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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
38/57

第38話「遅ぇんだよ」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第38話「遅ぇんだよ」


【森 佐伯恒一】


森に入ると、恒一はほとんど喋らなくなった。


六人はもう慣れている。五年間、ずっとこうだった。


木漏れ日が、苔の上に丸い光の斑をいくつも落としていた。頭の上で、知らない鳥が三つの音で鳴き交わしている。恒一は、そのどれにも目をやらずに、地面と、木の幹と、枝の折れ方だけを見ていた。


「輪罠だ」


太い根の脇に、細い縄の輪が、落ち葉に隠して仕掛けてあった。


「知らない人のじゃないの?」と莉子。


「結び目が、あいつのだ」


恒一は輪には触れずに、結び目だけを指でなぞった。


「最後に一回、ひねる。教えたの、俺だ。……あいつ、まだやってる」


声が、少しだけ揺れた。


罠はひとつではなかった。十歩ごとにひとつ、獣道に沿ってきれいに並んでいる。


「毎日見回ってる人の仕掛け方だね」と玲奈が言った。「落ち葉の乗り方が、どれも半日以内」


「つまり、この辺に住んでる」と澪。


恒一は答えなかった。歩く速さだけが、少し上がった。


森が開けた。


苔に覆われた岩の壁が、青い空に向かってそそり立っている。その途中に、張り出した岩棚があった。岩の割れ目から細い滝が落ちていて、しぶきが光の粒になって舞っていた。


恒一が足を止めて、上を見た。


風が、岩棚のほうから吹き下ろしてきた。


「……来る」


【遅ぇんだよ】


岩棚の縁から、人影が跳んだ。


降りてくるのではない。落ちてくるのだ。


恒一が見上げたときには、もう外套の裾が目の前にあった。


膝が来た。


恒一は半身になって、肩で受けた。受けた、と思ったときには足を払われていた。背中から苔の上に落ちる。落ちながら、相手の袖をつかんで引いた。


二人で転がった。


上になる。下になる。肘が来る。手首で止める。膝が来る。腿で止める。息がぶつかる。土の匂い、苔の匂い。それから、もうひとつの匂い。


体が、全部覚えていた。


最後に、恒一が相手の両手首を苔の上に押さえつけた。


フードが外れていた。


銀色の髪が、苔の上に広がっている。髪のあいだから、灰白色の尖った耳。


琥珀色の目が、恒一をにらみ上げていた。


その目が、赤かった。


「……鈍って、ねえじゃねえか」


「お前もな」


恒一が手首を離すと、セリナは起き上がりざまに、拳を恒一の胸に叩きつけた。


痛かった。思ったより、ずっと。


「遅ぇんだよ」


もう一発。もう一発。胸の同じ場所を、拳が何度も叩く。恒一は避けなかった。


「どれだけ待たせやがった。この、馬鹿」


声が、途中で崩れた。


拳が止まった。恒一の胸の上で、握ったまま震えていた。


「……悪い」


「悪いで済むか」


「済まねえな」


「……済まねえよ」


額が、とん、と恒一の肩に乗った。拳がほどけて、恒一の上着をつかむ。皺になるほど、強く。


恒一は、その背中に腕を回した。力の加減が分からなかった。壊しそうで、でも離したくなかった。


大きな尻尾が、恒一の脚にばさりと巻きついた。


「……三年だぞ」


くぐもった声が言った。


三年。


恒一の腕が、一瞬止まった。


――こっちでも、三年。


「毎日、数えてた。毎日」


「……ああ」


恒一はそれ以上、何も言えなかった。


「セリナ」


名前を呼んだ。三年間、口の中でだけ何度も呼んだ名前だった。


【三年】


木々のあいだから、六人が出てきていた。


全員、聞いていた。


三年。


最初に声を出したのは玲奈だった。手帳を開いたまま、ページは見ていなかった。


「……一対一?」


「玲奈?」


「前は、日本の二週間が、こっちの五年だった。今回は、日本の三年が、こっちの三年。比率が全然違う。……仮説、全部書き直し」


いつもより早口だった。


莉子が、両手で口を押さえていた。


「あの子」


声が震えた。


「三年分、大きくなってる。私のこと、覚えてるかな。もう背、抜かれてるかも」


澪は何も言わずに、莉子の背中をさすった。さすりながら、自分の唇をきゅっと噛んでいた。


琴音は、空を仰いでいた。


「……三年、休符」


ぽつりと言う。


「長すぎる。曲、忘れられちゃう」


伊織は頭をかいた。


「三年分、何が起きたか、あたしたち何も知らないってことだよね」


誰も、すぐには答えなかった。


朔だけが黙っていた。


三年。あの人も、あの場所も、三年。


朔は拳をゆっくり握って、それから開いた。


「……全員」


六人が朔を見た。


「三年分、取り返す。順番に、一個ずつ」


朔は、まだ恒一にしがみついているセリナの背中を、顎で示した。


「一個目は、もう取り返した」


伊織が、鼻をすすった。


【火】


セリナの住処は、岩棚の上の浅い洞穴だった。


床に、鹿の毛皮が二枚。壁ぎわに鉄の小鍋と、獣の角を削った杯。天井からは、干した薬草の束がいくつも吊るしてある。使いこまれた長弓と、羽根をそろえた矢筒。洞穴の入口からは、森と、その向こうの草原と、夕日に染まる遠い川まで見渡せた。冬を何度も越してきた人の、無駄のない住まいだった。


焚き火を囲んだ。


セリナは、恒一の隣に座っていた。肩がくっついている。本人は、たぶん気づいていない。


「で」


澪が、膝の上で頬杖をついてセリナを見た。


「三年、ずっとここで待ってたの?」


セリナは、火を見たまま答えた。


「……待ってねえ。住んでただけだ」


「この森に」


「獲物が多い」


「恒一くんが消えた場所の、一番近くの森に」


「……獲物が、多い」


澪はそれ以上訊かなかった。少しだけ笑って、恒一のほうを向いた。


恒一は黙って、薪をくべた。耳まで赤かった。


莉子が荷から、焼いたパンを出した。日本で焼いた最後のパンだ。少し固くなっていた。


それを、八つに割った。


「はい。セリナさんも」


セリナはパンを受け取って、しばらく眺めていた。匂いを嗅いで、ひと口かじる。


もうひと口。


「……うめえ」


「でしょ」と莉子が笑った。「日本の小麦。こっちのより、ちょっと甘いの」


食べ終わると、セリナが立ち上がって、恒一の外套の襟をつかんだ。


「来い」


「は?」


「見回り。罠」


「今か」


「今だ」


セリナは恒一を引きずるようにして、洞の外の暗がりへ出ていった。


暗がりの向こうで、何かがつまずく音と、セリナの短い舌打ちがした。


琴音が、くすっと笑った。


【見張り 朝倉朔】


夜半、朔は洞の入口で見張りをしていた。


森は、星の下で静かだった。空には、日本では見たことのない数の星が、こぼれるように瞬いている。どこかで、夜の鳥が一度だけ鳴いた。


背後で、干し草のこすれる音がした。


伊織だった。毛布を肩にかけて、朔の隣にどさっと座る。


「交代、まだだぞ」


「知ってる。寝れないだけ」


伊織は膝を抱えた。


しばらく、二人とも黙っていた。


「……ねえ」


「ん」


「昼間さ。指、絡めたじゃん」


朔の心臓が、一回、余分に打った。


「あれ、たまたま? それとも」


伊織はそこで止めた。膝に顎を乗せて、朔を横目で見る。


星明かりで、伊織の目が、濡れたように光っていた。


「あたし、日本で三年、ずっと我慢したんだけど。最初は美咲さんがいたし、そのあとは、待つって決めたから。……分かってたから。まだ、あたしの番じゃないって」


伊織の声が、少しかすれた。


「でも、もう日本じゃないじゃん」


朔は伊織を見た。伊織は目をそらさなかった。


「……たまたまじゃない」


朔は言った。自分の声が、思ったより低かった。


伊織の目が見開かれた。


それから伊織は毛布を放り出して、朔の胸ぐらを両手でつかんだ。


「言ったね」


「言った」


「取り消し不可だからね」


伊織が顔を寄せた。


唇が触れた。


乱暴で、不器用で、少し歯がぶつかった。


伊織は離れなかった。


朔の手が、伊織の背中に回る。伊織の体温は、毛布より、焚き火より熱かった。三年分の熱だった。


伊織の指が、朔の襟の中にすべりこんだ。


朔は、その手首をそっとつかんだ。


「……伊織」


「なに。今いいとこ」


「見張り中だ」


伊織は朔の胸に額を押しつけて、長く息を吐いた。


「分かってる。分かってるけど」


それから、朔の肩に軽く歯を立てた。


「続き。……絶対だからね」


【翌朝】


朝、洞穴の前で、莉子がセリナの鉄の小鍋を借りて、干し肉と野草のスープを温めていた。朝日が森の梢を金色に縁取って、鍋の湯気がその中をのぼっていく。


伊織は、朔と目を合わせなかった。


朔が「おはよう」と言うと、伊織は「……おはよ」とだけ返して、背を向けて薪を割りに行った。


薪割りの音が、やけに力強かった。


澪が木の器を両手で持ったまま、伊織の背中と朔の顔を、交互に眺めていた。


それから朔の隣に来て、声を落とした。


「伊織、今朝、一回も朔くんのほう見てないね」


「……そうか?」


「そうだよ」


澪はスープをひと口飲んだ。


「私、順番は守る人だから。日本でも、ずっと守ってた」


朔のほうを見ずに、続ける。


「でも、順番が来たら遠慮しない。……それだけ、覚えといて」


朔は、何も言えなかった。


琴音は少し離れた岩の上で、膝を抱えて、全部を聞いていた。聞こえてしまうのだ。昨日の夜も、今朝も。


琴音は空を見上げた。


「……みんな、テンポ速すぎ」


それから、誰にも聞こえないくらいの声で付け足した。


「私だって、待ってたのに」


【商売】


恒一とセリナは、日が昇りきってから戻ってきた。


二人とも、髪に葉っぱがついていた。


誰も、何も訊かなかった。伊織だけが、口笛を吹きかけて、澪に脇腹をつつかれた。


出発の支度をしながら、朔はセリナに訊いた。


「この先の町のこと、教えてほしい。三年で、何が変わったか」


セリナは弓の弦を張り直しながら、少し考えた。


「リーヴェルは、ある。前と同じ所に。……でかくなった」


「でかく?」


「人が増えた。冒険者も。ギルドの建物も、前の倍ある」


セリナが弦を指で弾くと、澄んだいい音がした。


それから、朔を見た。琥珀色の目が、少しだけ細くなる。


「覚悟しとけ」


「何を」


「町じゃ、今」


セリナは、七人をひとりずつ見た。口の端が、意地悪く上がっていた。


「『七人』の名前は、ちょっとした商売になってる。……たぶん、笑うぞ」

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