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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第2章
37/57

第37話「帰還」

2章始まりです

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第37話「帰還」


【着地】


まぶたの裏が、白から金色に変わった。


目を開けると、空がとんでもなく高かった。


日本の空より、ひと回りもふた回りも青い。薄い雲が、ずっと上のほうを東へ流れていく。地平線から昇ったばかりの朝日が、見渡すかぎりの草原を、金色の波のように撫でていった。


草の匂い。土の匂い。それから、日本にはない、蜂蜜を少し焦がしたような甘い風の匂い。


遠くの丘の上で、風車が一基、ゆっくり回っていた。白い帆布の羽根が朝日を受けて光る。そのふもとから白っぽい街道が一本、うねりながら地平線まで延びていた。頭の上を、ひばりに似た鳥が高い声で鳴きながら横切っていく。


「……帰ってきた」


声に出したとたん、喉が震えた。朔は外套の胸に手を当てる。内ポケットで、母がくれた古い写真の角が指に触れた。ちゃんとある。


隣で、誰かが盛大にくしゃみをした。


伊織(いおり)だった。草の上に大の字に寝転がったまま、空を見上げている。


「……ほんとに来ちゃった」


そう言ってから、ジャケットの前をかき合わせた。


「てか、寒っ」


玲奈はもう体を起こして、荷を一つずつ確かめていた。


「私の分は全部ある。朔、恒一、莉子は?」


「ある」


「あるぜ」


「ある。パンも潰れてないよ」


玲奈は手帳を開いて、短く書きつけた。


「身につけている物は渡る。……仮説のまま。でも、今のところ外れてない」


澪は立ち上がって髪についた草を払うと、全員の顔を順に確かめていった。顔色、息、手の震え。日本の三年間、誰にも気づかれないように続けてきた癖だ。


莉子の目が赤かった。


「泣いてないからね」と莉子が先に言う。


「うん、知ってる」と澪は笑った。


琴音(ことね)は、と振り返ると、草原の真ん中にひとりで立っていた。目を閉じて、風を聞いている。


「……音が違う」


ぽつりと言って、琴音は目を開けた。


「日本の朝って、ずっと低い音が鳴ってるでしょ。車とか、冷蔵庫とか。ここはそれがない。全体のキーが、半音高い」


それから、少しだけ笑った。


「いい音」


「全員、いるな」


最後に起き上がった恒一が、七人をひとりずつ数えていた。首に下げた革紐の先で、牙の欠片が揺れている。


「いる」と朔は答えた。


七人。ひとりも欠けていない。


胸の奥で、三年間固く結んでいた何かが、するりとほどけた。


そのとき、恒一の顔つきが変わった。


【狼騎兵】


「……悲鳴だ」


恒一が丘の向こうを向く。一拍遅れて、朔にも聞こえた。人の叫び声と、馬のいななき。それから、甲高い笑い声のような、きいきいと耳に障る声がいくつも。


七人は丘を駆け上がった。


見下ろした窪地に、荷馬車が三台、円を組んでいた。隊商の野営地だ。幌には赤い車輪の印が大きく描かれ、荷台には色とりどりの布の束や、磨いた銅の鍋や、ガラス瓶を詰めた木箱が積み上げられている。焚き火の煙が、まだ細く上がっていた。


その円のまわりを、土煙が回っていた。


大きな灰色の狼だった。子牛ほどもある狼が二十頭ほど、荷馬車の円をぐるぐると回りながら走っている。その背に、緑がかった肌の小柄な乗り手がひとりずつ。ゴブリンだ。片手で狼の首の毛をつかみ、もう片方の手で短弓を引いたり、槍を突き出したりしている。


円の内側では、毛織りの胴着の護衛たちが丸い木の盾を並べていた。でも、狼の速さに槍が追いつかない。突き出したときには、もう狼は通り過ぎている。盾の隙間から飛んできた矢で、ひとりが肩を押さえて車輪にもたれていた。


「狼騎兵か」


恒一が、ひと目で言った。


「二十。旗持ちの後ろの、赤い羽根を頭に挿したやつが頭だ。弓が六、あとは槍」


朔は、それだけ聞けば十分だった。外套を脱いで、草の上に置く。


右手が、腰の左へ伸びかけて、止まった。五年間、戦う前には必ずそこへ行った手だった。指が、何もない空気をつかむ。


「いつものやり方で。見積もり、三分」


説明は、それだけだった。


六人が、ばらばらの方向へ散った。誰も、誰がどこへ行くのかを訊かなかった。


【一小節】


琴音が、丘の上に残って息を吸った。


歌と呼べるのかどうか分からない、長く低い、ひとつの音だった。けれどそれは、窪地いっぱいに広がっていった。


空気が震える。朝の光の中で、音の輪が銀色にきらめいて見えた。風もないのに、草原が一斉に同じ方向へ波打っていく。


二十頭の狼が、一斉に耳を伏せた。


狼は、耳がいい。いいぶん、この音には逆らえない。走っていた脚が、もつれるように止まる。背の上のゴブリンたちが、つんのめって前へ投げ出されそうになり、狼の首にしがみついた。


止まった騎兵は、ただの的だった。


一小節。四拍。


「伊織」


呼んだときには、伊織はもう丘を駆け下りていた。


速い。


伊織の後ろで、草が巻き上がる。脚から肩へ、肩から拳へ、熱が集まっていくのが朔には見えた。伊織のまわりだけ、空気が夏の陽炎のように橙色に揺れている。


伊織は、乗り手を見なかった。


狙うのは狼の前脚だけだ。すれ違いざまに一頭、低い回し蹴りで脚を払う。狼がもんどりうって転がり、背のゴブリンが草の上に放り出される。次の一頭は、拳で肩を打ち抜く。また転がる。また放り出される。


「狼を落とせば、乗り手は勝手に転ぶ」


伊織は走りながら、誰にともなく言った。三頭目、四頭目。草の上に転がったゴブリンたちが、目を回して起き上がれずにいる。


体が覚えていた。三年間、誰にも向けずにいたのに。伊織の口の端が、勝手に上がっていく。


丘の上の低い音が、途切れた。


狼たちが我に返る。円の向こう側にいた騎兵が六騎、まとまって伊織の背中へ向きを変えた。弓を引き絞る音。


その騎兵たちの先頭、ひるがえる旗の竿が、青白い閃光の中で真っ二つに裂けた。


丘の上で、玲奈が右手を突き出していた。人差し指の先から走った細い雷は、旗だけを正確に撃ち抜いていた。燃え落ちる旗を見て、六騎のゴブリンたちがいっせいに顔を見合わせる。


「旗が落ちると、迷う」


玲奈は、手帳から目を上げずに言った。


【柵】


迷った六騎のかわりに、別の八騎が、荷馬車の円の切れ目へまっすぐ突っこんできた。


その先には、矢を受けて倒れた護衛がいる。


莉子が、その前にしゃがみこんでいた。両手を地面について、小さく言う。


「ごめんね。ちょっと借りるね」


たぶん、草に言ったのだと思う。


地面から、緑が噴き出した。


腕ほどの太さの蔓が何本も、莉子の手もとから伸び上がる。それが編み籠のように絡み合って、一瞬で、円の切れ目に一枚の柵ができあがった。


全速力の八騎が、まとめてその柵に突っこんだ。


蔓がたわんで、受け止めて、きゅっと締まる。狼もゴブリンも、蔓の網にからめとられて、宙づりになってじたばたした。


柵のあちこちで蔓の先がほころび、白い小さな花が、ぽんぽんと咲いた。


莉子は立ち上がって、手の土をはたいた。


「うん。三年ぶりにしては上出来」


柵の内側では、澪がもう護衛のそばに膝をついていた。最初の十秒で、ここまで来ていたのだ。


「はい、動かないで。ちょっと沁みるよ」


肩の矢を一息に抜いて、すぐに手のひらを当てる。木漏れ日のような淡い光の下で、傷が端から縫い合わされるように閉じていった。


「はい、おしまい。跡も残らないから安心してね」


護衛は口を開けたまま、自分の肩と澪の顔を交互に見ていた。


右の岩陰からは、弓のゴブリンが四騎、柵の上から矢を射こもうとしていた。


その四騎が、ひとつずつ、岩陰に引きこまれるように消えた。


少しして、恒一が岩陰から出てきた。手には、へし折られた短弓が四本。


「弓、片付いた」


【赤い羽根】


残ったのは、頭だけだった。


ひときわ大きな黒い狼にまたがった、赤い羽根のゴブリン。仲間が転がり、宙づりになり、弓を折られていくのを見て、黄色い目をぎらつかせていた。


頭は、逃げなかった。


狼の腹を蹴った。黒い狼が地面を蹴る。まっすぐ、丘の斜面を下りてきた朔へ。


ゴブリンの槍の穂先が、朝日にきらりと光った。


朔は止まらなかった。首の後ろがちりちりする。――槍は、右の胸。狼は、その半歩あとに左から噛みにくる。


五年間、何度もこの感覚に命を拾われてきた。考えるより先に、体が知っている。


半歩だけ、右へずれた。槍の穂先が、さっきまで胸があった場所を突き抜けていく。噛みついてきた黒い狼の鼻先を左の手のひらで押しのけ、その勢いのまま、右の拳を狼の首の付け根へ叩きこんだ。


拳の中で、熱が弾けた。


黒い狼が横倒しになる。投げ出された赤い羽根のゴブリンが、草の上を二度、三度と転がって、ぴたりと止まった。目を回していた。


窪地に、静けさが戻ってきた。


宙づりの八騎がもがくのをやめ、転がされたゴブリンたちがよろよろと起き上がる。頭が倒れているのを見ると、甲高い声を上げて、狼の背に這い上がり、丘の向こうへ逃げていった。南のほうへ。


朔は拳を開いて、閉じた。


「玲奈。何分」


「二分四十秒」


玲奈が手帳から顔を上げる。


「見積もりより二十秒早い。……一回だけなら、偶然」


その声がほんの少し弾んでいるのを、朔は聞き逃さなかった。


【赤い車輪】


荷馬車の陰から、しばらく誰も出てこなかった。


やがて、一番大きな荷馬車の幌がそろりとめくれて、女がひとり降りてきた。四十がらみで、日に焼けた顔に、編んだ栗色の髪。革の胴着の腰に短剣を差している。この隊商を率いる女商人らしい。


女は窪地をぐるりと見渡した。目を回したまま置き去りにされた赤い羽根のゴブリン。蔓の柵に宙づりのまま、もがく元気もなくした狼たち。一方向へなぎ倒された草。白い花の咲いた柵。傷の消えた護衛の肩。


最後に、七人を見た。


「……あんたたち、何者?」


朔は少し考えた。本当のことを言っても信じてもらえないだろうし、嘘をつく気もない。


「ええと……通りすがりです」


女は眉を寄せたが、それ以上は訊かなかった。倒れた頭にもう一度目をやって、長い息を吐く。


「狼騎兵はね、この街道で一番厄介な連中なの。足が速くて、逃げても追いつかれる。護衛が十人いたって、半分はやられる。普通は、荷を半分投げて、その隙に逃げるのよ」


それから、七人をゆっくり見回した。


「それを、朝ご飯の前にあっさり」


「まだ食べてないです、朝ご飯」と莉子が言った。


女はぷっと吹き出した。張りつめていた糸が切れたみたいに、肩を揺らして笑う。


「なら、食べていって。命のお礼。マルタの煮込みはこの街道で一番だって、通る商人はみんな言うんだから」


その声を合図に、荷馬車の陰から商人や護衛たちがわっと出てきた。


【指】


焚き火の上に鉄の三脚が立てられ、黒い吊り鍋がかけられた。荷馬車からは丸い黒パンと、布にくるんだチーズの塊と、葡萄酒の革袋が次々に下ろされてくる。


商人たちは遠巻きに七人を眺めながら、興奮を隠しきれない声で話していた。


「見たか。あの人たち、狼騎兵を……なんて言うか、片付けてた。掃除みたいに」


「誰も、どこへ行けって言われてなかったぞ。なのに、全員が一番いい場所にいた」


「蔓に花が咲いたんだ。戦いの最中に、花が」


「傷が消えた。矢の傷が、本当に、きれいに消えたんだよ」


商人の小さな娘が、蔓の壁から白い花を一輪つんできて、恥ずかしそうに莉子に差し出した。莉子は目を丸くしてから、それを自分の髪に挿して、にっこり笑った。


伊織は焚き火から少し離れた石に腰かけて、右の拳を眺めていた。狼の肩を打ち抜いた拳だった。指の付け根に、乾いた血と、灰色の毛がこびりついている。狼の血だった。伊織の皮は、一枚もめくれていない。打つ瞬間に、拳へ熱を集めて固める。指を締めて、硬い骨を外す。五年間、毎日そうやって打ってきた。


「見せろ」


朔が隣にしゃがんだ。


「平気。あたしの血じゃないし」


「いいから」


朔は伊織の手首を取った。


伊織の手が、ぴくっと跳ねた。


朔は気づかないふりをして、拳を自分のほうへ引き寄せる。水筒の水を、少しだけ拳にかけた。乾いた血が、指のあいだを流れ落ちていく。


伊織はそっぽを向いていた。耳が赤い。


「……ねえ」


「ん」


「手、触んの。三年ぶりじゃない?」


朔の手が止まった。


日本では、触れなかった。触れないようにしていた。美咲がいたから。それ以上に、触れたら戻れなくなると分かっていたから。


「……そうだな」


「あたし、カウントしてたんだよね。勝手に」


伊織はまだ、そっぽを向いたままだった。


「千何日目かで、やめたけど」


朔は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。代わりに、伊織の手を少しだけ強く握った。


伊織の指が、朔の指にそっと絡んだ。


一瞬だけ。


「伊織」


澪の声だった。


澪が二人の前にしゃがむと、伊織はぱっと手を引っこめた。


「手。見せて」


澪は伊織の手を、自分の両手で包んだ。指を一本ずつ曲げさせて、付け根を親指で押していく。伊織は顔をしかめもしなかった。


「はい、なんともない」


それから澪は、朔のほうは見ないまま立ち上がった。


「……朔くんの手も、あとで見るね」


声はいつもどおりやわらかかった。ただ、最後の一言だけ、そこに置いていくような言い方だった。


朔は黙って、吊り鍋のほうに目をやった。


焚き火の向こうで、琴音がこっちを見ていた。目が合うと、すっとそらして、小さな声で言う。


「……テンポ、速すぎ」


誰に言ったのかは、朔にも分かった。


【匂い】


煮込みは、たしかに街道一だった。


燻した豚肉と豆と玉葱を、赤い葡萄酒でことこと煮てある。そこに、知らない香草がひとつ。莉子は木の匙でひと口すくって目を丸くすると、マルタに香草の名前を訊いて、ちぎった黒パンで器の底まできれいに拭った。


伊織は二杯目をよそってもらっていた。玲奈は手帳を膝に置いたまま、黙々と食べている。琴音は焚き火のはぜる音に耳を傾けて、小さく笑っていた。肩を治してもらった護衛は澪の隣から離れようとせず、さっきから三回も礼を言っている。


朔は、自分も笑っていることに気づいた。


日本で、七人でこんなふうに声を出して笑ったことがあっただろうか。三年のあいだ、誰かが笑うたびに、誰かが少し遠い目をしていた。


今は、誰も遠くを見ていない。


恒一だけが、器に手をつけていなかった。


焚き火から離れて、窪地の縁に立っている。北のほうを向いていた。


朝日を浴びた森が、遠くに濃い緑の帯になって横たわっている。その向こうに、頂に雪を残した岩の山並み。


風が、そっちから吹いてきていた。


「恒一?」


朔が声をかけても、恒一は振り向かなかった。


鼻が、ひくりと動く。もう一度。


恒一の手が、首の革紐の牙の欠片を握りしめた。


「……あいつの匂いだ」


声がかすれていた。


「間違いねえ。あいつが、あの森にいる」

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