第4話「ただいま」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第4話「ただいま」
【21:47 高橋美咲】
箸を持ったまま、美咲は時計を見ていた。九時四十七分。毎晩この時刻になると、何かが起きる気がして、何も起きない。
そのとき、部屋の空気が、ふっと沈んだ。
椅子の前に、朔が立っていた。
声が出なかった。朔は美咲を見るより先に、窓を見た。ドアを見た。部屋の隅を見た。一秒もかからないその動きが、美咲の知っている朔のものではなかった。
「……朔」
名前を呼ぶと、視線がやっと美咲に落ちた。次の瞬間、大きな手が美咲の肩を掴む。
「無事か。怪我は。誰か来たか」
「え……?」
「いや」朔は息を吐いて、手を離した。「……すまん。そうじゃないな」
美咲の目から、涙が溢れた。袖を握りしめる。
「おかえり」
朔の喉が動いた。ほんの少し間があって、掠れた声が返る。
「……ただいま」
袖を握る美咲の指の下で、朔の腕は、覚えているよりずっと硬かった。
【21:47 桐谷真帆】
水差しを持ったまま、真帆は固まっていた。
鉢植えの横に、澪が立っている。部屋着ではなく、あの夜の服で。
「……澪」
澪は、ぱっと真帆の顔を見た。それから目の下を、首筋を、肩の呼吸を、順に見ていく。
「真帆、顔色悪い。ちゃんと食べてる? 息、浅いよ。ちょっと座って」
真帆の手から、水差しが落ちかけた。
「……第一声が、それ?」
「え?」
「二週間、行方不明だったんだよ! 自分の心配、先にしてよ!」
澪はまばたきをした。自分のことなど、すっかり忘れていた顔だった。
「あ……ごめん。でも、私は大丈夫だから」
「その『大丈夫』が……!」
真帆は澪に抱きついた。怒鳴りながら、泣いていた。澪は驚いたように、それでも真帆の背中を、ゆっくりと撫でていた。
そのあいだ、澪の頭のどこかに、ひとつの名前が浮かんでいた。真帆の名前ではなかった。誰よりも先に、無事を確かめたい人の名前だった。
【21:47 神谷奏司】
練習室の防音ドアは、静かに閉まっていた。神谷は琴音のキーボードに手を置いたまま、動けなかった。
鍵盤の向こうに、琴音が立っていた。
彼女は目を閉じて、両手で耳を塞いでいる。
「……琴音さん?」
「待って。……うるさい」
「ここ、防音室だよ」
「そうだね。それでも、多い」
蛍光灯の唸り、空調の風、壁の向こうの遠い電車。琴音はそれらを一つずつ確かめるように、ゆっくりと息をした。やがて手を下ろし、無意識に、小さな旋律を口ずさみ始める。
神谷の知らない歌だった。やさしい、揺れるような節回し。
「それ、何の曲?」
「……子守唄。かな」
「誰の?」
「……誰の、だったかな」
琴音は曖昧に笑った。その笑顔が、二週間前の彼女よりも、ずっと遠くにあるように見えた。
【21:47 神崎伊織】
暗い部屋で、ゲーム機の赤いランプが点滅している。
伊織は、壁に背中をつけて立っていた。いつの間にか。
遠くで、玄関のポストに何かが落ちる音がした。次の瞬間、伊織の体が勝手に低く沈み、右手が腰へ伸びる。
空を掴んだ。
そこには、何もなかった。
「……は?」
自分の手を見て、伊織は笑った。「何やってんの、あたし」。声が、少しだけ震えた。
電気をつける。いつもの部屋だ。ゲーム機、クッション、積まれた雑誌。スマホの日付を見て、眉を寄せる。
「ふーん。二週間か」
どうせ誰も心配してない、と口に出してみる。画面には、百件を超える通知が並んでいた。そのなかに、一行だけ。
『帰ってこい』
伊織の指が止まった。三秒。五秒。返事は打たない。でも、画面を閉じることもできなかった。
【21:47 白川玲奈】
玲奈は、自分の机の前に座っていた。
読みかけの論文が開いたまま。ペンが転がっている。スマホの日付は、あの夜から十四日目。
ノートを開き、玲奈は一行だけ書いた。『原因:』。
そこで、手が止まる。
以前の自分なら、ここから三時間は考えただろう。仮説を並べ、反証を立て、納得するまで眠らなかった。でも今は、ペンを置いても、不思議と胸のざわつきがない。
「……分からない」
声に出してみると、思ったよりも静かに響いた。部屋の空気が、いつもより少しだけ濃く感じられる。玲奈はそれを、そのまま受け止めた。
【21:47 小鳥遊莉子】
焦げた匂いが、まだ少し残っていた。
莉子はキッチンに立っていた。コンロには、見知らぬ新しい鍋が置かれている。誰かが、かわりに置いてくれたのだろう。
蛇口をひねる。
水が出た。まっすぐに、冷たく、ためらいもなく。
莉子はコップに汲んで、一気に飲み干した。それからもう一杯。三杯目で、笑いと涙がいっしょに出てきた。
「冷たい……おいしい……」
冷蔵庫を開けると、庫内灯がふわりと灯る。奥の野菜室で、しなびたキャベツが静かに死んでいた。莉子は顔をしかめ、しかし次の瞬間には、手が勝手に動いていた。使える葉を剥ぎ、傷んだ部分を落とし、日付の古い順に並べなおす。
「……もったいない」
つぶやきながら、莉子はスイッチを押した。電気が、一瞬でともった。
【21:47 佐伯恒一】
夜の山だった。
冷えた焚き火の跡と、折りたたみ椅子。テントのファスナーが、風で小さく鳴っている。恒一は、空を見上げた。
稜線の形を見る。星の位置を見る。耳をすませると、三十メートルほど先に、沢の水音。さらに遠く、国道を走るトラックの低いエンジン音が、風にのって聞こえてくる。
右手が、無意識に上がっていた。誰かの名を呼ぼうとして、口が開いて、そのまま閉じる。
「……日本、か」
スマホの電波は、一本だけ立っていた。恒一はそれを確かめて、ようやく、肩の力を抜いて笑った。
【22:10 電話】
『生きてるか』
「……ああ。お前は」
『山の上だ。圏外ギリギリでな』
朔の声を聞いて、恒一は焚き火の跡にしゃがみ込んだ。
『二週間だってよ』
「……ああ。聞いた」
『嘘みたいだな』
「……ああ。嘘みたいだ」
通話を切った朔は、窓の外の街の明かりを、長いこと見つめていた。背中のほうで、美咲が小さく息をついて、やっと眠りに落ちる気配がした。




