第36話「一人ずつ」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第36話「一人ずつ」
【21:47 山のキャンプ場】
ざー、という音は、もう、止まらなかった。
焚き火の上の空間が、ゆっくりと、揺れはじめた。何もないはずの夜の空気が、水面のように波打つ。炎の色が、その波に、淡く溶けていく。
あの夜は、勝手に引かれた。
今夜は、違う。
七人は、自分の足で、そこへ向かう。
カメラの向こうで、コメント欄が、ざわめいていた。
『なに、これ』『あの夜と、同じ』『行かないで』
「……順番に、行こう」と朔が言った。「一人ずつ。自分の意思で」
七人は、頷いた。
【恒一】
最初に立ち上がったのは、恒一だった。
焚き火の前に立って、革紐に通した牙の欠片を、強く握る。それから、七人を、順番に見た。
「先に、行ってる」
「ああ」と朔。
「待ってるって、言いたいけど、……あいつの顔、早く見たいんだ」
恒一は、笑った。揺れる空間に、右手を伸ばす。
「セリナ」
その名を、短く呼んだ。そして、一歩、踏み出した。
背中が、光の波に、溶けた。折りたたみ椅子だけが、焚き火の前に、ぽつんと残った。
【伊織】
「次、あたし」
伊織は、立ち上がって、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。それから、小さく、カメラの方を振り向いた。
「怖いけどね」
画面の向こうの、誰かに向けて、はっきり言った。
「でも、行く」
伊織は、前を向いた。波の中に、まっすぐに、足を踏み入れた。後ろ姿が、ふっと、光に消えた。
【琴音】
琴音は、立ち上がって、目を閉じた。口から、小さな旋律が、こぼれた。誰にも聞こえない、静かな歌。
「みんな、先に行ってるよ」
歌いながら、琴音は、歩き出した。声が、空気に溶けていく。歌の終わりの一音が、波の向こうへ、消えた。
【玲奈】
「……分からない」
玲奈は、ポケットの紐を、そっと握った。
「でも、行く」
声は、静かだった。それから、雅人のいる夜空に向かって、ほんの少し、頭を下げた。
玲奈は、波の中へ、歩き出した。
【澪】
「私は、こうしたい」
澪は、立ち上がって、そう言った。声が、震えていなかった。
「ずっと、言えなかったこと。今は、言える」
指先に、淡い熱が灯った。澪は、それを、胸に押し当てて、微笑んだ。
「いってきます」
光の中に、澪の姿が、静かに、ほどけた。
【莉子】
「……ありがとう」
莉子は、籠の中のパンを、一つ、焚き火の前に置いた。
「航くんに、もう、焼いてあげられなくて、ごめんね。……元気で」
小さな声が、夜風にまぎれた。莉子は、涙を拭って、顔を上げた。
「……怖いよ。まだ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。足が、少しだけ、震えていた。
「でも、私、決めたから」
莉子は、ぎゅっと、拳を握った。それから、波の中に、一歩、踏み込んだ。足元から、光が、莉子を包んだ。
【朔】
最後に、一人、残った。
焚き火の前に立つ朔の周りには、六つの空っぽの椅子が、並んでいた。
朔は、カメラの前に、歩み寄った。画面の向こうに、数万人の視線があった。その向こうに、母がいて、美咲がいて、航がいて、高城がいて、千鶴がいて。
朔は、小さく息を吸った。
「……ありがとうございました」
それから、少しだけ、笑った。
「いってきます」
コメント欄が、静かに、止まっていた。やがて、一行が、流れた。無地のアイコン。
『いってらっしゃい』
朔は、それを、読んだ気がした。そして、背を向けた。
波の手前で、足が止まった。
ポケットの中の、古い写真を、上から押さえる。ここに、残れる。今なら、まだ。そんな考えが、一瞬だけ、よぎった。
朔は、目を閉じた。母の声。美咲の声。仲間たちの、足音。それから、門の向こうの、あの声。
全部が、胸の中にあった。日本を、捨てるわけじゃない。好きなまま、行く。
焚き火が、ぱちりと、鳴った。
「……帰るよ」
誰にともなく、そう呟いて、朔は、波の中へ、歩み入った。
光が、全身を、包んだ。ざー、という音が、遠ざかっていった。
【21:48】
焚き火の前に、七つの椅子が、並んでいた。誰も、座っていなかった。
カメラは、静かに、その光景を、映し続けた。
コメント欄は、しばらく、動かなかった。それから、少しずつ、言葉が、流れはじめた。
『いってらっしゃい』
『ありがとう』
『ずっと、待ってる』
画面の隅の時計が、動いた。
あの夜と、違っていた。今度は、七人が、自分で、選んで、渡っていった。
配信は、静かに、終わった。
第一章 おわりです




