第40話「沼地のヒュドラ」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第40話「沼地のヒュドラ」
【柄 神崎伊織】
夜明け前の鍛冶工房は、炉の火だけが明るかった。
革のふいごが、ゆっくり息をしている。黒い金床。壁の掛け金には、剣が十本ほど吊るしてあった。炉の口からこぼれた火の粉が、まだ暗い窓の外へ、蛍みたいに舞っていく。
伊織は、一本ずつ握った。握って、振らずに、置いた。
革の前掛けをした鍛冶師が、腕を組んでそれを見ていた。白いものの混じった髭を、編んで垂らしている。
「お嬢さん、振ってみないのか」
「振る前に、決める」
伊織は焼き入れ用の水槽に、両手を浸けた。濡れた手で、もう一度、一本ずつ握っていく。
「……何してんだ」
「戦ってるときって、手、濡れるんだよね。汗とか、雨とか、血とか」
七本目を握る。
「乾いてるときに握りやすい柄は、濡れると滑る。で、だいたい一番大事なときに、濡れてる」
前の剣が、そうだった。五年間、毎日握っていた柄。それが、あの洞窟で、手汗で滑った。指の腹は、今もあの感触を覚えている。あの剣は、今、ここにはない。
八本目。
伊織の手が止まった。
濡れた手のひらに、柄が吸いつくように収まった。握り直しても、ずれない。
伊織は、初めてそれを振った。
炉の火が、刃の上を一直線に走った。
鍛冶師が、組んでいた腕をほどいた。
「……それ、俺が打った中で、一番売れ残ってたやつだ」
「なんで」
「重すぎる。ここらの冒険者じゃ、振り回されちまう」
伊織は剣を肩に担いで、にっと笑った。
「じゃあ、あたし用だ」
振り返ると、朔が壁の剣の前に立っていた。
選び方が、伊織とは違った。一本ずつ、抜いて、収める。また抜いて、収める。振りはしなかった。
「兄さんは、振らないのか」と鍛冶師。
「抜くのが遅い剣は、使えない」と朔は言った。「指示を出しながら、抜けるやつがいい」
五本目で、朔の手が止まった。飾りのない、まっすぐな片手の剣だった。新しくはない。柄の革が、前の持ち主の手の形にすり減っている。
「そいつは下取りだ。刃だけ、俺が打ち直した」
朔は、それを抜いて、収めた。鞘の中で、音がしなかった。
「これにする」
二本分の代金を台に置くと、朔の袋は、ほとんど空になった。売れ残りと下取りだったから、足りた。
【霧 佐伯恒一】
東の沼地は、白い霧の底に沈んでいた。
背丈より高い葦が、どこまでも続いている。水面は泥で茶色く濁って、どこまでが地面でどこからが水なのか分からない。霧の上のほうだけが、朝日を受けて薄い桃色に染まっていた。
恒一はしゃがんで、泥に指を入れた。
冷たい。なのに、ところどころで、温かい泡がぽつり、ぽつりと浮いてくる。
恒一は泡の浮く場所を目で追った。右に一つ。その隣に一つ。少し離れて、また一つ。
数えて、九つ。九つの泡が、少しずつずれた拍で、同じ長さの間を置いて浮いてくる。
「……九か所で、息してる」
「九匹?」と莉子。
「いや」
恒一は立ち上がって、泥を払った。
「泡の間隔がそろってる。腹がひとつで、口が九つ。……九本だな」
玲奈が、手帳の昨夜のページを開いた。「三本から九本」と書いた行に、ペン先で線を引く。
「九本。証言の一番多い数が、正しかった。少ない数を言った人は、霧で全部が見えてなかった」
「後ろにもいるよ」と琴音が言った。振り返りもしない。「葦の中に五人。昨日の、大きい人たち。足音、殺してるつもりみたい」
恒一は苦笑した。殺せていなかった。葦が、五人分、妙な揺れ方をしている。
「ほっとけ」と朔が言った。「見学席だ」
それから、伊織のほうを見た。
「伊織。斬ったら焼け。焼かないなら、斬るな」
「知ってる」
伊織は新しい剣の柄を、濡れた手で握り直した。
「真ん中は、根だ」と恒一が付け足した。
「それも知ってる」
【首】
朔の首の後ろが、ちりっとした。
「来る」
沼の真ん中が盛り上がった。泥が山のように持ち上がって、崩れ落ちる。
霧の中から、首が一本、立ち上がった。
大人の胴ほどの太さ。濡れた緑の鱗が、霧の中でぬらりと光る。蛇に似た頭が、七人を見下ろしていた。
二本。三本。五本。
首が次々に霧を割って現れる。どれも別々の方向を向き、別々に舌を出し入れしている。最後に、ひときわ太い一本が、真ん中に立ち上がった。
九本。
葦の中で、誰かがひっと息を呑んだ。
「莉子」
「うん」
莉子が泥の上に両手をついた。手のひらから、乾いた風が吹き出す。洗濯物をひと晩で乾かす風。莉子が五年間、毎日使ってきた、何でもない生活の魔法だ。
その風が、沼の縁の泥を、見る間にひび割れた固い土に変えていく。七人の足もとから、固い地面の道が何本も、扇のように沼の中へ伸びた。
「道、できたよ。水には入らないでね」
首の一本が、道の上の伊織へまっすぐ降ってきた。
伊織は斬った。
濡れた柄が、手の中で少しもずれない。首が、すっぱりと落ちる。
いい剣だ、と思う間もなく、伊織は刃を返して、切り口に押し当てた。熱が刃から流れこむ。じゅっ、と白い湯気が上がって、切り口が黒く焼け縮れた。
その切り口からは、何も生えてこなかった。
「一本」と恒一が数えた。
葦の中で、ガロの声がした。小さく、でもはっきりと。
「……なんで、知ってる」
【九本】
二本目と三本目が、左右から来た。
右は伊織が斬って、焼いた。左は、伊織に届く前に、空中で縫いとめられた。
矢だった。三本。一本の首に、等間隔で突き刺さっている。葦の向こうの枯れ木の上で、セリナがもう次の矢をつがえていた。
伊織は振り向かなかった。礼は、あとでいい。
左の首を斬る。焼こうとして、刃を押し当てた。
湯気が上がらなかった。
沼から跳ねた泥水が、刃をびっしょり濡らしていた。霧の冷たい粒が、伊織の熱を片っ端から吸っていく。切り口がじわりと泡立った。
ひと呼吸。ふた呼吸。
切り口から、首が二本、生えてきた。
「……っ、増えた」
伊織が次を斬る。焼ききる前に、また湿った霧が熱を奪う。また二本。
首は十本、十二本と増えていく。霧の中から、四方八方から、首が道の上に降ってくる。
「下がれ! 道の根元まで」
朔の声で、七人が一歩ずつ下がった。首の牙が、さっきまで澪の立っていた土をえぐる。道の先が、ばきりと砕けて沼に落ちた。
葦の中で、ガロの組の誰かが「だめだ、増えてる」とうめいた。
押されている。
伊織は荒い息のまま、自分の剣を見た。刃から、白い湯気ではなく、霧の水滴がしたたっていた。
「……熱が、乗らない」
その声を聞いて、莉子が顔を上げた。
莉子は、伊織の背中のすぐ後ろに立った。両手を、伊織の肩の高さにかざす。
「伊織、そのまま斬って」
乾いた風が、伊織のまわりにだけ吹きはじめた。霧が、伊織を中心に丸く吹き払われていく。剣の濡れが、見る間に乾いていく。
洗濯物を乾かす風が、伊織の熱を守っていた。
伊織の剣が、橙色に光った。
「――乗った」
次の首を斬る。焼く。一息だった。じゅっ。生えてこない。
「玲奈、首を並べて。琴音、見えないのを教えて」
朔の声が、もう落ち着いていた。
玲奈が右手を沼にかざした。冷気が落ちて、首の根もとの水面が白く凍る。三本の首が、氷に足をすくわれたように絡まって、一束になって伊織の前に倒れこんだ。
斬って、焼く。斬って、焼く。斬って、焼く。
「右後ろ、二。低い。……今、上」
琴音の声が霧の中に響く。見えない首も、琴音には聞こえている。泥をこする音、水を切る音。伊織は琴音の声のとおりに跳んで、伏せて、斬った。
「残り九」と恒一。「……七。……五」
首の一本が、道を外れて葦のほうへ伸びた。見学の五人のうちのひとりが、泥に足を取られて転んでいる。
「澪」
「行ってる!」
澪はもう走っていた。首の牙が転んだ冒険者に届く寸前――恒一の投げた石が、首の口にまっすぐ飛びこんだ。首がむせるようにのけぞる。その隙に、澪が冒険者の襟首をつかんで引きずり出した。
「足、ひねってるね。動かないで。すぐ治すから」
澪の手が光った。冒険者は口をぱくぱくさせたまま、自分の足首が元に戻っていくのを見ていた。
「残り、三。……一」
最後に残ったのは、真ん中の、ひときわ太い首だけだった。
【根】
真ん中の首が、身をよじった。
胴が、ずぶずぶと沼に沈みはじめる。首の付け根が、泥水の中に隠れていく。
「沈む気だ」と恒一。「根を隠す」
「玲奈、沈めるな。莉子、持ち上げて」
玲奈が両手を沼に向けた。冷気が、さっきまでとは比べものにならない量で落ちていく。胴のまわりの沼が、ばきばきと音を立てて、一面の白い氷に変わった。沈みかけた胴が、氷に抱えこまれて止まる。
莉子が、凍った沼の縁に両手をついた。
「ごめんね。もうちょっとだけ、借りるね」
沼の底から、根が伸び上がった。何十本もの太い根が、氷を割って胴に絡みつき、ゆっくりと、胴を水の上へ持ち上げていく。
真ん中の首の付け根が、朝の光の中に現れた。
「琴音、一小節」
「うん」
低い一音。
真ん中の首が、一瞬、硬直した。
伊織は、もう凍った沼の上を走っていた。持ち上げられた胴を駆け上がる。真ん中の首の付け根まで、三歩。
一太刀目。
真ん中の首が、根もとから落ちた。
切り口が、焼く前から泡立った。切り口ではない。そのもっと奥、胴の中から、新しい首が押し上がってくる。
伊織は、それを待たなかった。
剣を逆手に持ち替えて、胴に着地する。熱を、腕に、肩に、刃の先まで。
二太刀目。
全体重を乗せた剣が、首の生えかけた付け根の奥へ、まっすぐ吸いこまれていった。
胴が、大きく一度だけ震えた。
押し上がってきていた新しい首が、途中で止まった。そのまま、力を失って、氷の上にくたりと垂れる。
霧が、吹き払われるように晴れていった。その向こうから、青い空と、朝日にきらめく沼の水面が現れる。
伊織は剣を抜いて、胴を蹴って跳んだ。莉子の道の上に着地する。泥だらけだった。
振り返ると、六人が道の上をこちらへ駆けてくるところだった。少し離れた枯れ木の上で、セリナが弓を下ろして、恒一のほうだけを確かめるように見ていた。
伊織は剣を下ろして、長く息を吐いた。
「……終わった」
玲奈が手帳を閉じた。
「時間、計り忘れた」
玲奈にしては、珍しいことだった。
【見学席】
葦の中から、五人が出てきた。
先頭は大柄な男だった。大剣を、抜いてもいなかった。
男は沼を見た。氷の上に横たわるヒュドラの胴と、黒く焼け縮れた首の切り口の数々を見た。伊織を見た。伊織の剣を見た。それから、七人とセリナを、ひとりずつ見た。
男の口が開いて、閉じた。
「……あんたら」
声がかすれていた。
「何なんだ、いったい」
朔は少し考えた。
「通りすがりです」
男は天を仰いだ。それから、低く笑った。笑うしかない、という笑い方だった。
「三か月、誰も手を出せなかったヒュドラを、朝のうちにか」
それから、首を振った。
「斬ったら焼け、なんて、古い冒険譚でしか聞いたことがねえ。……どこで覚えた」
恒一が肩をすくめた。
「さあな。五年は、長かったんだよ」
男の仲間たちは、まだぽかんとしていた。澪に足を治されたひとりだけが、自分の足首を何度も確かめている。
男は笑いをおさめると、伊織の前まで歩いていって、大剣の柄を伊織のほうへ差し出した。握手の代わりだった。
「俺はガロ。……いつか、手合わせ頼む。今はまだ、勝てる気がしねえ」
伊織は泥だらけの手で、その柄に軽く触れた。
「いいよ。いつでも」
【繭】
ヒュドラの胴の下、凍った沼の割れ目から、何かが浮いてきた。
泥の繭だった。人ひとり分の大きさ。
ひとつではなかった。ぽこり、ぽこりと、全部で五つ。
恒一が葦の茎で引き寄せて、ナイフで裂いた。中で、若い女が丸まっていた。
息をしていた。かすかに。
「澪!」
澪が飛んできて、両手を女の胸に当てた。光が、長かった。
やがて女が咳きこんで、泥を吐いた。目を開けて、澪を見た。
「……生きてる」
澪の声が、震えていた。
「この子、眠らされてただけ。ほかのも、たぶん」
その一言で、全員が動いた。
恒一と伊織が繭を岸へ引き寄せ、莉子が乾いた風で泥を剥がす。玲奈が中の人の呼吸を順に確かめ、琴音が胸の鼓動を聞いて「この人が一番弱い」と澪に告げる。朔は、ガロの組に毛布と火を頼んだ。ガロは何も言わずに、自分の外套を脱いだ。
五つの繭から、五人が出てきた。三か月前に沼へ向かって、誰ひとり戻らなかった組。
全員、生きていた。
最初に目を覚ました女が、澪の腕をつかんで泣き出した。
「仲間は……」
「みんな、そこにいるよ。ほら」
女は、毛布にくるまって咳きこむ四人を見て、声を上げて泣いた。
「七つ星の再来、なんて名乗って……名前を借りれば勝てると思ったんです。馬鹿でした」
「馬鹿じゃないよ」と伊織が言った。「勝てなかったけど、生きてる。生きてりゃ、次がある」
ガロが、繭の殻を靴の先でつついた。
「ヒュドラは、獲物を毒で眠らせて、巣に溜めておくって話だ。……噂じゃ聞いてたが、本当だったんだな」
それから、遠く北の空を見た。
「あのヒュドラはな、もとはこの沼にいなかったんだ。三年前の冬から、急に住みついた。北の大湿地のほうから下りてきたって、漁師たちは言ってた」
玲奈がペンを止めた。
「北から」
「ああ。ここ三年、そういう話ばっかりだ。北にいたはずのやつが、南へ下りてくる」
ガロは肩をすくめた。
「何かに追い出されてるみてえにな」
【屋根 黒瀬琴音】
その夜、リーヴェルの町はお祭り騒ぎだった。
広場の噴水のまわりに、街灯の石がいくつもともっていた。日が落ちると、ひとりでに淡い琥珀色に光りはじめる石だ。その灯りの下で、誰かがリュートを弾き、獣族の若い冒険者たちが尻尾を揺らして踊っている。ギルドの広間は満席で、ガロが何度もジョッキを打ち合わせていた。沼から救い出された五人も、毛布にくるまったまま、隅の席でスープを飲んでいる。
受付の娘は、報酬の金貨を天秤にかけながら、何度も数え直していた。それから、帳面の「通りすがり F」の欄に目を落として、誰にも見えないように小さく笑った。
琴音は、宿屋の屋根の上にいた。スレートの屋根の、煙突の陰。
下の騒ぎが、少しだけ遠く聞こえる。ちょうどいい音量だった。
屋根の縁が、きしんだ。
朔だった。
「ここにいたのか」
「下、うるさい」
朔は琴音の隣に腰を下ろした。
街灯の石の灯りが、通りに沿って琥珀色の川のように続いていた。その上に、日本の何倍もの星。
琴音はしばらく黙っていた。それから言った。
「朔」
「ん」
「じっとしてて」
琴音は朔のほうへ体を倒して、朔の胸に耳を当てた。
朔の体が固まった。
琴音は目を閉じた。
聞こえた。どくん、どくん。
少し速い。琴音が耳を当てた瞬間に、もっと速くなった。
「……あなたの音」
琴音はつぶやいた。
「三年ぶり」
朔の手が、琴音の髪にそっと触れた。
「日本で、ずっと聞こえないふりしてた。朔の音、近くにあるのに。最初は美咲さんの隣で鳴ってる音だったし、そのあとも、待つって決めたから」
琴音は朔の胸に耳を押しつけたまま、続けた。
「伊織のこと。……聞こえてた。見張りの夜」
朔の心臓が跳ねた。
琴音は、くすっと笑った。
「今の、すごい音した」
「……聞くな」
「無理。聞こえる」
琴音は顔を上げた。目の前に、朔の顔があった。
琴音は近づかなかった。ただ、まっすぐ朔を見た。
「私は、急がない。……でも、ひとつだけ約束して」
「何を」
「私がこっちで最初に歌うとき。一番前で聞いて」
琴音の声が、少しだけ震えた。
「最初の一曲は、朔のための曲だから。ちゃんと聞いて。逃げないで」
朔は琴音を見て、頷く代わりに、琴音の額に自分の額をこつんと当てた。
「一番前で、聞く」
琴音は目を閉じた。
「……テンポ、ちょうどいい」
下の通りを、誰かが駆けてくる足音がした。
琴音が顔を上げる。
「……ギルドの受付の子の足音。すごく急いでる」
宿屋の扉が叩かれて、受付の娘の声が、階段の下から上がってきた。
「通りすがりの皆さん! 起きてますか! 南のエルム村から、早馬です。羊が毎晩さらわれて、昨日は……子どもがひとり、ゴブリンに」
娘は、そこで息を整えた。
「村長さんが、名指しなんです。『東の沼地のヒュドラを倒した組に』って」




