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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
40/57

第40話「沼地のヒュドラ」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第40話「沼地のヒュドラ」


【柄 神崎伊織】


夜明け前の鍛冶工房は、炉の火だけが明るかった。


革のふいごが、ゆっくり息をしている。黒い金床。壁の掛け金には、剣が十本ほど吊るしてあった。炉の口からこぼれた火の粉が、まだ暗い窓の外へ、蛍みたいに舞っていく。


伊織は、一本ずつ握った。握って、振らずに、置いた。


革の前掛けをした鍛冶師が、腕を組んでそれを見ていた。白いものの混じった髭を、編んで垂らしている。


「お嬢さん、振ってみないのか」


「振る前に、決める」


伊織は焼き入れ用の水槽に、両手を浸けた。濡れた手で、もう一度、一本ずつ握っていく。


「……何してんだ」


「戦ってるときって、手、濡れるんだよね。汗とか、雨とか、血とか」


七本目を握る。


「乾いてるときに握りやすい柄は、濡れると滑る。で、だいたい一番大事なときに、濡れてる」


前の剣が、そうだった。五年間、毎日握っていた柄。それが、あの洞窟で、手汗で滑った。指の腹は、今もあの感触を覚えている。あの剣は、今、ここにはない。


八本目。


伊織の手が止まった。


濡れた手のひらに、柄が吸いつくように収まった。握り直しても、ずれない。


伊織は、初めてそれを振った。


炉の火が、刃の上を一直線に走った。


鍛冶師が、組んでいた腕をほどいた。


「……それ、俺が打った中で、一番売れ残ってたやつだ」


「なんで」


「重すぎる。ここらの冒険者じゃ、振り回されちまう」


伊織は剣を肩に担いで、にっと笑った。


「じゃあ、あたし用だ」


振り返ると、朔が壁の剣の前に立っていた。


選び方が、伊織とは違った。一本ずつ、抜いて、収める。また抜いて、収める。振りはしなかった。


「兄さんは、振らないのか」と鍛冶師。


「抜くのが遅い剣は、使えない」と朔は言った。「指示を出しながら、抜けるやつがいい」


五本目で、朔の手が止まった。飾りのない、まっすぐな片手の剣だった。新しくはない。柄の革が、前の持ち主の手の形にすり減っている。


「そいつは下取りだ。刃だけ、俺が打ち直した」


朔は、それを抜いて、収めた。鞘の中で、音がしなかった。


「これにする」


二本分の代金を台に置くと、朔の袋は、ほとんど空になった。売れ残りと下取りだったから、足りた。


【霧 佐伯恒一】


東の沼地は、白い霧の底に沈んでいた。


背丈より高い葦が、どこまでも続いている。水面は泥で茶色く濁って、どこまでが地面でどこからが水なのか分からない。霧の上のほうだけが、朝日を受けて薄い桃色に染まっていた。


恒一はしゃがんで、泥に指を入れた。


冷たい。なのに、ところどころで、温かい泡がぽつり、ぽつりと浮いてくる。


恒一は泡の浮く場所を目で追った。右に一つ。その隣に一つ。少し離れて、また一つ。


数えて、九つ。九つの泡が、少しずつずれた拍で、同じ長さの間を置いて浮いてくる。


「……九か所で、息してる」


「九匹?」と莉子。


「いや」


恒一は立ち上がって、泥を払った。


「泡の間隔がそろってる。腹がひとつで、口が九つ。……九本だな」


玲奈が、手帳の昨夜のページを開いた。「三本から九本」と書いた行に、ペン先で線を引く。


「九本。証言の一番多い数が、正しかった。少ない数を言った人は、霧で全部が見えてなかった」


「後ろにもいるよ」と琴音が言った。振り返りもしない。「葦の中に五人。昨日の、大きい人たち。足音、殺してるつもりみたい」


恒一は苦笑した。殺せていなかった。葦が、五人分、妙な揺れ方をしている。


「ほっとけ」と朔が言った。「見学席だ」


それから、伊織のほうを見た。


「伊織。斬ったら焼け。焼かないなら、斬るな」


「知ってる」


伊織は新しい剣の柄を、濡れた手で握り直した。


「真ん中は、根だ」と恒一が付け足した。


「それも知ってる」


【首】


朔の首の後ろが、ちりっとした。


「来る」


沼の真ん中が盛り上がった。泥が山のように持ち上がって、崩れ落ちる。


霧の中から、首が一本、立ち上がった。


大人の胴ほどの太さ。濡れた緑の鱗が、霧の中でぬらりと光る。蛇に似た頭が、七人を見下ろしていた。


二本。三本。五本。


首が次々に霧を割って現れる。どれも別々の方向を向き、別々に舌を出し入れしている。最後に、ひときわ太い一本が、真ん中に立ち上がった。


九本。


葦の中で、誰かがひっと息を呑んだ。


「莉子」


「うん」


莉子が泥の上に両手をついた。手のひらから、乾いた風が吹き出す。洗濯物をひと晩で乾かす風。莉子が五年間、毎日使ってきた、何でもない生活の魔法だ。


その風が、沼の縁の泥を、見る間にひび割れた固い土に変えていく。七人の足もとから、固い地面の道が何本も、扇のように沼の中へ伸びた。


「道、できたよ。水には入らないでね」


首の一本が、道の上の伊織へまっすぐ降ってきた。


伊織は斬った。


濡れた柄が、手の中で少しもずれない。首が、すっぱりと落ちる。


いい剣だ、と思う間もなく、伊織は刃を返して、切り口に押し当てた。熱が刃から流れこむ。じゅっ、と白い湯気が上がって、切り口が黒く焼け縮れた。


その切り口からは、何も生えてこなかった。


「一本」と恒一が数えた。


葦の中で、ガロの声がした。小さく、でもはっきりと。


「……なんで、知ってる」


【九本】


二本目と三本目が、左右から来た。


右は伊織が斬って、焼いた。左は、伊織に届く前に、空中で縫いとめられた。


矢だった。三本。一本の首に、等間隔で突き刺さっている。葦の向こうの枯れ木の上で、セリナがもう次の矢をつがえていた。


伊織は振り向かなかった。礼は、あとでいい。


左の首を斬る。焼こうとして、刃を押し当てた。


湯気が上がらなかった。


沼から跳ねた泥水が、刃をびっしょり濡らしていた。霧の冷たい粒が、伊織の熱を片っ端から吸っていく。切り口がじわりと泡立った。


ひと呼吸。ふた呼吸。


切り口から、首が二本、生えてきた。


「……っ、増えた」


伊織が次を斬る。焼ききる前に、また湿った霧が熱を奪う。また二本。


首は十本、十二本と増えていく。霧の中から、四方八方から、首が道の上に降ってくる。


「下がれ! 道の根元まで」


朔の声で、七人が一歩ずつ下がった。首の牙が、さっきまで澪の立っていた土をえぐる。道の先が、ばきりと砕けて沼に落ちた。


葦の中で、ガロの組の誰かが「だめだ、増えてる」とうめいた。


押されている。


伊織は荒い息のまま、自分の剣を見た。刃から、白い湯気ではなく、霧の水滴がしたたっていた。


「……熱が、乗らない」


その声を聞いて、莉子が顔を上げた。


莉子は、伊織の背中のすぐ後ろに立った。両手を、伊織の肩の高さにかざす。


「伊織、そのまま斬って」


乾いた風が、伊織のまわりにだけ吹きはじめた。霧が、伊織を中心に丸く吹き払われていく。剣の濡れが、見る間に乾いていく。


洗濯物を乾かす風が、伊織の熱を守っていた。


伊織の剣が、橙色に光った。


「――乗った」


次の首を斬る。焼く。一息だった。じゅっ。生えてこない。


「玲奈、首を並べて。琴音、見えないのを教えて」


朔の声が、もう落ち着いていた。


玲奈が右手を沼にかざした。冷気が落ちて、首の根もとの水面が白く凍る。三本の首が、氷に足をすくわれたように絡まって、一束になって伊織の前に倒れこんだ。


斬って、焼く。斬って、焼く。斬って、焼く。


「右後ろ、二。低い。……今、上」


琴音の声が霧の中に響く。見えない首も、琴音には聞こえている。泥をこする音、水を切る音。伊織は琴音の声のとおりに跳んで、伏せて、斬った。


「残り九」と恒一。「……七。……五」


首の一本が、道を外れて葦のほうへ伸びた。見学の五人のうちのひとりが、泥に足を取られて転んでいる。


「澪」


「行ってる!」


澪はもう走っていた。首の牙が転んだ冒険者に届く寸前――恒一の投げた石が、首の口にまっすぐ飛びこんだ。首がむせるようにのけぞる。その隙に、澪が冒険者の襟首をつかんで引きずり出した。


「足、ひねってるね。動かないで。すぐ治すから」


澪の手が光った。冒険者は口をぱくぱくさせたまま、自分の足首が元に戻っていくのを見ていた。


「残り、三。……一」


最後に残ったのは、真ん中の、ひときわ太い首だけだった。


【根】


真ん中の首が、身をよじった。


胴が、ずぶずぶと沼に沈みはじめる。首の付け根が、泥水の中に隠れていく。


「沈む気だ」と恒一。「根を隠す」


「玲奈、沈めるな。莉子、持ち上げて」


玲奈が両手を沼に向けた。冷気が、さっきまでとは比べものにならない量で落ちていく。胴のまわりの沼が、ばきばきと音を立てて、一面の白い氷に変わった。沈みかけた胴が、氷に抱えこまれて止まる。


莉子が、凍った沼の縁に両手をついた。


「ごめんね。もうちょっとだけ、借りるね」


沼の底から、根が伸び上がった。何十本もの太い根が、氷を割って胴に絡みつき、ゆっくりと、胴を水の上へ持ち上げていく。


真ん中の首の付け根が、朝の光の中に現れた。


「琴音、一小節」


「うん」


低い一音。


真ん中の首が、一瞬、硬直した。


伊織は、もう凍った沼の上を走っていた。持ち上げられた胴を駆け上がる。真ん中の首の付け根まで、三歩。


一太刀目。


真ん中の首が、根もとから落ちた。


切り口が、焼く前から泡立った。切り口ではない。そのもっと奥、胴の中から、新しい首が押し上がってくる。


伊織は、それを待たなかった。


剣を逆手に持ち替えて、胴に着地する。熱を、腕に、肩に、刃の先まで。


二太刀目。


全体重を乗せた剣が、首の生えかけた付け根の奥へ、まっすぐ吸いこまれていった。


胴が、大きく一度だけ震えた。


押し上がってきていた新しい首が、途中で止まった。そのまま、力を失って、氷の上にくたりと垂れる。


霧が、吹き払われるように晴れていった。その向こうから、青い空と、朝日にきらめく沼の水面が現れる。


伊織は剣を抜いて、胴を蹴って跳んだ。莉子の道の上に着地する。泥だらけだった。


振り返ると、六人が道の上をこちらへ駆けてくるところだった。少し離れた枯れ木の上で、セリナが弓を下ろして、恒一のほうだけを確かめるように見ていた。


伊織は剣を下ろして、長く息を吐いた。


「……終わった」


玲奈が手帳を閉じた。


「時間、計り忘れた」


玲奈にしては、珍しいことだった。


【見学席】


葦の中から、五人が出てきた。


先頭は大柄な男だった。大剣を、抜いてもいなかった。


男は沼を見た。氷の上に横たわるヒュドラの胴と、黒く焼け縮れた首の切り口の数々を見た。伊織を見た。伊織の剣を見た。それから、七人とセリナを、ひとりずつ見た。


男の口が開いて、閉じた。


「……あんたら」


声がかすれていた。


「何なんだ、いったい」


朔は少し考えた。


「通りすがりです」


男は天を仰いだ。それから、低く笑った。笑うしかない、という笑い方だった。


「三か月、誰も手を出せなかったヒュドラを、朝のうちにか」


それから、首を振った。


「斬ったら焼け、なんて、古い冒険譚でしか聞いたことがねえ。……どこで覚えた」


恒一が肩をすくめた。


「さあな。五年は、長かったんだよ」


男の仲間たちは、まだぽかんとしていた。澪に足を治されたひとりだけが、自分の足首を何度も確かめている。


男は笑いをおさめると、伊織の前まで歩いていって、大剣の柄を伊織のほうへ差し出した。握手の代わりだった。


「俺はガロ。……いつか、手合わせ頼む。今はまだ、勝てる気がしねえ」


伊織は泥だらけの手で、その柄に軽く触れた。


「いいよ。いつでも」


【繭】


ヒュドラの胴の下、凍った沼の割れ目から、何かが浮いてきた。


泥の繭だった。人ひとり分の大きさ。


ひとつではなかった。ぽこり、ぽこりと、全部で五つ。


恒一が葦の茎で引き寄せて、ナイフで裂いた。中で、若い女が丸まっていた。


息をしていた。かすかに。


「澪!」


澪が飛んできて、両手を女の胸に当てた。光が、長かった。


やがて女が咳きこんで、泥を吐いた。目を開けて、澪を見た。


「……生きてる」


澪の声が、震えていた。


「この子、眠らされてただけ。ほかのも、たぶん」


その一言で、全員が動いた。


恒一と伊織が繭を岸へ引き寄せ、莉子が乾いた風で泥を剥がす。玲奈が中の人の呼吸を順に確かめ、琴音が胸の鼓動を聞いて「この人が一番弱い」と澪に告げる。朔は、ガロの組に毛布と火を頼んだ。ガロは何も言わずに、自分の外套を脱いだ。


五つの繭から、五人が出てきた。三か月前に沼へ向かって、誰ひとり戻らなかった組。


全員、生きていた。


最初に目を覚ました女が、澪の腕をつかんで泣き出した。


「仲間は……」


「みんな、そこにいるよ。ほら」


女は、毛布にくるまって咳きこむ四人を見て、声を上げて泣いた。


「七つ星の再来、なんて名乗って……名前を借りれば勝てると思ったんです。馬鹿でした」


「馬鹿じゃないよ」と伊織が言った。「勝てなかったけど、生きてる。生きてりゃ、次がある」


ガロが、繭の殻を靴の先でつついた。


「ヒュドラは、獲物を毒で眠らせて、巣に溜めておくって話だ。……噂じゃ聞いてたが、本当だったんだな」


それから、遠く北の空を見た。


「あのヒュドラはな、もとはこの沼にいなかったんだ。三年前の冬から、急に住みついた。北の大湿地のほうから下りてきたって、漁師たちは言ってた」


玲奈がペンを止めた。


「北から」


「ああ。ここ三年、そういう話ばっかりだ。北にいたはずのやつが、南へ下りてくる」


ガロは肩をすくめた。


「何かに追い出されてるみてえにな」


【屋根 黒瀬琴音】


その夜、リーヴェルの町はお祭り騒ぎだった。


広場の噴水のまわりに、街灯の石がいくつもともっていた。日が落ちると、ひとりでに淡い琥珀色に光りはじめる石だ。その灯りの下で、誰かがリュートを弾き、獣族の若い冒険者たちが尻尾を揺らして踊っている。ギルドの広間は満席で、ガロが何度もジョッキを打ち合わせていた。沼から救い出された五人も、毛布にくるまったまま、隅の席でスープを飲んでいる。


受付の娘は、報酬の金貨を天秤にかけながら、何度も数え直していた。それから、帳面の「通りすがり F」の欄に目を落として、誰にも見えないように小さく笑った。


琴音は、宿屋の屋根の上にいた。スレートの屋根の、煙突の陰。


下の騒ぎが、少しだけ遠く聞こえる。ちょうどいい音量だった。


屋根の縁が、きしんだ。


朔だった。


「ここにいたのか」


「下、うるさい」


朔は琴音の隣に腰を下ろした。


街灯の石の灯りが、通りに沿って琥珀色の川のように続いていた。その上に、日本の何倍もの星。


琴音はしばらく黙っていた。それから言った。


「朔」


「ん」


「じっとしてて」


琴音は朔のほうへ体を倒して、朔の胸に耳を当てた。


朔の体が固まった。


琴音は目を閉じた。


聞こえた。どくん、どくん。


少し速い。琴音が耳を当てた瞬間に、もっと速くなった。


「……あなたの音」


琴音はつぶやいた。


「三年ぶり」


朔の手が、琴音の髪にそっと触れた。


「日本で、ずっと聞こえないふりしてた。朔の音、近くにあるのに。最初は美咲さんの隣で鳴ってる音だったし、そのあとも、待つって決めたから」


琴音は朔の胸に耳を押しつけたまま、続けた。


「伊織のこと。……聞こえてた。見張りの夜」


朔の心臓が跳ねた。


琴音は、くすっと笑った。


「今の、すごい音した」


「……聞くな」


「無理。聞こえる」


琴音は顔を上げた。目の前に、朔の顔があった。


琴音は近づかなかった。ただ、まっすぐ朔を見た。


「私は、急がない。……でも、ひとつだけ約束して」


「何を」


「私がこっちで最初に歌うとき。一番前で聞いて」


琴音の声が、少しだけ震えた。


「最初の一曲は、朔のための曲だから。ちゃんと聞いて。逃げないで」


朔は琴音を見て、頷く代わりに、琴音の額に自分の額をこつんと当てた。


「一番前で、聞く」


琴音は目を閉じた。


「……テンポ、ちょうどいい」


下の通りを、誰かが駆けてくる足音がした。


琴音が顔を上げる。


「……ギルドの受付の子の足音。すごく急いでる」


宿屋の扉が叩かれて、受付の娘の声が、階段の下から上がってきた。


「通りすがりの皆さん! 起きてますか! 南のエルム村から、早馬です。羊が毎晩さらわれて、昨日は……子どもがひとり、ゴブリンに」


娘は、そこで息を整えた。


「村長さんが、名指しなんです。『東の沼地のヒュドラを倒した組に』って」

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