第38話「遅ぇんだよ」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第38話「遅ぇんだよ」
【森 佐伯恒一】
森に入ると、恒一はほとんど喋らなくなった。
六人はもう慣れている。五年間、ずっとこうだった。
木漏れ日が、苔の上に丸い光の斑をいくつも落としていた。頭の上で、知らない鳥が三つの音で鳴き交わしている。恒一は、そのどれにも目をやらずに、地面と、木の幹と、枝の折れ方だけを見ていた。
「輪罠だ」
太い根の脇に、細い縄の輪が、落ち葉に隠して仕掛けてあった。
「知らない人のじゃないの?」と莉子。
「結び目が、あいつのだ」
恒一は輪には触れずに、結び目だけを指でなぞった。
「最後に一回、ひねる。教えたの、俺だ。……あいつ、まだやってる」
声が、少しだけ揺れた。
罠はひとつではなかった。十歩ごとにひとつ、獣道に沿ってきれいに並んでいる。
「毎日見回ってる人の仕掛け方だね」と玲奈が言った。「落ち葉の乗り方が、どれも半日以内」
「つまり、この辺に住んでる」と澪。
恒一は答えなかった。歩く速さだけが、少し上がった。
森が開けた。
苔に覆われた岩の壁が、青い空に向かってそそり立っている。その途中に、張り出した岩棚があった。岩の割れ目から細い滝が落ちていて、しぶきが光の粒になって舞っていた。
恒一が足を止めて、上を見た。
風が、岩棚のほうから吹き下ろしてきた。
「……来る」
【遅ぇんだよ】
岩棚の縁から、人影が跳んだ。
降りてくるのではない。落ちてくるのだ。
恒一が見上げたときには、もう外套の裾が目の前にあった。
膝が来た。
恒一は半身になって、肩で受けた。受けた、と思ったときには足を払われていた。背中から苔の上に落ちる。落ちながら、相手の袖をつかんで引いた。
二人で転がった。
上になる。下になる。肘が来る。手首で止める。膝が来る。腿で止める。息がぶつかる。土の匂い、苔の匂い。それから、もうひとつの匂い。
体が、全部覚えていた。
最後に、恒一が相手の両手首を苔の上に押さえつけた。
フードが外れていた。
銀色の髪が、苔の上に広がっている。髪のあいだから、灰白色の尖った耳。
琥珀色の目が、恒一をにらみ上げていた。
その目が、赤かった。
「……鈍って、ねえじゃねえか」
「お前もな」
恒一が手首を離すと、セリナは起き上がりざまに、拳を恒一の胸に叩きつけた。
痛かった。思ったより、ずっと。
「遅ぇんだよ」
もう一発。もう一発。胸の同じ場所を、拳が何度も叩く。恒一は避けなかった。
「どれだけ待たせやがった。この、馬鹿」
声が、途中で崩れた。
拳が止まった。恒一の胸の上で、握ったまま震えていた。
「……悪い」
「悪いで済むか」
「済まねえな」
「……済まねえよ」
額が、とん、と恒一の肩に乗った。拳がほどけて、恒一の上着をつかむ。皺になるほど、強く。
恒一は、その背中に腕を回した。力の加減が分からなかった。壊しそうで、でも離したくなかった。
大きな尻尾が、恒一の脚にばさりと巻きついた。
「……三年だぞ」
くぐもった声が言った。
三年。
恒一の腕が、一瞬止まった。
――こっちでも、三年。
「毎日、数えてた。毎日」
「……ああ」
恒一はそれ以上、何も言えなかった。
「セリナ」
名前を呼んだ。三年間、口の中でだけ何度も呼んだ名前だった。
【三年】
木々のあいだから、六人が出てきていた。
全員、聞いていた。
三年。
最初に声を出したのは玲奈だった。手帳を開いたまま、ページは見ていなかった。
「……一対一?」
「玲奈?」
「前は、日本の二週間が、こっちの五年だった。今回は、日本の三年が、こっちの三年。比率が全然違う。……仮説、全部書き直し」
いつもより早口だった。
莉子が、両手で口を押さえていた。
「あの子」
声が震えた。
「三年分、大きくなってる。私のこと、覚えてるかな。もう背、抜かれてるかも」
澪は何も言わずに、莉子の背中をさすった。さすりながら、自分の唇をきゅっと噛んでいた。
琴音は、空を仰いでいた。
「……三年、休符」
ぽつりと言う。
「長すぎる。曲、忘れられちゃう」
伊織は頭をかいた。
「三年分、何が起きたか、あたしたち何も知らないってことだよね」
誰も、すぐには答えなかった。
朔だけが黙っていた。
三年。あの人も、あの場所も、三年。
朔は拳をゆっくり握って、それから開いた。
「……全員」
六人が朔を見た。
「三年分、取り返す。順番に、一個ずつ」
朔は、まだ恒一にしがみついているセリナの背中を、顎で示した。
「一個目は、もう取り返した」
伊織が、鼻をすすった。
【火】
セリナの住処は、岩棚の上の浅い洞穴だった。
床に、鹿の毛皮が二枚。壁ぎわに鉄の小鍋と、獣の角を削った杯。天井からは、干した薬草の束がいくつも吊るしてある。使いこまれた長弓と、羽根をそろえた矢筒。洞穴の入口からは、森と、その向こうの草原と、夕日に染まる遠い川まで見渡せた。冬を何度も越してきた人の、無駄のない住まいだった。
焚き火を囲んだ。
セリナは、恒一の隣に座っていた。肩がくっついている。本人は、たぶん気づいていない。
「で」
澪が、膝の上で頬杖をついてセリナを見た。
「三年、ずっとここで待ってたの?」
セリナは、火を見たまま答えた。
「……待ってねえ。住んでただけだ」
「この森に」
「獲物が多い」
「恒一くんが消えた場所の、一番近くの森に」
「……獲物が、多い」
澪はそれ以上訊かなかった。少しだけ笑って、恒一のほうを向いた。
恒一は黙って、薪をくべた。耳まで赤かった。
莉子が荷から、焼いたパンを出した。日本で焼いた最後のパンだ。少し固くなっていた。
それを、八つに割った。
「はい。セリナさんも」
セリナはパンを受け取って、しばらく眺めていた。匂いを嗅いで、ひと口かじる。
もうひと口。
「……うめえ」
「でしょ」と莉子が笑った。「日本の小麦。こっちのより、ちょっと甘いの」
食べ終わると、セリナが立ち上がって、恒一の外套の襟をつかんだ。
「来い」
「は?」
「見回り。罠」
「今か」
「今だ」
セリナは恒一を引きずるようにして、洞の外の暗がりへ出ていった。
暗がりの向こうで、何かがつまずく音と、セリナの短い舌打ちがした。
琴音が、くすっと笑った。
【見張り 朝倉朔】
夜半、朔は洞の入口で見張りをしていた。
森は、星の下で静かだった。空には、日本では見たことのない数の星が、こぼれるように瞬いている。どこかで、夜の鳥が一度だけ鳴いた。
背後で、干し草のこすれる音がした。
伊織だった。毛布を肩にかけて、朔の隣にどさっと座る。
「交代、まだだぞ」
「知ってる。寝れないだけ」
伊織は膝を抱えた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……ねえ」
「ん」
「昼間さ。指、絡めたじゃん」
朔の心臓が、一回、余分に打った。
「あれ、たまたま? それとも」
伊織はそこで止めた。膝に顎を乗せて、朔を横目で見る。
星明かりで、伊織の目が、濡れたように光っていた。
「あたし、日本で三年、ずっと我慢したんだけど。最初は美咲さんがいたし、そのあとは、待つって決めたから。……分かってたから。まだ、あたしの番じゃないって」
伊織の声が、少しかすれた。
「でも、もう日本じゃないじゃん」
朔は伊織を見た。伊織は目をそらさなかった。
「……たまたまじゃない」
朔は言った。自分の声が、思ったより低かった。
伊織の目が見開かれた。
それから伊織は毛布を放り出して、朔の胸ぐらを両手でつかんだ。
「言ったね」
「言った」
「取り消し不可だからね」
伊織が顔を寄せた。
唇が触れた。
乱暴で、不器用で、少し歯がぶつかった。
伊織は離れなかった。
朔の手が、伊織の背中に回る。伊織の体温は、毛布より、焚き火より熱かった。三年分の熱だった。
伊織の指が、朔の襟の中にすべりこんだ。
朔は、その手首をそっとつかんだ。
「……伊織」
「なに。今いいとこ」
「見張り中だ」
伊織は朔の胸に額を押しつけて、長く息を吐いた。
「分かってる。分かってるけど」
それから、朔の肩に軽く歯を立てた。
「続き。……絶対だからね」
【翌朝】
朝、洞穴の前で、莉子がセリナの鉄の小鍋を借りて、干し肉と野草のスープを温めていた。朝日が森の梢を金色に縁取って、鍋の湯気がその中をのぼっていく。
伊織は、朔と目を合わせなかった。
朔が「おはよう」と言うと、伊織は「……おはよ」とだけ返して、背を向けて薪を割りに行った。
薪割りの音が、やけに力強かった。
澪が木の器を両手で持ったまま、伊織の背中と朔の顔を、交互に眺めていた。
それから朔の隣に来て、声を落とした。
「伊織、今朝、一回も朔くんのほう見てないね」
「……そうか?」
「そうだよ」
澪はスープをひと口飲んだ。
「私、順番は守る人だから。日本でも、ずっと守ってた」
朔のほうを見ずに、続ける。
「でも、順番が来たら遠慮しない。……それだけ、覚えといて」
朔は、何も言えなかった。
琴音は少し離れた岩の上で、膝を抱えて、全部を聞いていた。聞こえてしまうのだ。昨日の夜も、今朝も。
琴音は空を見上げた。
「……みんな、テンポ速すぎ」
それから、誰にも聞こえないくらいの声で付け足した。
「私だって、待ってたのに」
【商売】
恒一とセリナは、日が昇りきってから戻ってきた。
二人とも、髪に葉っぱがついていた。
誰も、何も訊かなかった。伊織だけが、口笛を吹きかけて、澪に脇腹をつつかれた。
出発の支度をしながら、朔はセリナに訊いた。
「この先の町のこと、教えてほしい。三年で、何が変わったか」
セリナは弓の弦を張り直しながら、少し考えた。
「リーヴェルは、ある。前と同じ所に。……でかくなった」
「でかく?」
「人が増えた。冒険者も。ギルドの建物も、前の倍ある」
セリナが弦を指で弾くと、澄んだいい音がした。
それから、朔を見た。琥珀色の目が、少しだけ細くなる。
「覚悟しとけ」
「何を」
「町じゃ、今」
セリナは、七人をひとりずつ見た。口の端が、意地悪く上がっていた。
「『七人』の名前は、ちょっとした商売になってる。……たぶん、笑うぞ」




