は、少しためらってから、右手を出した。
どこにも、傷はなかった。剣の柄が当たる手のひらの皮が、少し硬くなっているだけだった。
「言ったでしょ。最初の日に。朔くんの手も、あとで見るって」
澪は、朔の手を、両手で包んだ。
光は、出さなかった。治すところが、どこにもなかったから。
それでも、澪は手を離さなかった。
「……どこも、怪我してないぞ」
「知ってる」
澪は、朔の手のひらを、親指でゆっくりなぞった。
日本の三年。この手は、ずっと近くにあった。打ち合わせの机の向こうに。配信の画面の向こうに。飲み会の帰りの、駅の改札の向こうに。
触れられなかった。触れたら、自分が止まらなくなるのが分かっていた。
「ねえ、朔くん」
「……ん」
「今日の莉子ちゃん、見た?」
朔は、少し考えてから頷いた。
「怒ってたな」
「うん。かっこよかった」
澪は、月を見上げた。
「莉子ちゃんは、トビーくんのために怒って、ちゃんと自分で『行く』って言った。……私、ああいうの、ずっとできなかった」
「澪」
「日本で、ずっと。誰かが困ってたら、気づくのは私が一番早いのに。自分のことになると、『大丈夫』って言っちゃう」
澪は、朔の手を握る指に、少しだけ力を込めた。
「私、順番、守ったよね。最初の日も。その夜も。屋根の上の夜も。……ちゃんと、待った」
朔が、澪を見た。
澪は笑おうとした。うまく笑えなかった。
「だから、言うね。……私、朔くんが欲しい。待ってるだけの私は、もう、やめる」
澪は、朔の手を引いた。
唇が重なった。
確かめるような口づけではなかった。三年分の、置き場所のなかった気持ちを、全部そこに置いていくような口づけだった。
朔の手が、澪の背中を引き寄せる。澪の指が、朔の襟足の髪に絡んだ。夜風は冷たいのに、触れているところだけが熱かった。
息が続かなくなって、離れた。
額と額をくっつけたまま、二人とも、肩で息をしていた。
「……三年」
澪が、かすれた声で言った。
「長かった」
「ああ」
「朔くんも?」
朔は、答える代わりに、もう一度、澪に口づけた。
今度は、朔のほうから。
澪は、目を閉じた。
丘の向こうで、羊が一頭、眠たそうに鳴いた。
裏口の扉の内側で、床板が、小さくきしむ音がした。
琴音が眠っているはずの、客間のほうからだった。
澪は、聞こえないふりをした。
今夜だけは、自分の番だった。




