第33話「それぞれの、さよなら」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第33話「それぞれの、さよなら」
【三年目の秋 朝倉朔】
実家の食卓には、いつもの肉じゃがが並んでいた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
母は、箸を取らずに、朔が食べる様子を眺めていた。朔は、ひと口食べて、箸を置いた。
「母さん」
「なあに」
「俺、行くことにした」
母の手が、一瞬だけ止まった。
「……どこに」
「遠い、ところ。連絡は、できないと思う」
「電話も」
「うん」
「手紙も」
「……分からない」
母は、しばらく黙っていた。それから、静かに箸を取って、肉じゃがを口に運んだ。
「やっぱりね」
「え」
「あんた、ずっと、どこか行きそうな顔してたもの。二週間いなくなって、帰ってきてから、ずっと」
母の目が、少し赤かった。それでも、笑っていた。
「止めても、行くんでしょう」
「……ああ」
「なら、止めない。……止めたいけど、止めない」
母は、箸を置いて、立ち上がった。奥から、一枚の写真を持ってきた。朔が小学生のとき、家族で撮った、色あせた写真だった。
「これ、持っていきなさい。一枚だけ」
「母さん」
「何も持っていかないより、いいでしょ」
朔は、写真を受け取った。指が、震えていた。
「……ありがとう」
「いってらっしゃい」
その一言に、朔は、頭を下げたまま、動けなかった。
【同じ週 水城澪と桐谷真帆】
「全部、話す」
澪は、真帆の部屋のソファで、膝を揃えて言った。真帆は、黙って頷いた。
「信じてもらえないと、思う。でも、聞いてほしい」
澪は、ゆっくりと話した。七人が、どこにいたのか。何があったのか。誰を助けて、誰を助けられなかったのか。
真帆は、一度も、遮らなかった。途中で、一度だけ、立ち上がって、お茶を淹れ直した。手は、止まらなかった。
「……私ね、向こうで、人が死ぬのを、何度も見たの」
「うん」
「助けられなかった人の手が、冷たくなっていくのを。……ずっと、思い出す」
澪の声が、震えた。真帆は、何も言わずに、澪の手を握った。
「怖かった」
「うん」
「でも、あの人の家族に、会いに行きたいの。ちゃんと」
真帆は、長い間、黙っていた。それから、澪の肩に、片手を置いた。
「……全部は、まだ、飲み込めない。でも、信じる」
「……真帆」
「澪が、嘘ついたことなんて、一度もないもの。『大丈夫』以外は」
二人は、冷めたお茶を、同時に飲んだ。
「……いってらっしゃい、は、まだ言えない」と真帆は言った。「今言ったら、本当に行っちゃう気がするから」
澪は、何も言えなかった。
「でも、約束して。向こうで、ちゃんと、『大丈夫じゃない』って言える人を、見つけて」
「うん」
「言えたら、それが、私への、手紙」
澪は、頷いた。帰り際、玄関で、真帆は、澪の上着の襟を、無言で直した。「いってらっしゃい」は、最後まで、言わなかった。
【同じ週 白川玲奈と三枝透】
「お別れですか」
三枝の研究室で、お茶を一口飲んでから、彼は静かに言った。玲奈は、少し驚いて、顔を上げる。
「……分かりますか」
「分かります。あなたの顔が、決まっていたので」
「そう」
玲奈は、ふっと笑った。氷の写真が、壁一面で、青く光っていた。
「紐は、切れませんでしたか」
「切るんじゃない」玲奈は、静かに答えた。「結び直す、んです」
「結び直す」
「引っ張られて、ここに戻ってきた。今度は、自分で、向こうへ、結び直す」
三枝は、少しの間、黙っていた。それから、机の引き出しを開けて、あの紐を取り出した。
「差し上げます」
「え」
「証にはならないでしょう。でも、持っていてください。……私が、あなたの話を、信じていた証として」
玲奈は、紐を受け取った。思ったよりも、軽かった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「戻ってくる気は、ありますか」
玲奈は、少し黙ってから、答えた。
「……ないと、思います」
「そうですか」
三枝は、湯呑みを置いた。その音が、思ったより、大きく響いた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
三枝は、穏やかに微笑んだ。その笑顔の奥に、一瞬、何か別のものが、揺れた気がした。玲奈は、それを見ないふりをした。
【同じ週 小鳥遊莉子】
「そう。……分かったわ」
店長は、莉子の話を聞き終えて、ゆっくりと頷いた。莉子は、頭を下げたまま、動けなかった。
「ごめんなさい。せっかく、店を」
「謝らなくていいのよ」
店長は、莉子の肩に、そっと手を置いた。
「あなたが選んだことでしょう。なら、それで、いいの」
「店長」
「……本当はね、ちょっとだけ、怒ってるのよ」
店長は、笑いながら言った。目だけが、笑っていなかった。
「継いでほしかったんだもの」
「……はい」
「だから、ただし」
店長は、少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「最後に、うちの厨房を貸すから。七人分、パンを焼いていきなさい」
「……はい」
莉子は、笑おうとして、うまく笑えなかった。それでも、エプロンの紐を、強く結んだ。
【夜 カレンダー】
その夜、七人は、それぞれの部屋で、壁のカレンダーに、同じ日付を、丸で囲んだ。
あの夜から、ちょうど、三年。
七つの丸が、静かに、七つの部屋に、灯った。




